第10話 変わらない
「ストラーフさん⋯⋯っ」
ティアはライに向かって、叫びそうな声で言った。
ライはティアを一瞥もしなかった。尚も、彼はアルスの方を見ていた。
そのまま、ライは口を開く。
小さく、そしてアルスにだけ突きつけるような声だ。
「あんたがいなければ、こんなことにはならなかった。人は死ななかった。死ななかったんだよ、アルス・ヴィルミア」
「⋯⋯⋯⋯っ」
アルスは俯いたまま、拳を握る。
震えている。体が。心が。震えていて、そして大きくなっていく。
それは、崩す。
それは、壊す。
それは、否す。
アルスの中で、剥がれ落ちていくものがあった。
吐き気はない。嫌悪はない。不快はなく、そして失意でもない。
ただただ、怖かった。
自身の意義が薄れていくような。自分はここにいてはいけないと、突きつけられているような。
記憶喪失なんかどうでもよくなるほどの、空白。
喪失感。
存在の否定。意味の破壊。欲望の崩落。
音が、遠くなり、消えてゆく。
「ストラーフさんっ! 今! ここで! アルス様を責めてなんになるというのですかっ!?」
ティアは叫んだ。声は震えていた。睨むような目と、引き攣った口元。
ちぐはぐで、そして、真っ当だった。
「ティア・ヴィルミア協会長代理。今、ここで、感情的になるのは止せ」
ライはティアと目を合わせ、言った。
「感情的⋯⋯っ。そうなってるのはあなたもでしょう!」
ティアは立ち上がって、さらに大きく叫んだ。
ライは一瞬だけ、視線を落とした。そしてティアを見上げる。
「⋯⋯ああ、それは、悪かった。⋯⋯だが、周りを見てみろ」
ライは視線を背後に向ける。
そこには、不安そうにアルスたちを見つめる人々がいた。彼らは話の中身までは分かっていない。ただ、何か良くないことが起きている。それだけは伝わっていた。
ティアは顔を逸らす。反論はできなかった。座り込んだ。そして深く息を吸い、吐いた。
「俺たちの乱れは、彼らの不安に繋がる。それだけは覚えておけ」
「⋯⋯はい」
ティアはライとは目を合わせないまま、それ以上は言わなかった。
「⋯⋯だが、アルス・ヴィルミア。あんたもそうだぞ」
アルスは、ゆっくりと顔を上げた。
あの人たちの不安そうな表情を見て、アルスは、心臓の鼓動を抑えた。
崩れて、消えている場合ではないと、アルスは判断した。
遠のいていた音が、少しずつ戻ってきた。
「⋯⋯⋯⋯」
そんなアルスを見て、ライは続けようとした言葉を飲み込み、目を細めた。それから溜息をついた。
「⋯⋯結局、あんたはそうなんだな」
ライは小さく呟いた。答えなど求めていないようだ。
「どうせ、あんたが決めないと、あんたは動かない。そうなんだろ?」
真実を見ろ。現実を考えろ。
そして、最善を選べ。
ライは、これまでアルスの意思なんて無視してきたのに。
守る、逃がす、従わせる。
それだけしかしてこなかった。
「私、は⋯⋯」
ああ、難しい。何を選んでも、人が死ぬんじゃないか。そんな気がして、今もアルスは怖かった。
「⋯⋯それでも」
自分のせいだ。だから人が死んでいる。殺されている。 だったら自分だけでも逃げてしまったほうがよかった。そうすれば、使徒は人々を殺さなくなるはずだから。
ライが逃がそうとしたことも、ティアが守ろうとしたことも、間違っていなかった。
あのとき、アルスが飛び出したことは間違っていたのではないか?
アルスは考える。最初から逃げていれば、よかったのではないか、と。
やけに、この重圧には見覚えがある。
──そうだ。
私はいつもこういうとき、頭が冷えていた。
ああ、そうだ。逃げればよかった。
けれど、逃げても、待っていても、何を選んでも、
「──変わらない」
何も、変わっていない。
「私は、私だから」
ライは、何も言わなかった。ただ、聞いていた。
彼は、アルスに選ばせたのだ。
アルスは、彼を否定せずに済みそうだった。
「使徒を殺す」
それはアルスが下した判断だ。
だから、声が震えるはずなかった。




