第4話 残ったもの
アルスは手を引かれて、通路を走っていた。
窓は一つもなく、照明も見当たらない。どこまでも暗かった。
変わり映えのない内装。いくつもある分かれ道。曲がり道はやけに長く、グルグルと走っているようで方向感覚を失いそうになる。
この場所に生活感はなく、住居というより迷路のようだった。
けれど、ライは一切の迷いなく道を選び、走っていた。
「上りの階段だ。躓くなよ」
ライは階段の前で一瞬だけ立ち止まり、そのことをアルスに伝えた。
そして、二人は階段を駆け上がる。
折り返し形状の階段だった。見上げても先が見えない。暗闇で蓋がされているようだ。
上り始めてしばらくして、アルスは気がついた。
傷一つなかった壁に亀裂が生じている。階段に瓦礫が転がっている。階段の一部が欠けている。
ライは、それらの障害物を避けるようにアルスの手を引いていた。
とはいえ、手を引っ張られている以上、走りづらいことには変わりない。
「ねぇ、もう一人で走れるから、手、離して」
「は?」
ライは急に止まる。アルスはもう少しで彼にぶつかりそうになった。
彼はアルスの方を振り返った。眉を顰めていた。
「⋯⋯見えて、いるのか。それで」
ライは目を細めて、低い声でそう言った。
「見えて?」
アルスは目元に触れる。
──布の感触があった。それは目元全体を覆っている。
見えるはずがなかった。
あの暗い通路も、階段も、壁の亀裂も。
そして、ライの顔も。
まるで違和感がなかった。自覚した今でさえ、それがおかしいとは思えない。
「なんで」
「⋯⋯知るか」
ライはアルスの手を離す。
再び、二人は階段を上り始めた。
上に行けば行くほど、壁の亀裂は増え、階段の損壊も酷い状態になっていった。でも、二人にとってその程度、障害にすらならなかった。
瓦礫の山を飛び越えたり、崩れ落ちた場所は壁をつたって進む。
それを繰り返し、ようやく、アルスたちは鉄の扉の前まで来た。
ライはその鉄扉を開いた。
壊れてはいるが照明がある。割れてはいるが窓がある。
外は夜らしく、僅かな月光が廊下に差す。
暗闇さえ見えていたアルスには、そこはハッキリ見えた。
見えて、しまった。
「⋯⋯っ!?」
赤い。
壁には死体がいくつも打ち付けられていた。
それらは切り刻まれてたり、四肢が、関節とは真逆に曲げられていた。
肉の断面や飛び出した骨。
彼らの身体はぐちゃぐちゃになっていた。
アルスは膝から崩れ落ちる。
ベチャリと、手のひらに血がつく。
でもそんなことは気にもならない。
「かっ⋯⋯」
アルスの目を釘付けにしたのは、それではなかった。
顔だ。
気持ち悪い。
ああ。
──全部、綺麗なままなんだ。
壊れなかったのではない。
壊さなかった。
アルスは見ないように背く。けれど、あの顔は脳裏に移っただけだった。
生前の苦痛に塗れた絶叫がそのまま遺された表情。
喉の奥が熱くなる。それはすぐに口を伝い、吐き出す。
内容物は何もなく、透明な液体だけが垂れる。
アルスは咳き込む。何も出ることはないが、気持ち悪さはいつまで経っても消えなかった。
「う、うぅ⋯⋯」
黒い目隠しが滲む。
苦しくて、嫌だ。
「⋯⋯全く」
アルスは何度も息を吸っては吐くことを繰り返す。
それでもうるさい心臓が収まることはなかった。
「早く行くぞ」
何とか顔を上げたアルスに、ライは助け起こそうともせず、言葉だけを投げ掛ける。
「⋯⋯むり、いわないでよっ! ⋯⋯こんなの、⋯⋯ひどすぎる⋯⋯」
アルスは膝をつけたままで、到底、動けたものではなかった。
ライは、今日何度目かになる溜息をついた。
「酷いからなんだ。ここで座っているだけで、あんたは生きて今日を終えられるのか?」
乾いてもいない。冷たくもない。
一瞬だけとはいえ、彼のその声は炎のようだった。
しかし、ただ、炎というには、あまりにも綺麗じゃなかった。
「いいか。あんたはここで死んではいけない存在だ。分かるよな?」
「でも⋯⋯!」
アルスは言おうとした言葉を、そこで飲み込んだ。
『怖い』『外に出たくない』なんて、それはただの我侭だ。
しかし、頭では分かっていても、体が動いてくれなかった。
感情が、納得してくれなかった。
「⋯⋯⋯⋯はぁ」
ライはアルスの手を握って、強引に引っ張ろうとする。
アルスは力なく、立ち上がる。
彼はすぐにアルスの手を離し、前を向く。前を向いたまま、彼は言う。
「行くぞ」
アルスは走り出すしかなかった。
玄関扉まではそう遠くないにも関わらず、時間がかかったように思えた。
ライは扉に手をかける。その時、止まる。
「一つ、忠告しておく」
ライの声が少しだけ低くなる。釘を刺すように。元の乾いた声に戻っていた。
「また吐いてくれるなよ」
扉は、開かれた。
夜の冷気と一緒に、血生臭さが鼻の奥を突き刺す。
胃がひっくり返りそうになる。
怖い。
それでも、アルスは外に出た。
「⋯⋯っ」
より強烈な死臭。
崩壊した王都。
石畳の上には、多くの死体が転がっていた。
でも、建物の中の死体とは違った。
アルスは口を押さえて、光景を飲み込む。
「⋯⋯これ、は」
頭にだけ穴が開いている死体。全身が潰された死体。真っ二つになった死体。
何か鋭利なもので切断されたような傷口もある。
強引に引き千切られたような傷口もある。
一つの凶器、一人の力じゃない。
殺し方が違う、ただそれだけ。
「人間じゃない。複数」
アルスはそう小さく呟いた。
吐き気がする。
でも、二度もアルスは目を背けない。
遠くで悲鳴が聞こえる。血の臭いが濃くなっていく。
今もなお、どこかで誰かが死んでいる。
「何が⋯⋯?」
アルスは言った。
「化物共による王都襲撃」
ライは淡々と、まるで映画の中の事でも説明するように答える。
その声色には、焦りも、怒りも、何も、なかった。
いいや、そうあろうとしているだけなのかもしれない。
「無差別に人を殺しているが、その目的は──」
ライはアルスの方に目をやった。
彼は何か続けようとしていたが、口を閉ざしていた。
でも、アルスにはそんなことどうでもよかった。
「──そう。なら⋯⋯」
気持ち悪さは、まだ残る。
けれど、それ以上に、アルスを動かすものがあったから。
彼女の声は自然と、少しだけ低くなる。
「助けなきゃ」
うるさい心臓の鼓動は、もう、収まっていた。




