第15話 価値
アルスは踵を返し、ライと女の使徒に背中を向けた。
そして走り出した。
直後、金属音が響いた。ライと女の使徒の魔力がぶつかり合っているのが分かった。
アルスは振り返らなかった。前だけを見た。
最悪なのは、ティアと避難民が使徒に襲われること。
そうなる前にアルスは戻らないといけない。
大通りを道なりに進めば、総合体育館に辿り着く。しかし、少し遠回りになる。
ならば、一直線のルートを取るだけだ。
「⋯⋯⋯⋯」
アルスは一息で建物の屋根に跳び乗った。
総合体育館を目視して、屋根の上を走り出した。建物の間を容易く飛び越えていった。
その時だった。
「っ⋯⋯」
アルスは路地で使徒に襲われる老人の姿を見た。
あれだけ殺したのに、まだ残っていたのか。
老人は炎の魔法を使徒に放っていた。しかし、牽制程度だった。
このままでは老人は死ぬ。
アルスは屋根の上で一瞬だけ立ち止まり、手の平を使徒にかざした。そして水の弾丸を撃った。
水の弾丸は使徒の上半身を丸ごと抉った。その威力を保ったまま、老人に迫る。
アルスは拳を握り、振り払った。
水の弾丸は老人の目前で掻き消えた。
「ごめんお爺さん! 今急いでるから、あとは自分でなんとかして! この辺多分もういなさそうだから!」
老人の感謝の言葉を聞くこともなく、アルスは再び屋根の上を駆け抜けた。
「⋯⋯なんで」
アルスはもどかしさを感じていた。
遅い。
身体は目覚めた直後より軽く動いている。それなのに、アルスは遅く感じた。
走り方を忘れているのだろうか。もっと、速く走れるはずなのに。
「なら⋯⋯!」
もっと、速く動くにはどうすればよいか。
今のアルスが頼れるのは魔法だけ。それはこの違和感への答えではないだろうが、そんなこと、今はどうでもよかった。
アルスは踏み込んだ足元に、圧縮した水を生み出した。屋根を蹴る瞬間に水を弾けさせた。
水の反動が散ってしまった。
けれど、そんな状態でさえアルスはいくつもの建物を跳び越えた。
「もうすぐ⋯⋯っ!?」
あと一度の跳躍で総合体育館に辿り着く。
そのとき、血の臭いがアルスの鼻を刺した。
刹那、アルスは屋根を崩落させるほど踏み込み、大きく跳び上がる。
アルスは赤い魔法陣を展開した。避難民の気配を避けて、
「〈暴風雨穿弾〉──っ!」
総合体育館の壁に身長より大きい風穴が開いた。
水の弾丸はそれで消えることはなかった。
しかし、一人の男が前に出て、片手で水の弾丸を振り払うように掻き消した。
「⋯⋯思ったより、お早い到着だ」
内側を赤く染めている黒髪。白いシャツの上には黒のベストを着ており、黒いスラックスを穿いている。
一見して、二十代の紳士のような雰囲気が漂っていた。
だが、その印象を歪ませている赫い双眸。
「──っ」
周りには、あの上位使徒と同等の威圧を感じさせる使徒が二体。
しかしアルスは、その二体よりも、目の前の男の方が危険だと判断した。
威圧感がより大きかったからではない。何か莫大な魔力を感じたからでもない。
むしろ、真逆。
──まるで、何も感じることができなかった。
「初めまして。⋯⋯貴女がアルス・ヴィルミア様ですね」
男は自身のズタズタになった右手を一瞥した。
男の赫い目が、ほんの少しだけ見開かれた。
だが、すぐにアルスの方を向き直した。
男はあまりにも滑らかな足運びでアルスの前まで来た。
「わたくしはテスタ・アイロットと申します」
深く、深く、お辞儀をした。まるで貴族の礼儀作法みたいだった。
しかし、そこに敬意などないように思えた。
「あなたたちは⋯⋯」
アルスは目だけで周囲を確認した。
避難民たちは酷く怯えていたが、怪我人も死人もいなかった。
だが。
──血の臭いを辿ると、そこにはティアが壁を背に座り込んでいた。
あの少年の母親が、ティアに治癒魔法を使っていた。
少年は少し離れた避難民の輪の奥で、別の大人の腕の中にいた。
母親の横には、父親らしき男だけが残っていた。
血は止まっていた。しかし、ティアの右肩は大きく抉られていて、傷は塞がっていなかった。
ティアはいつ意識を失ってもおかしくなかった。
このままでは死ぬ。
「⋯⋯私の命を、狙っているんだよね」
テスタはアルスのその言葉を聞いて、ようやく頭を勢い良く上げた。
彼は口の片端を歪めた。
「まさしく。ヴィルミア様、貴女の血を啜り肉を喰らうことこそ、わたくしの目的」
当然だとでも言うように、テスタは告げた。
そんなことのために。
アルスは反射的にそう口を利こうとしたが、飲み込む。
「⋯⋯⋯⋯。⋯⋯なら、そうすればここにいる人たちは助けてくれるの?」
アルスの声に震えはない。
「ええ、勿論。勿論ですとも」
テスタは一歩、踏み出す。彼の赫い目が、目隠しの内側を見通しそうな距離まで迫った。
アルスはそれでも、一歩も下がらなかった。
「貴女の御命は、有象無象より遥かに高価」
テスタはアルスの耳元で囁いた。
瞬間、テスタの首に赤い筋が浅く走った。
アルスの手の平から赤い魔法陣が消えた。
「近い。離れて」
「おお、これは失礼。近づき過ぎました。お許しください」
テスタはアルスから距離を取り、再び頭を下げた。
やはり、敬意も謝意もまるでなかった。
「⋯⋯ともあれ。それさえ頂ければ、わたくしはここから手を引きましょう。何でしたら『契約』でも結びましょうか?」
テスタは微笑を顔に貼り付けながら言った。
アルスは『契約』という言葉に引っ掛かりを覚えた。ただの口約束ではなさそうだ。
「そう」
テスタの眼と眉の動きや声色などに嘘らしいものはなかった。
けれど──
「じゃあ──あなた以外、は?」




