表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末の生き残り、英国銀行を盗る  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/16

第九話:意識を盗む夜

その夜、竹は眠れなかった。


廻船問屋の跡地の板間に寝転がり、天井の節穴を数えた。三つ数えたところで、隣に寝ているはずの茂兵衛が、すでにいないことに気づいた。


起き上がると、土間に明かりが灯っていた。


茂兵衛が、虫眼鏡を目に当てて何かを削っている。作業台の上には、見慣れない機材が並んでいた。銅線のコイル、真鍮のレバー、小さな電磁石。


「……眠れないのか」茂兵衛は手を止めずに言った。


「茂兵衛さんこそ」


「俺は眠らなくていい。明日の夜が終わるまでは」


竹は作業台の端に腰を下ろした。茂兵衛の手元を見た。精密な部品が、油で光っている。


「それが、電報を乗っ取る仕掛けですか」


「割り込み装置だ」茂兵衛は言った。「陸揚げ局の線に噛ませる。公使館から銀行へ送られる定時の通信の中に、俺の信号を混ぜ込む」


「難しいんですか」


「仕組みは単純だ。電気の断ち繋ぎ、その二つの組み合わせで文字を送る。俺に言わせりゃ、速い歯車と同じだ」茂兵衛は虫眼鏡を外し、竹を見た。「難しいのは、仕掛ける時間だ。警備がいる中で、十五分以内に線に噛ませなければならない」


「十五分で出来るんですか」


「順調ならな」


茂兵衛は虫眼鏡を戻し、また作業を続けた。


竹はしばらく黙って見ていた。


「俺、役に立てますかね」


茂兵衛の手が、止まった。


「何の話だ」


「菊次郎さんは役者で、清右衛門さんは礼法師範で、茂兵衛さんはからくり師で。みんな、はっきりした腕がある。俺は英語が話せるだけで、他には何もないんで」


茂兵衛は、虫眼鏡を外した。


「英語が話せるだけ、と言うが」


「はい」


「俺は英語が一言も話せない。菊次郎も清右衛門も同じだ。片桐の旦那も、少しは分かるようだが、あの場で全部裁くのは無理だ」竹の目を、真っ直ぐに見た。「お前がいなければ、この企ては成り立たない。それだけのことだ」


竹は視線を落とした。「でも、俺の英語は盗んだもんです。居留地で、異人の話を盗み聞きして覚えただけで」


「俺のからくりも、幕府の設計図を盗み見て覚えた」茂兵衛は言った。「菊次郎の女形は、先代の師匠の所作を盗んで覚えた。盗んで覚えた技は、本物じゃないのか」


竹は何も言わなかった。


茂兵衛は虫眼鏡を戻した。「明日の夜、お前には通詞以上の仕事が出来るかもしれない。その時に動けるかどうかだ」


「どんな仕事ですか」


「分からん。現場で何が起きるかは、やってみなければ分からない」茂兵衛は言った。「ただ、お前が咄嗟に動けるかどうかで、全部が変わることがある。それだけ覚えておけ」


竹は頷いた。


それから、板間に戻った。


今度は、すぐに眠れた。


***


同じ夜、横浜居留地の外れにある小さな居酒屋。


暖簾をくぐった男が一人、カウンターの隅に座った。


大蔵省の下働き風の地味な羽織に、目立たない顔。弥助だ。


弥助は酒を一杯頼み、ゆっくりと飲みながら、店の中を見渡した。


三つ奥の席に、目当ての男がいた。


英国銀行の日本人通詞、田村という男だ。仕事の後の一杯が習慣らしく、この店に週三日は来る。弥助はそれを、一週間かけて把握していた。


田村は一人で飲んでいた。仕事の疲れか、猪口を重ねるごとに目が細くなっていく。


弥助は二杯目を頼み、立ち上がった。


田村の隣の席に、自然な足取りで移った。


「お隣、よろしいですか」


田村は顔を上げた。弥助の地味な羽織を一瞥し、特に気にした様子もなく頷いた。


弥助は座り、酒を飲んだ。


しばらく、何も言わなかった。


田村が三杯目を頼んだ頃、弥助は独り言のように呟いた。


「いやあ、明日から大蔵省も忙しくなりますわ。横浜に検査が入るもんで」


田村の手が、ほんの少し止まった。


「……検査、ですか」


「ええ。条約がらみの話でして」弥助は猪口を傾けた。「まあ、私のような下っ端には詳しいことは分かりませんが、今回は登録された保管庫の現物確認だけだとか。地下だとか私室だとかは管轄外で、手が出せないらしくて。それでも書類仕事が山ほど増えるもんで、かなわんですわ」


田村は何も言わなかった。


弥助はそれ以上、検査の話を続けなかった。


話題を変え、横浜の天気と生糸の相場の話をして、三杯目を飲み干した。


「では、お先に」


弥助は立ち上がり、暖簾をくぐった。


路地に出ると、夜風が顔に当たった。


弥助は音もなく、夜の横浜に消えた。


店の中では、田村が四杯目を頼んでいた。


***


翌夜、居留地の外れ、海沿いの倉庫街。


潮風が運ぶ波の音と、遠くの船の汽笛だけが、暗い埠頭に響いていた。


茂兵衛は古びた漁師の合羽を羽織り、布袋を肩にかけていた。隣に竹がいる。新聞売りの格好のまま、手ぶらだ。


二人が見ているのは、埠頭の端に建つ煉瓦造りの小屋だ。


英国東洋電信会社の横浜陸揚げ局。


海底ケーブルが陸に上がる、最初の地点。ロンドンからシンガポール、上海を経て横浜へ至る、大英帝国の神経網の末端だ。


「あの小屋の中に、受信機と送信機がある」茂兵衛は低く言った。「壁に沿って線が走っていて、そこから海底ケーブルに繋がっている。その線に、割り込み装置を噛ませる」


「十五分で終わるか」


「昨日まではそのつもりだった」茂兵衛の声が、わずかに固くなった。「入口の警備が、一人から二人に増えている。交代時間が変わったようだ。引き継ぎが終わるまで、二人が重なる時間がある」


「どのくらい」


「三分か、五分か。その間は近づけない」


竹は黙って計算した。作業できる時間が、十五分から十分になる。


「十分で終わるか」


茂兵衛は唇を噛んだ。「……足りない。あと三分要る」


沈黙が落ちた。


潮風が、二人の間を吹き抜けた。


竹は茂兵衛の布袋を肩から取り、自分の手に持った。「機材を持っていけ」


「お前はどうする」


竹はすでに歩き出していた。「三分、稼ぐ」


茂兵衛が小声で呼び止めた。「おい、竹。見つかったら」


「見つかりません」


竹は振り返らなかった。「俺の英語を、そこで聞いてろ」


竹は小屋の入口に向かって、真っ直ぐ歩いた。


走らない。俯かない。居留地の石畳を何百回と歩いてきた足で、当たり前のように歩く。


警備の英国人が、竹に気づいた。眉をひそめ、片手を上げた。


"Stop. This area is restricted."


竹は止まらなかった。あと二歩、一歩。


警備が拳銃に手をかけた瞬間、竹は口を開いた。


"Excuse me, sir."


流暢な英語だった。横浜訛りも、日本人特有のぎこちなさもない。居留地の商館で、異人の会話を何年も盗み聞きし、盗み覚えた言葉だ。


『夜分に大変失礼いたします。本町のモリソン商会の者ですが、本日午後に届いたはずの電文が、途中で文字が化けてしまいまして』


警備の手が、止まった。


『上司が大変困っておりまして。明朝の荷が関わる件で、今夜中に確認が取れなければ、契約が破談になると申しておりまして』


警備は竹を見た。小柄な、どこにでもいる日本の少年だ。だが、口から出てくる言葉が、まるで違う。


『もちろん、中に入ろうとは申しません。送信記録の参照番号だけでも確認していただければ、それで十分でございます』


モリソン商会は、居留地でも名の知れた英国系商館だ。竹はその名を三日前から調べていた。


警備が迷っていた。


竹はその迷いを見逃さなかった。畳み掛けるのではなく、ただ待つ。居留地で学んだことだ。異人は沈黙を埋めたがる。


『参照番号はこちらでございます』


竹は懐から、それらしい書類を一枚取り出した。数字が並んでいるだけの紙だ。だが、英国東洋電信会社の様式を模した罫線が引いてある。茂兵衛が昨夜仕上げたものだ。


警備が書類を受け取った。


その瞬間、竹の目が動いた。


小屋の窓。中の人影が、机に向かって何かを書いている。引き継ぎの書類か。二人の視線が、同時に手元に向いている。


暗がりの中を、合羽の人影が、音もなく小屋の裏手に回り込んだ。


竹は警備の顔に視線を戻した。


『お手間は取らせません。ほんの一瞬で結構でございます』


警備が小屋の中に声をかけた。もう一人の警備が顔を出す。二人が短く言葉を交わす。


竹は待った。


表情を変えない。焦りを出さない。ただ、礼儀正しく、少し困った顔で立っている。


小屋の裏手は、見えない。


聞こえるのは、波の音と、遠くの汽笛だけだ。


一分が、経った。


二分が、経った。


警備が書類を返してきた。『この参照番号の記録はない。長崎経由で届いた可能性はないか』


『ああ、それは考えておりませんでした』竹は書類を受け取り、困惑した顔で眺めた。『大変ご迷惑をおかけいたしました。上司に報告して、改めて参ります』


『明朝、本人が直接来るように伝えてくれ』


『かしこまりました。夜分に誠に申し訳ございませんでした』


竹は深く頭を下げ、踵を返した。


歩く。走らない。当たり前のように、石畳を歩く。


角を曲がった瞬間、暗がりから茂兵衛が現れた。布袋を竹に押し返す。


「終わったか」


茂兵衛は答えなかった。


漁師の合羽の袖で、額の汗を拭った。


「……十二分かかった」


「大丈夫か」


「割り込ませた」茂兵衛は拳を握った。「明日の朝、公使館から銀行へ送られる定時の通信に、俺の信号が混じる。大英帝国の神経網に、俺たちの算盤を埋め込んだ」


二人は暗がりの中に立っていた。


波の音が、続いている。


竹は空を見上げた。居留地のガス灯が、遠く、水面に滲んで光っている。


「なあ、茂兵衛さん」


「なんだ」


「あの警備、モリソン商会の名前で引っかかったな」


「お前が調べたのか」


「三日前から」竹は布袋を肩にかけ直した。「横浜で一番でかい英国商館だ。名前を出せば、どの警備でも一瞬止まる」


茂兵衛は竹を見た。


十五の、どこにでもいる孤児だ。戸籍もない。名前も、竹という一字しかない。


「……盗んで覚えた技だな」


竹は小さく笑った。「盗んで覚えた技は、本物じゃないんですか」


茂兵衛は鼻から息を吐いた。それから、口の端を歪めた。「……本物だ」


二人は歩き出した。


居留地の灯りとは反対の方向へ、横浜の暗がりの中へ。


***


翌朝、英国銀行横浜支店。


定時の電文が届いた。


カニンガムは封を切り、読み始めた。


英国公使館からの公式通達。日本政府大蔵省による正式検査。条約第八条に基づく全面協力の要請。検査官の到着は、本日午後。


カニンガムの手が、止まった。


電文を握りしめたまま、立ち上がった。窓の外を見た。港の光が、朝の波に揺れている。


七年間、この日が来ないことを祈り続けた。それが、今日来た。


しかし。


カニンガムは深く息を吸った。


慌てるな。考えろ。自分は、大英帝国最高の銀行支配人だ。


「田村!」


通詞の田村が飛び込んできた。カニンガムは電文を突きつけた。「読め」


田村が電文を読んだ。顔が青くなっていく。


「支配人。実は昨夜、大蔵省の下働きの方と偶然お話しまして」


「何だ」


「今回の検査は条約上、登録された保管庫の現物確認だけが対象だとか。地下室や私室は管轄外で、手が出せないという話でした。あくまで漏れ聞いた話ですが……」


カニンガムは田村の顔を一秒だけ見た。


それから、窓の外に視線を戻した。


脳裏で、何かが繋がった。


登録された保管庫。現物確認。地下室は管轄外。


カニンガムの口元が、わずかに動いた。


「田村。お前は今、何も言わなかった」


田村は頷いた。「はい。何も」


カニンガムは立ち上がり、外套を手に取った。「馬を呼べ。今すぐだ」


居留地から馬で十分、日本橋通りに面した横浜正金銀行の支店。


カニンガムが正面扉を蹴るように開けると、行員たちが一斉に顔を上げた。


「支配人を呼べ」


声だけで、場の空気が変わった。行員の一人が奥へ走る。残りの行員たちは、目を合わせないようにしながら、それぞれの手元に視線を落とした。


呼ばれた支配人は、温厚そうな初老の男だった。カニンガムの顔を見た瞬間、その温厚な顔が強ばった。英国銀行の支配人が、朝一番で血相を変えて来る。ろくなことではない。


「二日間、金塊を貸してもらいたい」カニンガムは椅子にも座らず、立ったまま言った。「金庫の現物照合に必要だ。理由は聞くな」


支配人が眉を上げた。「金塊でございますか。それは……当行の金塊は現在、全て運用中でございまして」


「ならば引き揚げろ」


「それは手続き上、すぐには……」


「では何ならある」


支配人は少し間を置いた。「銀塊でございましたら、ただちにご用意できます。個人保証をいただければ、二日間のご融通は可能かと」


カニンガムは舌打ちをこらえた。


金塊と銀塊では見た目が違う。しかし、どうせ日本人の検査官だ。金属の違いなど分かるまい。文明も教養も持たない猿どもに、金と銀の区別がつくはずがない。何かあれば外交問題だと難癖つければよい。この国は英国人というだけで勝手に下手に出る


「それでいい」カニンガムは言い捨てた。「個人保証の書類を用意しろ。私は急いでいる」


支配人は奥に引っ込んだ。


カニンガムは腕を組み、銀行の天井を見上げた。金塊の代わりに銀塊を金庫に入れる。本物の金塊と秘帳・契約控は地下室に移す。帳尻は合わせられる。地下室は管轄外だ。


完璧だ。


カニンガムは待つ間、行員たちを見渡した。誰も顔を上げない。カニンガムは満足げに鼻を鳴らした。これでいい。下の者は黙って動けばいい。


書類が出てきた。カニンガムはろくに読まずにサインをした。


「急いで運べ。一刻以内に英国銀行へ届けるように」


支配人が頭を下げた。カニンガムはすでに扉へ向かっていた。


英国銀行に戻ると、守衛頭のジャクソンが待っていた。


「支配人。ご報告がございます」


「何だ」カニンガムは歩みを止めなかった。


「地下室の鍵の件なのですが」ジャクソンは追いかけながら言った。「一昨日の夜、数時間ほど所在が分からなくなりまして」


カニンガムの足が、一瞬だけ止まった。「紛失か」


「いえ、翌朝には見つかりました。担当者の上着の裏ポケットに入っておりました。おそらく入れ忘れていたものかと。ただ、念のためご報告を」


「地下室の扉に、外から入られた形跡はあるか」


「ございません」


カニンガムは歩きながら、鼻で笑った。


「数時間で見つかったのだろう。裏ポケットに入っていたのだろう。担当者の不注意だ」廊下の突き当たりで振り返り、ジャクソンを一瞥した。「以後気をつけるよう伝えろ。それだけだ」


「しかし支配人、念のため錠前を替えることも……」


「不要だ」


カニンガムは廊下を歩き続けた。


背後でジャクソンが何か言いかけたが、カニンガムは聞かなかった。


地下室の鍵は、数時間で戻ってきた。扉に侵入の跡はない。担当者の不注意で、裏ポケットに入っていただけだ。


問題ない。


全て、問題ない。


大英帝国の銀行支配人が、こんな猿どもの監査ごときで足をすくわれるはずがない。


カニンガムは窓の外を見た。


港の光が、穏やかに波に揺れていた。


その頃、茶屋の二階から弥助が静かに立ち上がった。


数馬に報告すべきことが、二つある。


田村が餌を飲んだ。そして半次が作った複製鍵を、カニンガムは気にも留めなかった。


計画は、動き出した。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ