第34話 日記
アルスはベッドの上に横たわる男の死体を見て、一瞬、止まった。
「動かない、よね?」
動く死体という魔物がこの世にはいると、アルスはレンテルで知っていた。
いつ動き出しても対応できるように、アルスは死体に近づいた。
「腐敗⋯⋯してない。それに臭いも、しない?」
死体の臭いを、あの惨劇の日から忘れたことはなかった。
しかし目の前の死体は違った。
血色が悪くなければ、眠っていると勘違いしていたかもしれない。
アルスは死体の首筋に触れた。脈はない。触れたことで死体が動くこともなかった。
「ごめんね、ちょっと調べさせてもらうよ」
アルスは死体が着ていた服のポケットを確認した。
胸ポケットに使い込まれたボールペンとメモ帳だけがあった。
「メモ⋯⋯魔法陣?」
何度も修正された跡のある、何かの魔法陣。少なくともアルスが学んだことのある魔法陣とは異なっていた。
他にも『生命の源泉』『時空異常』のような単語が、乱雑に書き殴られていた。
「⋯⋯よくわかんないや」
意味を考えても答えは出ないから、アルスはメモを閉じた。
それから、死体を観察した。
死体の状態は綺麗だった。外傷はなく、死因は分からなかった。
ベッドもそこまで汚いわけではなかった。シワや埃はあるものの、血液などが付着しているわけではなかった。
「⋯⋯⋯⋯」
違和感は残っていた。けれど、観察するだけでは、死体は腐敗していない、ということ以上の手掛かりは見つけられそうになかった。
アルスは死体から目を離し、机の方を向いた。
机の上には、照明や写真立てがあった。
写真立てには、生前の男が写った写真が収められていた。彼と、見知らぬ女性が座り込み、その二人の間に少年が立っていた。
アルスは写真立てに触れることはなく、机にいくつかあった引き出しを見た。
アルスは一番上の引き出しを引いた。
「これは⋯⋯ノート? 日記?」
人様の日記を読むことを、アルスは少し躊躇った。
だが今は情報がほしい。アルスはノートの一ページ目を捲った。
日付と、その日に起きたこと。朝どこへ散歩に行ったとか、昼に何を食べたとか、それからお客さんが来ただとか。
そんな変哲も何もない日々が綴られていた。
「一四八五年、九月一日。今から二十三年前ね⋯⋯」
アルスは日記を読み進めた。
日記は毎日欠かさず書かれており、内容からも人柄がある程度読み取ることができた。
著者には妻と十歳にもなる息子、それに執事やメイドもいたそうだ。
家族仲は良好で、特に父親は息子を溺愛していたらしい。日記の内容も、息子と、今日どこで何をしたかみたいなことが多かった。
ただ、今のアルスに内容をしっかり読む必要はない。斜め読みをして、目ぼしい記述を探した。
同年、十月十八日の内容で、アルスは目を留めた。
何か書いていたのではない。
何も、書かれていなかったからだ。
「⋯⋯⋯⋯」
アルスは一枚、ページを捲った。
──そして、真っ黒なページが目に入った。
「────」
アルスは息を呑んだ。
ぎっしりと文字が詰まっていた、ノートの上から下まで。
ひたすらに自問自答を繰り返していた。なぜ、なんで、どうして、という言葉がいくつも見られた。
感情をぶちまけたような文章から分かる内容は、そう多くなかった。
けれど一つだけ、たしかに分かることがあった。
日記が空白だったその日、著者である父親の息子は、原因不明の病で死亡した。
──私はなぜ息子の病に気づいてやれなかった。
最後の行にそう書かれていた。
「────」
また、アルスはページを捲った。
それから綴られていた内容は、もはや、日記ではなかった。
記録。ただし、悍ましい実験のもの。
息子を失った父親の、凶行の数々。
妻を殺して、執事やメイドも殺して。
たった一人になってもなお続けた、黒魔法の研究記録。
「⋯⋯黒魔法は、人には理解できないから黒色。だからこそ、人の精神を蝕む危険なもの」
アルスは魔法の教科書に書かれていた一文を思い出した。
狂った──そのきっかけは息子の死かもしれない。
だが、そう成り果ててしまったのは、黒魔法に手を出したからだろう。
ノートは何冊かあった。
全部、読む気にはなれなかった。できれば目も通したくなかった。
それでもアルスは、流し読みでも確認した。
無理、不可能、失敗、生贄、時間。
足りない。足らない。もっと必要。
そんな言葉の数々が目に飛び込んできた。
数冊読んだだけでアルスは椅子に座り込み、大きく息を吐いた。
日記──いや、黒魔法の研究記録は、一四九九年を最後に、それ以降は記されていなかった。
「⋯⋯え?」
一四九九年。
今から九年前のこと。
「──ありえない」




