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赫い配達人  作者: 村雨志柳
第一章 配達人と少年
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第10話 鳥籠 3

 静まり返った室内で、最初に我に返ったのは俺だった。

「……それは土地の名前だから、調査をしてくれるミリガンさん達には、大きな助けになるね。よく思い出してくれたよ、ありがとう」

 ホッとした顔を見せた少年に対し、大人達の表情は固かった。発言が如何に重大なものだったか、本人だけが気付いていなかったのだ。

「ルシア、良かったら貴方の部屋も案内してやって貰えないかな。ヴィヴィアン、ネストカの件をその間に話してもいいかい?」

「構いませんよ。一緒にいらっしゃい、シリウス」

 意図を察したルシアがさり気なく、シリウスを別の部屋へ移動させる。二人が社長室から出るとすぐ、残った者は声を潜め緊張の面持ちで話し始めた。

「……まさかラガトとは……」

「寧ろよくあの歳まで生きていた、というべきかもしれません」

 ライオネルの呟きに、当惑の表情でミリガン氏が続ける。

 ――ラガトはエンフィス北東に位置する、別名〈竜の怒りに触れた街〉。数十年前、若き領主の愚行によって飛竜の怒りを被り、呪いの息吹を受けた街は一瞬で焦土と化した。以降、何を植えても作物はほぼ実をつけず、荒れ果てた土地での僅かな食料を巡って、住民同士の争いが頻発。結果として殆どの民が故郷を捨て、ラガトは現在はぐれ者の吹き溜まりと化しており、酒場や娼館が多く治安は最悪。入国禁止レベルは3の〈入国禁止勧告〉で、配達も〈不可〉扱いだ。

「私は過去に一度、ラガトへ調査に行きましたが、情報一つ聞き出すのにも、逐一金を要求してくる土地柄でした。おまけに真実を語るとは限りません。あそこは余所者に対しては異常なほど、警戒心を剥き出しにしてきます。……恐らくこの調査は難航するかと」

 いつも穏やかなライオネルの表情が、ここまで険しくなる事は稀だ。

「俺もレベル3になる前に数回行ったが、あそこは真っ当な人間の住む所じゃない。いるのは捻くれた嘘つきと、詐欺師と犯罪者ばかりだ」

 ――俺の脳裏に五、六年前に見た忘れられない光景が浮かび上がる。

 夜の闇の中にぽつんと灯りのともる、街外れの一件の古びた家。降りしきる雪の中、庭の木に縄でくくり付けられ、半身がほぼ雪に埋まった、貧しい身なりのやせ細った小さな子供。

 何度思い出しても腸が煮える思いがする。

「ミリガンさん」

 ヴィヴィアンの呼びかけに、どういった流れでこの困難を乗り越えるかと、厳しい表情で思案していたミリガン氏は、ハッとして顔を上げた。

「よろしければ、明日おいで下さった折に会って頂きたい人物がいます。うちの魔道具課の者なのですが、配達の際に役立つ便利な道具を、その者が製作・保管しておりまして。その中には姿を消すものや、相手の心の声を聞く事の出来るものがあるのです。貸し出しを検討して貰えるか、一度相談してみませんか。本日会えたら良かったのですが、生憎当人が外出しておりますので」

 ミリガン氏は驚いた後、すぐにこの提案で受ける恩恵に気付いて顔を輝かせた。

「役所の方にもいくつか魔道具はありますが、そういった用途のものは初めて聞きます。貸し出して頂けたら調査の大きな力になりますし、是非明日その方とお話させて下さい」

「えぇ、ではそのように。ライオネル、すまないが明日も協力して貰えるだろうか。その時はミカドも立ち会ってくれ」

「勿論だよ、俺のバディの事なんだから。……その間、シリウスには待機室にいて貰うよ。追加の書類を書いてくるから、字の練習をしていてくれって頼もう」

「では相談が終わった後、彼に腕章を渡そう。その後で〈鳥籠〉の住人達を紹介してやってくれ」

 大人達の話がうまく纏ったころ、社長室の扉がノックされた。「どうぞ」というヴィヴィアンの返事を受けて開かれた扉から、少年を伴ったルシアがころころと笑いながら入って来る。

「大丈夫よ、もう雷魔法はかかりませんから」

 神妙な顔をしたシリウスが、やけにそろりそろりと廊下から室内へ足を運ぶのを見て、やっと皆の顔に笑みが戻った。


 その後役所に戻るミリガン氏をライオネルが送って行き、俺とシリウスは本日分の手続きというもの全てから解放された。

「ミカド、今日はもう上がっていいぞ。シリウスの生活用品など、買い求めに行かねばならんのだろう?」

 ヴィヴィアンが自身の机に向かいつつ、思い出したように振り返った。

「そうさせて貰えると有難い。ネストカでは新規の祭りのお陰で早々に店仕舞いされたから、今着ているものを揃えるだけで精一杯だったんだよ。他に配達する時の道具なんかも見に行きたいし」

「担当顧客から急ぎの案件等はなかった筈だし、早退して問題は無いだろう。そもそも君は働き過ぎなんだ。シリウスの買い物ついでに、少し自身も羽根をのばすといい」

「今から買い物に行くの? でももうお昼ですよ。何かお腹に入れてからにしては?」

 ――そういえば、さっきそこかしこで昼の鐘が鳴ってたな。丁度いい、店は決まったようなものだ。

「それなら〈鳥の巣〉で腹ごしらえして、それから買い物に行って来るよ」

 俺の言葉に、上司二人の顔が明るくなった。

「あぁ、それは良い。……彼は枯れ枝のような腕をしているのでな、まずは体作りといこう。しっかり食べさせてやってくれ。肉は全てを解決する」

 いやいや、ヴィヴィアンみたいに内臓まで鋼鉄みたいな人は少ないからね? まだ暫くは軽いものから食べさせるからね?

 シリウスを促して社長室を出ようとした時、俺の右手にルシアがそっと何か袋を握らせた。この感触は――金か?

 驚いて僅かに足を止めると、右袖を引っ張られ、素早く耳打ちされた。

「……最初は物入りでしょうから。私とヴィヴィアンから、僅かですが仮登録祝いです」

 しーっ、と人差し指を唇に当てて、ルシアがいたずらっ子のような顔で笑う。敵わないなぁ、こういう所。こういった人達が上司で、俺は本当に幸せだ。

「じゃあ、行ってくるよ」

「気をつけてね」

「ジョシュ達に宜しくな」

 二人の優しさと思いやりを服の小路ポケットにそっとしまうと、ぺこりと軽く頭を下げるシリウスを筆頭に、俺達二人は社長室を後にした。


「〈トリノス〉って何だ?」

 やっと普通に歩けるようになったらしいシリウスと、肩を並べて廊下を歩く。

「仲間のたまり場になってる、食堂の名前だよ。ここの元配達人がやってる店なんだ。味の方は保証するよ」

「ふーん……」

 食堂と聞いたからだろう、隣からくぅう、という腹の虫が鳴った。ルシアが助言してくれて助かったな。この子は自分から欲求をあまり口にしないから、危うく空きっ腹で散策させる所だった。これからは俺が気の利く大人でありバディであるように、もっと気をつけなければ。

「配達人の基本その二、〝健康第一〟。まず健康でいなくちゃ、満足な仕事は出来ないからね。腹が減るのは健康の証だ。これからはきちんと食べて、元気な体を維持出来るように気をつけていこう」

「お、おぅ」

 揃って階段を降り、一階ホールの床に降り立った、その時。

「ミカド様!!」

 あー、うん。来るよなやっぱり。

 アリスが右手奥から、小走りで近寄ってくる。所々自慢の白銀の髪がチリチリになっているのは、先程の雷魔法のせいか、はたまた植え込みに突っ込んだせいか。そのすぐ後ろには追って来たニコラスが、こちらを睨みつけながら立っている。

 横にいるシリウスに目もくれず、俺にぶつかる勢いで迫ってきた彼女は、既に大きな目に涙をたっぷり溜めていた。……そういえば、トイレの方から来たな。細工は流流といったところか。

「私というものがありながら、何故そのような方を連れて来られたのですか? 貴方の隣は、私のいるべき場所です! 絶対に、絶対に譲りません!! ミカド様のバディはこの私です!!」

 そう言うと豪奢なレースのハンカチで時折目を拭いながら、さめざめとアリスは泣き始めた。南側の待機室の扉から、騒動を聞きつけた仲間の配達人達が、ぞろぞろと顔を出して――いや、ちょっと待て。もう昼だっていうのに、何故こんな人数が残ってる?

「この方の置かれた状況を憐れに思い、見すぼらしい姿につい出来心で連れて来てしまわれたお気持ち、私にも痛い程よく分かります。しかし一時の気の迷いだとハッキリしております以上、今すぐにバディ登録の解消をなさるのが懸命で――」

「――おい」

 泣き真似をしつつ、こちらをハンカチの奥で時折隠し見ながら、俺達両方に失礼な事を言い連ねるアリスの声を、凛とした声が遮る。

「宜しければ解消の場に私、同行させて頂きます。その後すぐ、私達のバディ登録という流れが一番自然で――」

「――おい!!」

 今度は先程より更に音量を上げ、腕を組み、憮然としたシリウスが、アリスと真っ向から対峙する。

「さっきから黙って聞いてりゃ、好き勝手に言ってくれるじゃねぇか、〈風呂上がり〉」

「……〈風呂上がり〉?」

「あんたの呼び名だよ。〈ロシュツキョウ〉とどっちがいい?」

 露出狂……と見た事もない顔で愕然と呟くアリスに、どこかから「ぷっ」と誰かが耐えきれずに吹き出した音がした。

「なぜ私が初対面の貴方に、そんな失礼な呼び方をされなければならないんです?!」

「あんたの格好、風呂上がりに一番近いじゃねぇか。だから〝こんなデカい街の中を乳やケツ出してウロついて、頭大丈夫か〟って意味で一つ目。二つ目は、前にすっぱだかで通りを走り回ってたおっさんが『ロシュツキョウ!!』って叫ばれて、物を投げられてたんでな。ほぼ似たような格好だし、どっちか好きな方を本人に選んでもらおうかと――」

「どちらもお断りです!!」

 嘘泣きも忘れて怒るアリス、という珍しいものが見られたが、そこは元貴族。なんとか冷静さを取り戻したのか、すぐに軌道修正を図ってきた。

「……あぁ、成程。自己紹介がまだでしたか? 私にはアリス・タターロという名前があるのです。貴方の名前は伺わなくて結構です、本日付けで去られる方の名を知る必要もありませんから」

「あぁ、そうかい風呂上がり・アリス・ロシュツキョウ・タターロ。このさいハッキリ言っておくが、おれはバディを解消する気はねぇし、ようやく見つけたマトモな仕事を手放す気もねぇ」

 きっぱり言い切ったシリウスは、ふんと鼻を鳴らす。だが執拗に俺を二ヶ月追い回し続けた娘も、負けてはいなかった。

「私はクラスC。経験も実績も、見習いの貴方より遥かにミカド様のお役に立てる配達人です。私がここにおります以上、折角ですがもう貴方は必要無いのです。理解出来ましたか? さぁ、登録の解消を済ませてお引き取りを」

 勝ち誇るように微笑んだアリスを、シリウスは半眼で見据えると、呆れたように言い放った。

「下着もバカも丸出しの女に、言われる筋合いはねぇよ。理解出来てねぇのはそっちだ。……そもそも、おれ達はこれからメシ食いに行く途中なんだ。ジャマだ、どいてくれ」

「いいえ、バディ登録の解消が先です。済ませないと、ここから出て行く事は許しません」

「勝手な事言ってんじゃねぇぞ〈ヒモケツ〉。こっちはあんたに用はねぇ」

「妙な呼び名を増やさないで!!」

 互いに一歩も引かず言葉で殴り合う二人を、仲間達が興味津々で待機室の扉から覗いている。おい、見世物じゃないんだぞ。……って、人の事は言えない。実は俺もさっきからある衝動を、腹に力を入れて我慢しているのだ。

 そんな膠着状態の中、ついにシリウスが伝家の宝刀を抜いた。

「だったら聞くが、そもそもあんたは『バディになってくれ』って本人に一度でも言われたのか? おれは言われたぞ」

 一番痛い所を突かれたアリスが、下唇を噛んでぐっと黙り込んだ。

「……行こうぜ、()()()

 シリウスは溜息をついて俺の腕を掴むと、玄関に向かって歩き始めた。……これは勝負あったな。

「アリス、ニコラス、紹介しておくよ。彼が本日付けで俺のバディになった、シリウスだ。――じゃ、また明日」

 最後に俺が止めを刺してから横を通り過ぎ、二人で玄関の扉をくぐった時、後ろからアリスの声が追いかけて来た。鼻声なのは、嘘か誠か。

「……私、諦めません。絶対に諦めませんから。必ず貴方の隣に立ってみせます!!」


 外に出た瞬間、俺は「ごめん」と先に詫びを入れてから、シリウスを担ぎ上げた。

「へっ?! おい、何だ急に?!」

 訳がわからず混乱する少年を肩の上に乗せ、ざわめく周りの人々を置いて、〈鳥の巣〉までの通り二本と階段一階分、俺は文字通り全力疾走した。


「はーい、いらっしゃ……って、ミカドか。おかえり」

 カウンターの向こうでコップを拭いていたコリンの声が、扉につけられたドアチャイムの音に混ざる。担いだシリウスの体をしゃがむような体勢で降ろした時、気が緩んだせいか本部からずっと堪えていた衝動が、ついに爆発してしまった。

「おい、一体どうし――」

「あっははははははは!!」

 ポカンとしているであろう少年とコリンを余所に、俺は我慢出来ずに一人爆笑し続ける。

「は、は、あの!! あの時の!! アリスの!! 顔!! すっごい顔して、おまけに、ふ、〈風呂上がり〉に〈露出狂〉ときた!! あっはははははは!!」

 テーブルを叩きながら、ひたすらに笑い続ける俺はもう止まらなかった。涙が出るくらい腹の底から笑ったのなんて、何年ぶりだろう。約二ヶ月間、あの娘に散々な目に合わされた事や、ずっと暗澹たる気持ちで過ごしていた日々のあれこれが、笑った事で一気に消し飛んで行ってしまった。

「シリウス!!」

 笑いながら少年の頬を両手で包むと、驚いて固まってしまっている青い瞳と眼が合った。勢いのまま、痩せた左頬に感謝を込めてキスを贈る。

「君は!! 君って奴は!! 最高のバディだ!! ありがとう、あー、スッキリした!!」

 シリウスが大喜びした俺に思いっきりハグされている時、玄関扉のすぐ横にあるカーテンの後ろから、呆れた声と共に初老の男女が現れた。

「誰だバカ笑いしてるのは? 何の騒ぎだ?」

「ミカドの声のようだったけど……ってあら、やっぱり」

「あぁ、騒がしくてごめん。あまりにも面白い事が起こったものだから」

「ミカド、ところでその子は? 今バディって言わなかった?」

 コリンの言葉に、男女が揃って俺の胸元に視線を移す。そこにはトマトのように首まで真っ赤になった少年が、瞠目したまま俺の腕の中で言葉をなくし、呆然と突っ立っていた。


 ――数分後。

 さっき〈鳥籠〉のホールで起こった騒動を丁寧に話した結果、店内は今度三人分の爆笑の渦に包まれていた。

「初対面からアリスに説教をくれてやったのか。いいねぇ、気に入った! オレはそういう骨のある奴が好きなんだ」

「あの破廉恥な小娘に、よく言ってやったよ! 最近はミカドに迷惑かけっぱなしだったらしいじゃないの。シリウスって言ったね? 本登録まで、あんたの注文は全てあたしの奢りだ! しっかり食べな!」

「賑やかな店でごめんね、シリウス。こっちはジョシュとエレン、ぼくの両親でこの〈鳥の巣〉のオーナーさ。ぼくはコリン、息子でここの料理人だよ。よろしく」

 コリンが笑い過ぎて涙を拭きつつ、自分達の紹介をしてくれたので、こちらも大助かりだった。更に有難い事に、今日は珍しくまだ客が入っていなかったので、俺達のバカ笑いで迷惑をかける事もなかったのだ。

 なので俺とシリウスは現在、最初の客の特権として、二人でカウンターに近いテーブル席を陣取っている。

「シ、シリウス……です」

 ようやく落ち着いてきたらしいシリウスは、普通の大人にはやはり緊張するらしく、ぼそりと挨拶をしている。

「ミカドがいきなりキスやハグをするから、びっくりしてるじゃないの。全く、そろそろ落ち着きってものを持って貰わないと」

 〈鳥の巣〉の肝っ玉母さん・エレンにかかっては、ベテラン配達人も赤子同然である。因みに現在、エレンは口と一緒に両手をせっせと動かして、俺達二人分の昼飯を調理中だ。その横ではコリンがこれから来るであろう客達の為に、セットのサラダを作っている。

「……なぁ、〈ハグ〉って何だ?」

 そっと呟かれた質問に俺は内心、舌打ちしたい気持ちになる。

 ――クソ親父め、ハグすらしてやらなかったのか。よし、また今度褒める事があったら、俺が全力でハグしてやろう。……相手が可愛い子じゃなく、おっさんで申し訳ないが。

「さっき俺がぎゅーってしただろう? あれがハグだよ。嬉しい時や楽しい時にする事が多いんだ。だから久し振りに会った友達に、挨拶と一緒にしたりもするよ」

 動きを再現してみせると、思い出したのだろう、ほんのりシリウスの頬が赤くなった。

「そ、そっか。……覚えとく」

 俺がバディに選んだ事や、その会話から、シリウスが普通の環境で育っていない事がすぐに解ったのだろう。その後ジョシュ達親子は、彼に他国の美味しいオススメ料理を紹介してくれたり、どんな料理が好きか等、個人的な事情には触れないよう、そっと配慮してくれていた。

 ――と、そこへドアチャイムの音が響き渡り、一組の男女が扉からひょっこり顔を覗かせた。

「おっ、やっぱりここにいたな」

「おかえり、ユースタス、ココ。何にする?」

 エレンの言葉に、二人は残念そうに揃って首を横に振った。

「ごめんねエレン、あたし達これからすぐ配達先に向かわなきゃいけないのよ」

「本音は食って行きたいけど、これ以上のんびりしてたら、流石にヴィヴィアンに殺されかねないからな」

 そう言いながらも、二人は俺達のテーブルへと足早にやって来た。

「そういえば、何で皆あんな時間に待機室にいたんだ? いつもなら、もうとっくに出発してる時間だろう?」

 俺の質問に答えたのはユースタスだった。ひょろりと背の高い彼は、いつも猫背気味な上に眠そうな眼をしているので、こんなにハキハキした姿を見るのは珍しい。

「実は昨日、飯を食いにココとサウスイーストをぶらついてた時、ウィルに偶然会ったんだよ。そうしたら別れ際に『明日は昼頃ミカドが帰ってくるまで、待機室にいるといい。面白いものが見られるぞ?』って言い残して行ったんだ。だから今日出勤した時、南待機室にいた仲間にその話をしたんだよ。それで〝もしやバディじゃないか?〟って結論になってさ、新入り見たさに皆が残っちゃったんだ。だがその甲斐はあったよ。あんなに面白いものが見られたんだからな!!」

 話しながら、ユースタスは堪えきれないといったように笑い始めた。

「もうお昼じゃない?だからもしかしたら、ここに寄ってないかと思って覗きに来たのよ。流石にあれからすぐ皆仕事に向かったから、近場の配達先だった私達が、皆を代表してお祝いを言いに来たの。良いバディが見つかって良かったわね、ミカド」

 そう言うと、ココとユースタスは改めてシリウスの方に向き直った。

「オレがユースタスで、こっちがバディのココ。これから宜しくな、えーっと……」

「シリウス……です」

 ぺこり、と頭を下げた少年に、ココが肩口で手を振りながら、笑顔で応える。

「最初は覚える事が多くて大変だろうけど、皆応援してるから。困った事があったら相談してね?……ふふ、やっぱり感慨深い顔してるわね、ジョシュ。少し寂しい?」

「……?」

 言葉の意味を問うようにジョシュの方を向く青い瞳に、彼はそっと微笑んで答える。

「オレも元配達人なんだよ。……膝を痛めちまってな、五年前に引退したんだ。お前さんをここへ連れて来た、ミカドを育てた元バディが、このオレだ」

 シリウスを好々爺のように見つめた後、ジョシュはしみじみと噛みしめるように言葉を紡いだ。

「これでついに、俺の手を離れたな……ミカド。いいか、この子の手を放すんじゃないぞ。何があっても、お前だけは放すんじゃない。例え世界を敵に回しても、お前だけはこの子の隣にいるんだ」

 ――これはずっと、俺とバディを組んだその時から、ジョシュが自らに言って聞かせていた言葉なのだろう。人一人の人生を預かるという事がどれ程重いものなのか、改めて考えさせられる言葉でもある。

「シリウス」

 優しく呼びかけられた少年は、真っ直ぐに初老の男を見つめ返す。

「これからはミカドが共に笑い、共に怒り、共に泣いてくれるだろう。お前さんは、もう一人じゃない。それを忘れるな」


 祝いの言葉を贈ってくれたユースタスとココの二人は、その足で仕事先へと向かって行き、その後俺の腕章宛てに、仲間からお祝いの言葉が次々と届いて返事を返すのが大変だった。

 そして〈鳥の巣〉で腹と心を満たした俺達二人は、その後生活用品や仕事道具を買い付けに、サウスイーストの店を巡った。一気に全て揃えるのは難しいので、俺や〈鳥籠〉で貸し出せる物を省き、ひとまず着替えや背負い鞄など、最低限のものに限定して品物を選んでいく。

 ――実は中古市を覗いた時、初めてシリウスから「ツケておいて欲しい」――つまり「買って欲しい」と言われた物があり、俺としては〝初めてのおねだり〟に大いに感激したのだが。ネストカの飯屋の親父が使っていたのを覚えており、明日から使いたいとの事だった。

 それでもかなり時間がかかり、荷物を抱えて帰宅した頃には、陽はかなり大地に寄り添ってしまっていた。俺の家は家族層の多い一角の二階にあり、一階に大家夫妻が住んでいる。夕食時が間近に迫る時刻だった為、辺りには各家のおかみさん達が作る、うまそうな夕食の匂いが漂い、通りの角では仕事帰りの男達が、一杯ひっかけて帰るかどうかの算段をしている。夜の匂いがし始めるこの時間は、穏やかだが大人達にとっては、活動と交流の時間の始まりでもあるのだ。

 沢山の荷物を一度家に置いてから、改めて大家さん宅に二人で向かった。シリウスがこれから共に生活するので、顔合わせが必要だと思ったからだ。だがやせ細っている上にまだ緊張気味で愛想が悪く映ったらしく、おかみさんにかなり胡散臭そうな反応をされてしまった。二階への階段を上がりつつ、これから挽回していこう、と落ち込む少年を慰める。


 シリウスには奥の部屋を割り決め、簡単な食事を済ませた後、先に彼を風呂に入れた。腕章宛てに届いたお祝いの返事を、まだ数件返せていなかったからだ。

 ようやく交代で風呂に入ると、思いがけず疲れていた事に気付かされる。いつもとは違う事の連続で、自分でも気付かぬほど、微かに緊張していたのだろう。温かい湯が心も体も解していく感覚は、久し振りで心地良かった。


 風呂から上がりリビングへと足を向けると、明け放った窓辺に細い後ろ姿が佇んでいるのに気付いた。

 暫く見ていると、何をするでもなく、彼はただ夜の街を見つめているようだった。外からは「早く寝なさい」と子供をたしなめる母親の声や、誰かの音の外れた鼻歌、近くの繁華街から漏れ聞こえる弦楽器の音が聞こえてくる。向かい合わせになった住宅の窓からは、どこかの家族の営みがカーテンを通して影絵のように映し出され、早々と灯りの消えた窓もあれば、まだ煌々と灯りをともした窓もある。まるであたかも日常劇を見ているかのように、それらの物事をシリウスは身動ぎもせず、静かに窓辺に立ち続けていた。

「まだ眠らないのかい?」

 背後から声をかけると、僅かにシリウスは顔を背けた。泣いているように見えた事が気になって、思わず傍に近寄る。

「……どうした」

 肩に手をかけ、そっと話しかける。無理もない。今日一日、様々な事が一度に起こったのだ。心が乱れたか、それとも一気に気が抜けた安堵からか。

「……あんたに会う少し前の夜、こんな感じに家が固まった通りへ迷い込んだ事がある。……楽しそうな子供の声が聞こえて、道では大人が笑って立ち話してた。家の中にはきちんと灯りがついてて、うまそうなメシの匂いがして。その時思ったんだ……あんな家に、いつか住みたいって……」

 その時、俯いたシリウスが、俺の袖を力無く掴んできた。今にも泣き出しそうな衝動を懸命に堪えた瞳が、揺れ動きながら俺を見上げてくる。

「なぁ、……寝て、起きたら……みんな、消えてなくなってたりしないよな……? あんたは、……いなくなったりしねぇよな……?」

 〝幸せな時間が苦手〟〝静かな夜が怖い〟――そう言ったのは誰だったか。

 夢であったあまりにも穏やか過ぎる夜が、俺達にとっては何て事のない静かな夜が、苛烈な人生しか与えられて来なかった子供の不安を、逆に煽ったのだと気付いた。

 陽が昇り、世界が目覚める美しさを。   

 子供達の笑い声を。

 溢れる様々な音を。

 美味しい食事の有り難さを。

 静かで穏やかな夜を。

 夜に灯る明かりの温かさを。

 普通に暮らしている人々が、何気なく受け取っている沢山の〝日常という名の幸福〟。それがこれから当たり前に受け入れられる、そんな生活をこの子に送らせてやりたい。こんな風に一人で過ごしていた頃よりも願望に貪欲になったのは、〝誰かの為に動ける幸せ〟を久し振りに味わってしまったからだろう。

 俺はそっとシリウスの頭を自分の胸に凭れさせると、優しく諭すように語りかける。

「明日、君はヴィヴィアンに腕章を貰って、俺のバディとして配達の仕事を始めるんだよ。ついに新しい道の、ニ歩目に踏み出すんだ。……消えたりなんかしない、これは現実だ」

 袖を掴む手に、力が入ったのがわかる。遠くから聞こえる二輪馬車の蹄の音が、石畳を一定のリズムで打ち鳴らし、まるで傍に立つ少年の心拍音のようだった。

「……ジョシュが言ってただろう? もう君は一人じゃない」

 そう、そして俺も一人じゃない。

 ――それはなんて、幸せな事だろう。

「俺は、いなくなったりしない。必ず君のそばにいるよ。約束する」

 凭れさせた頭が、胸に押し付けられる感覚があった。泣き顔を見せたくない少年の意地を垣間見たようで、俺は思わず口角を上げる。


 殆どの窓から灯りが消えた頃、雲間から覗く柔らかな月光が、窓辺に佇む俺達二人を、白く輝く両腕で包み込んだ。


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