第20話 敵
ライは体育館の壁に叩きつけられたまま、動かなかった。
テスタとアルスが体育館から離れた直後、あの父親が、ライの元に駆け寄った。
「⋯⋯っ」
背中から腹側にかけて、鉤爪に抉られた穴が開いていた。
血が止まる気配もなく流れ続けていた。
避難民の中で、治癒魔法が使えるのは妻だけ。
しかし彼女は、ティアを延命するので手一杯だ。
父親は自らの衣服を千切った。できるだけ清潔なところを。
千切った衣服を、傷口に押し付け、ライの胴体へきつく巻きつけた。
そんなときだった。
びちゃ、びちゃ。
水溜りの上を歩くような音がした。
その場にいた全員が目を向けた。
アルスがいた。足元だけがあかく染まっていた。
誰かが安堵の息を漏らした。
だが──誰かが息をのんだ。
「いっぱい、いる」
アルスは、避難民の方に手を向けた。
ここに使徒はいなかった。
けれど、皆、使徒から逃げてきた者たちだった。その爪に傷をつけられた者も少なくなかった。
アルスの声色は冷酷であった。だが、どこまでも温かかった。
「ごめんね」
アルスの手のひらにあかい魔法陣が展開された。
父親は、その瞬間、ライを担ごうとしていた。
命の恩人を、助けなくてはならないと。状況なんて分からないまま、身体が勝手に動いていた。
けれど。
父親が彼を担ぎ上げようとした場所には、黒い靄だけが残っていた。
「⋯⋯⋯⋯」
白い軌跡が走った。アルスの腕が落ちた。
アルスの目の前には、黒い靄を漂わせているライが立っていた。
「がはっ⋯⋯」
ライは血反吐を吐いた。
腹部に巻きつけられた衣服が、より赤く染まった。
瞬間、ライの側面にあかい魔法陣が展開された。
ライは白い剣で水の弾丸を受けながら横に跳び、衝撃を流した。
しかし、死に体のライには、意識が飛びかねない激痛だった。
「チィ⋯⋯クソ⋯⋯」
ライは周りを確認した。
恐怖で動くことができない避難民たちが目に入った。
「早く逃げろっ! こいつは暴走してる!」
避難民たちはその声に弾かれたように逃げ出した。
しかし、アルスは避難民たちへの追撃はしなかった。
アルスはライの方に顔を向けていた。
「アルス・ヴィルミア──」
ライの声がわずかに揺れた。彼は白い剣を強く握った。
「あなた⋯⋯かわいそう。いま、たすけるから」
アルスの周りに浮かんでいた水玉が蠢いた。水の光線が放たれた。
ライはそれを見切り、避けようとした。だが、体に痛みが走り、動きが止まった。
それでも光線に眉間を貫かれることはなかったが、頬を掠めた。
「⋯⋯っ」
アルスの右腕が、いつの間にか生えていた。
ライは目を細めた。
「⋯⋯⋯⋯」
アルスはもう一度、水の光線を放った。
ライは今度こそ避けきった。しかし、それだけで精一杯だった。
体が重かった。堰が切れたように、口から血が流れ続けていた。
指先から感覚が薄れていた。寒気も感じ始めていた。
身体を動かすための魔法に、体力を使い切っていた。
「っらぁ!」
それでも、ライは動いた。
踏み込みに使えない足なんて気にせず、身体に鞭を打った。
ただ、目の前の敵を殺すために。
白い剣を、振り下ろした。
「────」
しかし、アルスは手にあかいみずを纏って、白い剣を受け止めた。
なぜ、そんなことができるのか。
ライが答えを出すより先に、彼は宙に投げ飛ばされていた。
水の塊がライを叩きつけた。
「あぐっ⋯⋯」
床に叩きつけられたライは、もはや指一本動かすだけで、全身に激痛が走っていた。
口いっぱいに広がる鉄の味。遠のく意識。
貫かれた脊髄は、魔法で無理矢理動かすのにも、限界が来ていた。
「⋯⋯はは」
ライは乾いた笑い声をあげた。とても弱々しかった。
ああ、ここまでだ。
もう、ここまでなんだ。
──白い髪の女性が、ライの脳裏に浮かんだ。
「──どうにでもなれ」
身体を動かしていた黒い靄がなくなった。
代わりに、残る僅かな魔力と、生命力を次の一手に注ぎ込んだ。
ライの口が動いた。
──瞬間、アルスが吹き飛んだ。
「⋯⋯はっ?」
ライは、まだ、何もしていなかったのに。
人型の何かが飛来し、それがアルスにぶつかった。
「大丈夫⋯⋯じゃないですね」
ライの前方から、女声が聞こえた。
女はライのほうに手を向けた。
緑色の魔法陣が彼女の手の平に展開されていた。
そして直後、ライの身体が暖かくなった。遠のいていた意識が引き戻され、痛みが消え去っていった。
「もう動けるはずですが、安静にしてください」
彼女の言葉に反して、ライは立ち上がった。
明るい緑色の長髪に、シスター服姿の女。
彼女はライに背を向け、アルスの前に立っていた。
「⋯⋯あとは私がやっておきます」
彼女は振り返った。碧い眼がライを捉えた。
「⋯⋯そうはいかないな。緑の」
ライは肺に残った血を吐いた。袖で口の端に残った血を拭き取った。
「あんたに任せれば⋯⋯アルス・ヴィルミアを殺しちまう」
「はい?」
緑髪の女は、アルスの方を見て、確認した。彼女は眉を顰めた。
「⋯⋯本当ですか? アレが?」
「ああ⋯⋯残念なことに、アレがモノ協会の協会長だ」
使徒らしき死体を退けて、アルスは立ち上がった。
「あんたは⋯⋯」
「シエラ・アストロフィロン。⋯⋯黒い服の男が戦っていると聞きました。あなたがライ・ストラーフですね」
「ああ」
シエラはアルスの方へ向き直り、構えた。
「みんな⋯⋯わたしが、すくわなきゃ」
あかい水の弾丸と刃がいくつも飛んできた。
ライは自分に迫るものを白い剣で斬り伏せた。シエラも、白い光の魔法で水を蒸発させた。
「⋯⋯あの、喋ってますけど」
「鳴き声だ」
シエラは何か言いかけ、口を閉ざした。
「⋯⋯いくぞ」
ライとシエラは、床を蹴った。




