第42話 みているもの
リトは突然現れた少女に手を引っ張られていた。
二人は河川敷の斜面を駆け上がり、道路を横切って、住宅街へと逃げていった。
少女は適当な路地裏に入り込んだ。そこでようやく、彼女はリトの手を離した。
その瞬間、リトは地面に手をついて咳き込んだ。
「あ⋯⋯ごめんなさい。必死になって、逃げちゃって⋯⋯」
少女の声が近くで聞こえた。しゃがみこんでいるらしい。リトの視線は地面に向けられたままだった。
「げほっ⋯⋯っ⋯⋯は、はぁ⋯⋯」
喉の奥が痛い。込み上げて来る唾液は鉄の味がした。
何度も何度も息を吸っては吐いた。
しばらくそうしていると、なんとか、呼吸が落ち着いた。
「⋯⋯あの、ありが、とう、ございます⋯⋯」
まだ喉が痛む。それでも、リトは少女に感謝を伝えた。
「こっちこそ、ごめんなさい。⋯⋯見ていられなくて。それで、連れ出してしまって」
言葉はそこで途絶えた。
リトは少女の言葉を待った。けれど彼女は言葉を続けなかった。
いや、何か言おうとしているのがわかるくらい、目が泳いでいたけれど。
リトもつられて目を逸らしてしまった。
その時、少女は唐突に口を開いた。
「⋯⋯私はハルっていいます! あ、あなたのお名前は⋯⋯!?」
リトは、少女の言っていることをまとめようとした。
彼女の名前はハル。そしてリトの名前を訊いている。
⋯⋯それだけ?
「あ、はい。リト、です」
「リトさん! もう安心してください! 私がまもります、から⋯⋯!」
リトの名前を聞いたというより、返事が返ってきたこと自体に反応したかのように、少女──ハルはテンプレートみたいな言葉を言った。
「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯はは」
リトは頬を緩めた。
「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
ハルの表情が固まっていた。その様子を見て、リトはなんとか笑顔を作った。
「⋯⋯ハルさん、ありかとうございます。でも、僕は大丈夫です。⋯⋯こんなの、慣れてますから」
リトはようやく立ち上がった。お尻についた汚れを軽くはたき落とした。
「さっきの奴らに見つかったら面倒だと思うので、気をつけてくださいね。あいつら、碌でもない奴らなので。次見つかったらどうなるか⋯⋯。それじゃあ、また──」
リトはハルを見て、落ち着いた声でそう言った。
「⋯⋯ちょっとまって!」
立ち去ろうとしたとき、ハルは声を上げた。
「え? まだなにか?」
「うん。⋯⋯その、ひとつだけ聞きたいことがあって」
ハルはリトに近づいた。
「⋯⋯あなたがいた映画館で、人が死んでいて。なにか知りませんか?」
リトの瞳が一瞬、揺れた。
リトはハルから一歩だけ、後ろに下がった。それを見て、彼女も一歩下がっていた。
リトは口を開こうとした。けれど、その前に一度だけ唾を飲み込んだ。
「⋯⋯ごめん、なにも知りません。途中で、映画がつまらなくて出てったから」
ハルの表情は少しも変わらなかった。
「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯わかりました。ありがとうございます。じゃあ、これで」
ハルはリトに背を向けて、数歩進んだ。
けれど、リトはハルに声を掛けた。
掛けてしまった。
「⋯⋯疑わないんですか? 殺人が起きたところに、僕がいた。僕が嘘を言っているかも──」
リトはそこまで言って口を閉ざした。
それと同時に、ハルは振り返っていた。
「だって、あなたは良い人に視えるから」
今度こそ、ハルはその場を立ち去った。
リトの右手が少しだけ動いた。けれどそこまでで止めた。
「⋯⋯⋯⋯」
リトも、その場を後にした。
◆◆◆
リトは自宅に戻った。
いつものように、いつもの調子で、いつもの声で「ただいま」と言う。
「おかえり、リト」
そんな母の声がリビングから聞こえた。
リトは玄関で靴を脱いで、そこへ向かった。
リビングには見慣れた机と椅子があった。母は椅子に腰を掛けて、コップに入ったお茶を飲んでいた。手元のお茶も、ほとんど減っていなかった。
「⋯⋯どうしたの、母さん?」
テレビは点いていた。そしていつもなら、母はテレビを見ていた。それか、昼食の準備をしているはずだ。
でも今日は違った。母は窓の外を見ていた。
「⋯⋯あんた、私に隠していることあるでしょ」
「⋯⋯え? なにいきなり。そんなことないけど」
「⋯⋯⋯⋯」
母はお茶を一口、飲んだ。
「まあ、言いたくないならいいけど。⋯⋯でもね、リト。母さんはあんたの味方だから」
母はテレビを見ながら言った。
リトは視線を落とした。
「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯うん」
リトの声は小さかった。
それから、母は椅子から立ち上がり、キッチンに向かった。エプロンをつけて、昼食の用意を──いつものように、するらしい。
「リナは昼食べてくるって。だから簡単なのしか作らないからね。⋯⋯ああ、あと、シャワーでも浴びてきなさい。ちょっと汚れてるわよ」
油の焼ける音がした。
リトは母の言うとおり、シャワーを浴びることにした。
そしてリビングの扉を開いたとき、リトは立ち止まった。
「⋯⋯母さん」
フライパンで肉を焼く音がする。
「なに?」
「⋯⋯ありがとう」
そそくさと、リトは浴室へ向かった。




