第7話 グレース・サリヴァン
「実はバディを組むにあたって、君に〈グレース・サリヴァン法〉というものを使おうと思っているんだ」
向かいの座席に座った少年が、訝しげな顔で首を傾げる。
「聞き慣れない言葉が出て来ただろうけど、まずはこの法がどんなものなのか、どうして出来たのか、そこから話を
しよう。――少し前、実際にあった出来事なんだけど」
僅かに緊張した空気の中、車輪と馬の蹄のたてる律動的な音だけが、静かな車内に響いている。
今から十三年前、ある農村にグレース・サリヴァンという聡明な少女が住んでいた。彼女以外に兄弟は四人。貧しい農家だった為、両親と働ける歳の子は、朝から晩まで畑を耕し、小作人をして生活の糧を得ていた。
「グレースが十四歳になった頃、働き詰めだった母親が病に倒れてね。医者には診て貰っていたが、なかなか回復しなかった。それから二週間後、ついに母親は家族と医者に看取られ、息を引き取ってしまったんだ。母親は助からなかったけど、その時から人の生命を守る為に働く〈医者〉という仕事をしてみたい、とグレースは思うようになったんだ」
だが、貧しい農家の娘は、読み書きすらままならない。なのでグレースは仕事を終えると、遠い街の図書館に足繁く通い、文字を学ぶ事から始めた。
二年という年月が過ぎた頃、本人の努力の甲斐もあり、書く事は勿論、図書館にある殆どの本が読めるようになっていたグレースは、新設されたという医療区画で、その日も本を読んでいた。貪るように本を読む、貧しい身なりの娘。その真摯な姿が、たまたま図書館を訪れていた王家専属の医師、王医の目に留まった。言葉を交わしてその娘の夢が医者になる事だと知り、会話の内容からその聡明さに気付いた彼は、グレースを医療学校へ進学させる為の支援を申し出た。そしてこれからは彼女が自分の病院を訪れた時、手の空いた者が勉強を手伝おうと言ってくれたのだ。
グレースは夢見た医者への第一歩が拓けた事を喜び、すぐにこの事を報告すべく村へ帰った。父親も喜んでくれる、そう信じて。
だが帰宅して、興奮冷めやらぬまま話終えた娘を、父親は激高して怒鳴りつけた。
『農家は畑を耕していればいい』
『お前は騙されただけだ』
散々罵られ、酷く打たれたグレースは、父親に今後一切、街へ行く事を禁じられた。
「でも彼女は諦めなかった。それからは雨の日も風の日も、父親の目を盗んでは、王医のいる病院へ通ったんだ。彼から譲り受けた本は見つからないよう納屋に隠して、街へ行けない日はそれを読んだ。また二年が過ぎ、彼女が十八歳になった頃、そんな彼女の努力に感銘を受けた王医と友人の医師達が、密かに医療学校へ推薦枠の入校手続きをしてくれたんだ。そのお陰でその年の秋から、晴れて彼女は医学生になろうとしていた」
後は父親の説得のみ。二人は明日をその決行の日と決め、その場には王医も立ち合う約束をして別れた。
夕暮れ迫る中、家路を急ぐグレースは街を出てすぐに、同じ村の男が別の小路を早足ですれ違うのを見かけたが、相手は相当急いでいたらしく、彼女に気付かなかった。
「……でもさ、オヤジはそもそも反対してたんだろう? 話し合いなんて出来るのか?」
「話し合いは……結局出来なかったんだ」
太陽が大地にさよならを言う僅かばかり前、見慣れた村の畑や家々の側を歩きながら、グレースは胸を撫で下ろしていた。あとはこの先の広場さえ通り過ぎれば、家はすぐそこだった。
だが広場に辿り着いてすぐ、いつもと様子が違う事に気付いた。ここはすぐそばに酒場や食事処があり、この時間は村人達が集まって賑やかな筈なのに、店の門扉は固く閉められ、辺りは静寂が支配している。不思議に思いながら歩を進めた時、彼女は広場にいつもは無い小さな焚き火と、その横に背を向けてしゃがみこんだ、人影に気付いた。
(こんな時間に、一体誰が――)
その時、火に何かを焚べた影がゆっくりと立ち上がり、背後の気配に振り返った。
グレースは息を呑んだ。
それは目に狂気を孕んだ、彼女の父親だった。
焚き火の炎の中で焼け崩れようとしている物を見て、彼女は血の気が引いた。それは納屋に隠していた、王医から譲られた本だったのだ。
「グレースは、恐怖で足が竦んで動けなかった。近寄ってくる父親を見て、その時初めて彼女は、広場の店が閉まっていた理由に気付いたんだ。その手には、畑で使う大きな鎌が握られていた」
「えっ……」
村人達は店や家の中で神に祈り震えつつ、窓や扉の隙間から事の成り行きを見守るしか出来なかった。そして直後――静かな広場に、女の絶叫が響き渡った。
「夢を目前にして、十八歳という若さでグレース・サリヴァンは命を落とした。父親の手によってね」
ところがグレースのすぐ後から、駆けつけた警護隊によって父親は逮捕された。彼女が先程帰路ですれ違った村人は、父親の異常な行動に恐怖心を抱き、街へ警護隊を呼びに行く途中だったのだ。ほんの僅かの差で間に合わず、彼女は助からなかった。
数日後グレースの兄弟は、親戚の所へ村の人々が付き添い、送って行った。彼女の亡骸は王医と村人達が弔い、母親の隣に埋葬した。
だが、この悲劇はここで終わらなかったのだ。
後に裁判が開かれた時、当然の尋問があった。
『何故娘を殺そうと思ったのか』
父親は答えた。
『俺より娘が賢くなるのが許せなかった。あいつは俺の言う事を聞いて働くだけの〝人の姿をした牛〟で良かったんだ』
「……父親は、まるで当然の事だと言わんばかりに、平然としていたそうだよ。前代未聞のこの言葉に、傍聴席は騒然となった。……そんな父親の身勝手な考えで、グレースは殺されたんだ」
「そん、な……! そんな理由で……!!」
この裁判の内容と信じ難い父親の言葉は、すぐに国内中に知れ渡り、大論争を巻き起こした。
「国王陛下は、……いや、あれはまだ女王陛下の頃だな。この一件を耳にされ、酷く心を痛められた。そして数ヶ月後、異例の早さで彼女の名を冠した〈グレース・サリヴァン法〉が定められたんだ」
これ以上、こんな悲劇が起こらぬように。
若者達が自由な意志で学び、働ける、そんな世の中である為に。
そして同時期に国民からの寄付金で、巣立とうとする若者を援助する為の〈グレース基金〉も設立された。
「その法律にはこう書いてある。〝何人たりとも、若き者の想いを阻害する事能わず〟――例え親兄弟でも、学びたい、こんな仕事がしたいという若者の願いを、邪魔する事は許さないぞって意味なんだ」
「……だから、おれにその〈グレース法〉を使うって事なのか」
「そうだよ。グレースのように、農家から学校に行ったり、別の仕事に就きたい若者がいる場合、家から働き手がいなくなってしまう場合もあるだろう? でもその場合、残った家族がきちんと申請すれば、農家で働く事を希望する人を、国が探して派遣してくれるんだ。〈グレース基金〉から、そういった派遣された働き手の給料も、かなり負担してくれるらしいんだ」
「キキンってのは何だ?」
「目的の為に、積み立てておく金の事さ。仕事に就きたい若者の場合だと、自分の代わりに働いてくれる人の給料や、本人の生活費として援助金がそこから出される。普段から役所や祭り、貴族のパーティーなんかでも、広く寄付金を募っているんだよ。〝頑張る若者を、皆で助けよう〟って事だね。申請が通ったら、シリウスもこの援助金が受け取れると思うよ」
「エンジョキン……」
「最初は見習いで、低めの金額の所も多いからね。援助金は家賃や食費、医療費の三つが基本援助項目だから、かなり助かると……そうか、家賃……そういえば、家の事も決めないとな……」
「どういう事だ?」
「君は十七歳だろう?ティエンファルーラでは、家を借りられるのは十八歳からなんだ。そこも含めて〈鳥籠〉に着いたら、色々話し合わないとね」
その時、別の〈幻燈馬車〉が対向線越しにすれ違った。どうやら目的地が近いらしい。
「もうすぐ着くよ。さっきの馬車駅よりも人が多いから、降りたら俺から離れないように気をつけて」
俺の言葉に、何気なく窓の外へと顔を向けたシリウスが、驚愕の表情を浮かべている。
「これ、もしかして全部麦か……?!」
窓の外は青空の下、一面の麦畑だった。風が通る度、穂が波打つように揺れている。
「あぁ、今は収穫期だからね。まるで海のようだろう?」
ところが、少年はきょとんとした顔でこちらを見るばかりだった。そういえば、昨日髪を拭いていた時『外の事は知らない、出られない』と言っていたな。
「もしかして――海を、見た事がないのかい?」
こくん、と縦に頭を振ったシリウスは、今度は体ごと窓に向け、波打つ麦の穂に魅入られたように、じっとその光景を見つめていた。
――海ばかりじゃない。恐らくこの子はこんな、ありきたりの景色ですら――
そう気付いた瞬間、俺はこれから出来うる限り沢山の土地を訪れ、その文化や歴史の遺産、景色をシリウスに見せてやろうと心に決めた。
馬車は徐々に速度を落とし、完全に止まる頃には他の馬車が行き交う音や、人々の会話が窓から流れ込んできていた。扉を開けてくれた御者の男に礼を言って降りると、シリウスが戸惑いながら後に続く。
「オッドレナード! オッドレナードです! お忘れ物の無きよう、ご注意下さい!」
駅係員の声が、馬車と人の間を通り抜けて行く。
「オッドレナード? ティエンファルーラじゃないのか?」
「ティエンファルーラという国の、首都がオッドレナードなんだよ。ここはこの国の中心部さ。ここから〈鳥籠〉本部までは歩く事になる。ついて来て」
駅から街へ入る前に係員のいる検問を通り、出国情報との違いがないかを確認され、問題がなければそのまま入国となる。
「どの国でも仕事の時は免除されるけど、腕章を外している時は入国する時にお金がかかるから、気をつけ――」
「うわっ」
説明の途中で小さな体が勢いよく俺の右足に体当たりし、その反動で空を掴むように後ろに仰け反る。思わず反射的に腕を掴み、なんとか転倒は避けさせた。
「ごめんなさい、おじさん」
おっ、偉いぞ。きちんと謝れたな。
「怪我はない?」
「うん!」
満面の笑みで返事を返す少年の後ろから、母親らしき女性が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「すみません、うちの子が⋯⋯!」
「いえ、こちらもよそ見をしてましたから」
迷子ではなかったみたいだな。母親はこちらへ軽く会釈すると、仲良く息子と手を繋いで、駅構内へと歩いて行った。何とはなしにその後ろ姿を目で追うと、こちらを向いた長身の男に、少年が母の手を引っ張ったまま駆け寄っていく。髪色からして恐らく父親なのだろうその男は、微笑みながら屈み込むと、その胸に飛び込んだ最愛の存在を抱きしめた。
天窓から射し込んだ穏やかな陽射しが、親子三人を柔らかく包み込む。どこにでもある筈の、幸せな家族の一時。
その瞬間、己の胸が焼け付くような感覚を覚え、思わず胸元を掴んだ。
あの日あの時まで、自分にも手に入れられると疑いもしなかったものが、そこにあった。
言うなれば、それは永久に失った夢の欠片。
叶うと信じていた未来。
全て、俺が――
「……おっさん、どうかしたのか?」
シリウスの声にはっと我に返ると、親子の姿は既に雑踏の中に消えていた。
両手で頬を軽く叩く。
――立ち止まるな。立ち止まる隙を、自分に与えるな。
たとえこの傷が癒えずとも、生きている以上、俺は前へ進まねばならないのだから。
己を叱咤しながら、纏わりつく闇色の手を振り払い、ゆっくりと歩き出す。
「ごめん、少しぼんやりしてた。……こっちだよ。行こう」
駅から出る為に、街へと繋がる大きな金属製の門扉をくぐると、シリウスが思わず驚嘆の声を上げた。
「うわ、すげぇ……!」
円状の広場の向こうには、見上げる程の重厚な建物が肩を並べ、巨大な壁のようだった。数多の人々がそこかしこから現れては、細い路地や建物の中に消えて行く。
広場から続く大通りには、各店舗へと急ぐ荷馬車が行き交い、敷き詰められた石畳が、蹄鉄の音を切り抜かれた空へと運ぶ。そのうちの何台かは美しい花を満載して、馬車が通り過ぎた後も、辺りにその華やかな香りを惜しげもなく漂わせていた。
「花が、あんなにたくさん」
「この国の別名にもなる程、有名な特産品だからね」
辺りをぐるりと見回すシリウスの顔は、若者らしい期待と驚きに満ちていた。
「〝花と学びの都〟にようこそ。今日からここが、君の二つ目の故郷になる」




