第6話 揺れる心
軽やかな鳥の囀りで眼を覚ました。
朝の陽光がその柔らかな輝きを、窓という額縁を通して床に描いている。
向かいのベッドで眠る少年は、未だ深い夢の中だった。起こさぬよう静かに上着を羽織り、荷物の中から小さな木刀を取り出すと、財布や手拭い、宿の鍵と共に服の小路に入れて部屋を出た。
昨日一人で宿を訪れ鍵を預かった時、一階の奥に広めの中庭がある事に気付いていたので、足音を立てずに移動する。
深呼吸で早朝の清々しい爽やかな空気を体に取り込み、服の小路から取り出した木刀を手に持つと、《戻れ》と念じる。次の瞬間、掌に収まる大きさだった木刀は、元の大きさに戻っていた。配達人が愛用する〈空と砂の指輪〉は、物の大きさを変えられる便利な魔道具だ。俺は刀を扱うので指に物を嵌める事を厭い、特別製の鎖に指輪を通し、普段は首にかけてある。この鎖自体が魔道具で、通してあると指に嵌めたのと同等の効果を得られるのだ。
肩の力を抜き、心静かに木刀を正眼に構える。
朝の日課である基本の型と鍛錬を、俺は東郷の家を出てからも、出来るだけ欠かさないようにしてきた。
〝怠惰は己の危機を呼ぶ〟。俺が今も遵守している、親父殿から最初に授かった教訓である。
無心で一通りの型を済ませ、鍛錬が終わりかけた頃には、行き交う人の足音や話し声と共に、微睡んでいた街が目覚めつつあった。
汗を拭うと木刀を仕舞い、裏の通りで簡単な朝食を二人分買って、宿へと戻る。
移動距離の長い今日は、出発も早めだ。朝は手軽なものにして、すぐ動けるようにしておきたい。
宿の入り口でオヤジさんに出くわし、挨拶もそこそこに「ネストカの水は美味いよ! そこで自由に汲めるから、飲んでいくといい」と勧められた。聞くと、入り口近くに湧き水があるのだと言う。朝食の包みを見た上での配慮だろう。鍛錬の後でもあるし、有り難く頂く事にした。
部屋に入ると、窓辺にいたシリウスが振り返った。明るくなった室内で改めて見たその姿は、風呂に入って着替えた事により、清潔感が増して好印象だ。
……しかし、細い。
貸した俺の上着を紐で巻いて留めてあるのだが、昨日までの服と違い、ぴたりと体の線が出るようになったせいで、一層その細さが浮き彫りになっている。
「こんな早くに、どこか行ってたのか?」
「うん。朝飯を買いにね。あとは鍛錬だ」
「タンレン?」
「そうだよ。あれを使うにも仕事にも、体力や筋力が必要だからね。出来るだけ毎日、軽く運動してから動くようにしてるんだ」
俺の目線を辿ったシリウスは、荷物の所にある刀を見て僅かに首を傾げた。
「昨日も思ったけど……あまり見ない形の剣だな」
「あぁ、あれは剣じゃなくて刀って言うんだ。正確には〈火燕刀〉。俺の故郷にしか無いものだから、珍しいかもしれないね。大陸はほぼ剣の使い手ばかりだし」
話しながら、テーブルの上に二人分のローストビーフとチシャを挟んだサンドイッチと、水の入ったコップを揃えた。それを見たシリウスの青い瞳が、期待にきらりと輝く。……こういった反応は素直だなぁ。
既に顔も手も洗ったらしい彼には少し待って貰い、水を使おうと風呂場に向かいかけ、バディになるのならと一応釘を刺しておく。
「シリウス、俺の刀は絶対に抜いちゃ駄目だよ」
「……何で?」
俺の話で興味を持ったらしいその顔には、「後で触らせてもらおうと思ってたのに」と書いてある。だがこれは命に関わる事なので、是が非でも守って貰わねばならないのだ。軽く受け取られた結果、彼が被害を受ける事だけは避けたい。なので、いつも刀に興味を持った人に対して使う口上を、ここでも使う事にした。
「この刀はね、特殊なんだ。変わり者で有名だったけど、俺を凄く可愛がってくれた知り合いが、亡くなる直前に譲ってくれたものでね。手渡された時〝お前以外の者には使わせるなよ〟って言われてさ。聞いたら〝他の奴が使ったら呪いがかかるよう、魔法使いに頼んでおいた〟って言うんだよ。呪いが発動するのは〝ほかの者が抜いた時〟限定だから、絶対にこれだけは守って欲しい。君の身に何かあってからでは遅いから」
「何か、って……何が起こるんだ」
あ、ちょっと引いてる。効いてるな、よしよし。
「俺が聞いた話では」
敢えて間を置き、如何にもな空気を作る。ごくり、とシリウスの喉が鳴った。
「……豚に姿を変えられてしまうらしい」
――室内が一瞬、静寂に包まれた。
「ぶた……」
「うん」
「何で」
「わからない」
「消せねぇのか、その呪い」
「魔法とか呪いって基本、かけた魔法使い本人しか取り消せないらしいんだよ。そもそも俺はその呪いをかけた人を知らないし」
「おっさん、知り合いに魔法使いとかいねぇの?」
「聞いてみたけど〝やぁよ、解除魔法ってそもそも面倒臭いのに、他所様のかけた呪いの解除とか、面倒臭いの極みじゃないの! 絶対ヤダ!〟って完全拒否されちゃったんだ」
シリウスの頭が、がっくりと項垂れた。よし、どうやら作戦は成功したようだ。手を洗って来よう。
朝飯を済ませると、出発前に肌や髪の保護の為、香油を少し分け合った。本来は風呂上がりに使うものだが、昨夜は慌ただしかったが故に失念したのと、シリウスが寝てしまったので断念したからだ。
「この香油は、俺の好みだから。苦手な香りだったらごめん」
「いや、別に。……何か樹の匂いか? 良い匂いだぞ」
自分の手を、くんくん嗅ぎながらそう呟いた表情に、不快感はなかった。
香油は通常幾つかある種類の中から、使用感や香りが気に入った物を選ぶ。これを買った時、店の調香師が俺に伝えた香りの効能は〝深く眠れる〟〝心が安らぐ〟だったが、同時に『この香りは、精神的疲労が強い方や、悩みを持たれた方が選ばれる事が多いです』と言われたのだ。
良い匂いという事は――少し心配だな。
宿のオヤジさんに挨拶を済ませると、そのまま本通りの先にある国境を目指す。目的の〈幻燈馬車〉の駅が隣接しているからだ。向かう道すがら今日の予定を簡単に説明していると、国境に近付くにつれ、徐々に通りは混み合ってき始めた。逆方向から歩いてくる所をみると、恐らく祭り目当ての他国の人達だろう。
ところが暫く歩いた後、巨大な国境の壁を目前にして、ふと隣を歩いていた筈の気配がない事に気付いた。振り返って見ると、少し後方にいるシリウスの足が完全に止まっている。足でも痛めたかと近寄ると、彼は少し掠れた小さな声で、ぽつんと一言呟いた。
「なぁ。……本当に、おれでいいのか?」
あぁ、これは――
「……急に不安になった?」
少し屈んで眼の高さを合わせ、静かに問う。俯いた少年は口を閉ざしたまま立ち尽くし、両手は上着の裾を強く握りしめていた。実際に国境を前にして、現実的な緊張と不安が一気に押し寄せ、心が揺れてしまったのだろう。
「新しい事を始める時ってさ……ちょっと怖いんだよな。今まで経験した事が通用するかどうかも解らないし、そもそもどんな道の先があるのかわからない。闇の中を手探りで進むようなものだから、不安になって当然なんだよ。でもさ、シリウス。それは誰もが通る道なんだ」
これは俺にも経験がある。
東郷の家を出た時と、雪の降る中〈鳥籠〉へ向かった、あの日。
不安を胸に抱えながら、止まりかける自分の足に発破をかけ、ひたすらに意地と根性だけで突き進んだ。
「生きていると、それでも勇気を出して進まなきゃいけない時が、何度かある。シリウスにとって、今がその時だと俺は思う」
人通りの多い場所なのに、何故か周りの音や声は耳に入らなかった。
「正直、俺にとっても新しい道に進む大切な一歩になる日だ。だから一緒に勇気を出して、前に進もう。明日や数ヶ月後、数年後の自分の為に。大丈夫、俺がついてるよ」
細い肩に、そっと手を置いた。
頑張れ、シリウス。不安に負けるな。
「……わかった」
心を決めたのだろうその声は、穏やかで揺らぎがない。
「おっさん、おれを〈鳥籠〉に連れて行ってくれ」
顔を上げ、真っ直ぐに俺を見つめるその瞳に、もう迷いの色は無かった。
〈幻燈馬車〉の駅は分けられているとはいえ、通常馬車の駅も兼ねているので、祭り当日の朝という事もあり、中に入ると恐ろしく混雑していた。だが乗り場へと向かうにつれ、混雑は緩和され、ついには数名にまで落ち着いた。理由は簡単、〈幻燈馬車〉は通常馬車の三倍の値がするからである。だから主に利用するのは役人や行商人、俺達のような配達人、そして高値を支払ってでも〝急ぐ〟理由のある、一般の人達だった。
駅の係員はどの国も必ず警護隊の隊員が担い、出入国の際は必ず身分証の提示を求められる。配達人は腕章が身分証になるので、行き先を伝え、係員の持つ魔道具で点検し、先払いで料金を支払えば、すぐに馬車の元へと進めるので楽だ。今回は同行者として、シリウスの名前を追加で記入しておく。
乗り場では青空に溶け込むような二頭の馬が、馬具をつけられるのを大人しく待っている。
〈幻燈馬〉は、美しい馬だ。
二頭立ての馬車に繋がれたその姿は、全身が青く、まるで自ら発光しているかのように、ふわふわ漂う蛍火のような小さな光を、常にその周りに纏っている。
馬車に乗り込む前、初めて〈幻燈馬〉を眼にしたシリウスは、その優美な姿を心ゆくまで見つめていた。
この日ネストカに入って来る人は多かったが、出ていく人は寧ろ少なかったようで、この時間に〈幻燈馬車〉を使おうとしていたのは、俺達ともう一組だけだった。待ち合わせたあと一人が来ないらしく、先に行ってくれと言われ、馬車は俺達二人の貸し切り状態で、ネストカを発ったのだった。
〈幻燈馬車〉の特徴は、偏にその〝速さ〟にある。あまりにも高速な為、人が近寄って事故にならぬよう、柵で囲われた専用の道が、各国に延々と続く程だ。
「すげぇな、景色が後ろに飛んでいくみたいだ。何でこんなに速いんだ?」
俺の隣で特殊に作られた窓から外を覗いていたシリウスが、感嘆の声を上げる。
「そもそも〈幻燈馬〉は〝風を切って飛ぶように翔ける〟と言われた〈風の精霊馬〉と、普通の馬を掛け合わせて産まれた馬だからね」
その後暫くの間、シリウスに馬車を堪能して貰う為、俺は敢えて話しかけなかった。折角初めての経験なのだから、満足いくまで、流れ行く景色を見せてやりたかったからだ。しかしその裏でティエンファルーラに着く前に話しておきたい事があり、いつ話をきり出すかという点で少し悩んだ。二人だけの空間である馬車の中は、込み入った話をするのに、うってつけの場所だったからである。
幸いにも三十分ほど後、ある程度は満足したのかシリウスから話しかけてくれたので、俺は気の利かない奴にならずに済んだのだが。
「あとどのくらいで向こうに着くんだ?」
「そうだな……あと一時間ほどじゃないかな」
「あいつら、こんな速さで遠いところまで走って、疲れないのか?」
聞いてきた声音は、少し心配そうだ。もしや動物好きなのだろうか。
「〈精霊馬〉の血を引いているせいか、凄く頑丈だからね。馬車本体にも風魔法がかかっているそうだから、こちらの重さは、ほぼ感じてないだろうし。大丈夫だよ」
俺の言葉に安心したのか、シリウスの表情が少し緩んだ。どうやら少なくとも馬は嫌いではないらしい。
「……シリウス、ここで少し話をしてもいいかな。先にしておいた方が、向こうに着いてからの話が進みやすくなるから」
首が小さく縦に振られたのを確認すると、俺はシリウスと向かい合わせになる場所にかけ直し、静かに話しを始めた。




