第40話 残痕
王都南部区域、その中心地から少し離れた場所。
そこは住宅地の多い、ごく普通の生活区域だった。
そこにある小さな映画館。
ただでさえ客足は少ないというのに、今日に至っては客の姿すらなかった。
理由は一つ。前日、劇場内で変死体が発見されたからだ。
「魔力は基本的に、空気中に離散するものだ」
絶妙に小さく、微妙に暗い通路に、ハルとライは立っていた。
「けれど、残痕は違う。見えるだろ?」
ライの言葉に、ハルは頷いた。彼女は目を凝らすまでもなく、通路に残る僅かな魔力を視認できた。
魔力そのものは空気中に簡単に逃げてしまう。
けれど、物体には残る。
魔法を使ったあと、魔力を放出したあとに周辺に残ったものは、特に残痕と呼ばれる。
「魔法を使ったのは劇場のはずですよね。どうして通路で⋯⋯?」
ハルは疑問をすぐに声に出した。
ライはその瞬間だけ、ほんの少し口角を上げた。
「良い着眼点だ。君はどう思う?」
「⋯⋯職業魔法使いなら、そもそも残痕は残しません。例えばここなら、通路はもちろん、現場であっても。つまり、犯人は魔法使いとしては素人、ということかと」
ハルの答えに、ライは頷いた。
「そうだな。だがそれだけとは限らない。そもそも、ただの素人が短時間でここまで濃い残痕を残すのは難しい。少なくとも二級以上だろう。──そうなると今度は、残痕を残すほうがおかしくなるがな」
ライは目を細めていた。
「⋯⋯あと、君はどうやら視えすぎているらしい」
「視え、すぎる?」
「ああ。君にははっきり魔力の残痕が見えているんだろうな。だが視えすぎているあまり、その密度を見誤っているのかもしれない」
ハルはライの言葉を噛み砕いた。
ハルには、僅かな残痕ですらはっきり視えてしまう。そのせいで、どの程度から濃いと判断すべきか、まだ基準を持っていなかった。
「まあこれは君の経験不足とやり方の問題だろう。なに、視えすぎるのなら、視えすぎないようにすればいいだけだ。目を細めれば視界がぼやけるのと一緒で、魔力を視る目も、細めればいい」
「ええ、はい。わかりました。頑張っていきます」
「その調子だ。さて、調査に戻ろう。次は現場だな」
ハルとライの二人は、立入禁止のテープを越えて、死体が発見された劇場の中に入った。
今まさに上映されているわけでもないのに、劇場内部は通路よりもさらに暗かった。照明そのものは生きていた。しかし、小さな劇場に並ぶ数少ない席の間には、暗がりが残っていた。
人のいない狭い空間には、妙な息苦しさがあった。
変死体はすでに検死に回されていて、実物はそこになかった。けれど二人は、死体が発見された一帯の席をまず調べ始めた。
「⋯⋯さすがに、私でもここの残痕が濃いことはわかります」
先程までの残痕が染みだとすれば、この一帯の残痕は、水がぶちまけられて、未だ乾いていないのと同じようなものだった。
「⋯⋯予想外だな。だが、これでハッキリした。ハル、わかるか?」
「はい。これは、あえてやっています。魔力を残すように魔法を使っていないと、こんなことにはならない。⋯⋯犯人は、どうしてこんなことを」
「それはわからないな」
ライはさも当然のように、そう答えた。
「⋯⋯まさか、俺がなんでもわかる便利屋だと思ってたか?」
「え、あ、はい」
「買い被り過ぎだ。わからないことはわからないし、というか、この程度の情報で何かわかるようなら、そいつは天才以上の鬼才だ」
ライは軽く笑いながら言った。
彼は席一帯を確認し終えると、通路へ出た。床、壁際、出入り口の順に視線を走らせた。
それから席の下側を確認するために屈んだりしたが、すぐに立ち上がった。
「⋯⋯血の一滴もないな。死体だけじゃなく、血痕まで片付けられたわけないと思うが」
「どういうことですか?」
「報告書の内容、覚えてるか? 死体の損壊は激しかった──そのわりには、血の一つも飛散してないのはおかしいだろう?」
「たしかに⋯⋯」
「ま、今ある情報だけで考えても答えは出ないな。死体もないし、めぼしい痕跡もこれくらいだ」
ライは踵を返した。
「現場の端から端まで全部調べる必要はない。調査活動では、切り上げるタイミングを見極めることも大切だ」
「はい。わかりました」
ライは劇場の出入り口に向かって歩き始めた。
ハルも彼に続いた。
現場での調査時間は十分も経っていなかった。ハルが思っていたよりずいぶんと早い切り上げだった。
ハルの足は、劇場から出る前に一瞬だけ止まった。彼女は、あの席のほうを振り返った。
「⋯⋯⋯⋯」
そして、すぐに外に出た。




