第八話:本物より本物
廻船問屋の跡地に、朝から変な空気が漂っていた。
茂兵衛は土間の隅で機材の組み立てを始めた。弥助は夜明け前から姿を消した。仙蔵は波止場との往復を繰り返している。半次は昨日から姿が見えない。どこで何をしているかは、誰も聞かない。
竹だけが、行き場なく廊下に座っていた。
奥座敷から、清右衛門の声が聞こえる。
「もう一度」
竹は膝を抱えたまま、障子の向こうに耳を傾けた。
菊次郎が歩く音がする。床板を踏む、一定のリズム。止まる。また歩く。
「右肩が下がる」
菊次郎の舌打ちをこらえる気配がした。
竹は立ち上がり、台所で水を汲んだ。湯飲みを二つ持って、奥座敷の障子の前に立った。
「……入っていいですか」
返事がなかった。竹は構わず障子を開けた。
清右衛門が振り返り、竹を一瞥した。それから無表情のまま、視線を菊次郎に戻した。
「続けなさい」
菊次郎は竹を見た。竹が湯飲みを部屋の隅に置くと、菊次郎は小さく頷いて、また歩き始めた。
竹は部屋の隅に座り、膝を抱えた。
***
特訓は、昼を過ぎても終わらなかった。
歩き方。立ち方。書類の受け取り方。椅子への座り方。視線の置き場。
清右衛門は一つ一つを、妥協なく直した。菊次郎は黙って従った。怒鳴りもしない。投げ出しもしない。ただ、何度でも繰り返した。
竹はその様子を、ずっと見ていた。
役者というのは、こういうものか、と思った。居留地で見た西洋の劇団が、横浜の波止場に来た時のことを思い出した。舞台の上で別の人間になる、あの感覚。竹には分からない感覚だった。
「竹」
清右衛門が、突然竹を呼んだ。
竹は顔を上げた。「……はい」
「お前は英語で話す時、今と声が変わるか」
竹は考えた。「……変わると思います。たぶん」
「どう変わる」
「なんというか……居留地の言葉になります。横浜の言葉じゃなくて、異人の言葉に」
清右衛門は頷いた。「それだ」
菊次郎が、竹を見た。
「お前が英語を話す時、お前はお前のままか」
竹はしばらく考えた。「……違います。なんか、別の竹になる気がします。でも、竹なんですよね。消えるわけじゃなくて」
菊次郎は、その答えを聞いて、天井を仰いだ。
「……そうか」
清右衛門が静かに言った。「菊次郎。お前が山城主水になる時も、同じことだ。菊次郎が消えるのではない。菊次郎のまま、山城主水になる」
菊次郎は目を閉じた。
しばらく、部屋が静まった。
それから、菊次郎は立ち上がった。
歩いた。
竹は思わず、背筋を正した。さっきまでと、何かが違う。歩き方が変わったわけではない。ただ、部屋の空気が変わった。そこを歩いているのが、別の人間のように見える。
清右衛門は黙っていた。
菊次郎が部屋の端まで歩き、振り返った。
右手の指先が、ほんのわずかに、歌舞伎の見得の形に揃っていた。役者として染み付いた、消えない癖だ。
菊次郎は自分の指先を見た。苦い顔をした。「……またこれか」
清右衛門が歩み寄った。老いた指で、菊次郎の指先をそっと開いた。
「消すな」
菊次郎が顔を上げた。
「武家の男が洋装を纏っても、体の奥の所作は消えない。お前のその指先は、七年間舞台に立ち続けた証だ。見る者が見れば、この男は只者ではないと思う。見る者が見なければ、ただの癖に過ぎない」
清右衛門はゆっくりと手を離した。「カニンガムには、見る目はない。消そうとして不自然になるより、それごと山城主水になれ」
菊次郎は自分の右手を見た。
泥の中に這いつくばった日も、白石屋に罵倒された夜も、消えなかった指先だ。
「……本物より本物か」
「それがお前にしかできないことだ」
菊次郎は、もう一度歩いた。
指先は、そのままだった。
清右衛門は何も言わなかった。ただ、四十年間で初めて、弟子でもない男のために、深く頭を下げた。
竹は、その頭の上を見つめた。
なんで泣きそうな気持ちになるんだろう、と思った。自分でも、よく分からなかった。
***
夕刻。特訓が終わり、菊次郎が縁側で涼んでいた。
竹が隣に座った。
しばらく、二人は黙っていた。
「なあ」菊次郎が口を開いた。「お前、英語はどこで覚えた」
「覚えてないです」
「覚えてない?」
「居留地で拾いました。気づいたら話せてた」
菊次郎は竹を見た。「親は」
「いないです」竹はあっさり言った。「正確には、いたんですけど。戸籍ごと消されたんで。いないのと同じです」
菊次郎は何も言わなかった。
「でもまあ」竹は空を見上げた。「俺の親父は彰義隊だったんで。賊軍ってやつですよ。どうせろくでもない死に方したんでしょう。名前も顔も知らないけど」
「……知りたくないのか」
「知りたいですよ」竹は膝を抱えた。「でも、知る方法がない。戸籍がないから、探せない。名前を調べようとしても、賊軍として処理されてるから記録がない。俺の親父は、この国の帳簿に存在しないんです」
竹は、懐の覚書を思った。数馬が持っていると言った、父の名前が書かれた一枚。
「あの覚書が本物なら」竹は続けた。「少なくとも、名前だけは分かる。そういうことですよね」
菊次郎は縁側から空を見上げた。夕暮れの雲が、横浜の上を流れていた。
「……お前はまだ、若いな」
「十五です。たぶん」
「たぶん、か」
「生まれた日も知らないんで」
菊次郎は、鼻で笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「俺は三十二だ。看板を売り渡してから、もう三年になる。舞台に立てない三年間は、長いぞ」
竹は菊次郎を見た。「今回、また立てますよ。舞台に」
「舞台?」
「英国銀行が舞台で、カニンガムが観客じゃないですか」
菊次郎は、しばらく竹を見た。
それから、声を上げて笑った。
廊下の向こうで、清右衛門の「うるさい」という声がした。菊次郎はさらに笑い、竹も釣られて笑った。
二人の笑い声が、夕暮れの廻船問屋に響いた。
***
夜、数馬は一人、アジトの隅で弥助の報告書を広げていた。
英国銀行の内部構造の略図。行員の動線、警備の配置、VIPルームから地下室への経路。
数馬は算盤を静かに弾いた。
パチリ。パチリ。
奥座敷から、清右衛門の声が聞こえた。「もう一度。今度は封蝋の押し方から」
菊次郎の返事は聞こえない。
ただ、畳を踏む足音が、昨日より確かな重さを持っていた。
竹の声も、聞こえた。「こうやって押すんですか」
「違う。手首から動かすな。肩から動かせ」
「こうですか」
「……まあ、及第点だ」
数馬は算盤を止め、略図の一点を指先で押さえた。
執務室の個人金庫の位置。
パチリ、と算盤が鳴った。
全ての歯車が、噛み合い始めていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




