表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末の生き残り、英国銀行を盗る  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/16

第八話:本物より本物

廻船問屋の跡地に、朝から変な空気が漂っていた。


茂兵衛は土間の隅で機材の組み立てを始めた。弥助は夜明け前から姿を消した。仙蔵は波止場との往復を繰り返している。半次は昨日から姿が見えない。どこで何をしているかは、誰も聞かない。


竹だけが、行き場なく廊下に座っていた。


奥座敷から、清右衛門の声が聞こえる。


「もう一度」


竹は膝を抱えたまま、障子の向こうに耳を傾けた。


菊次郎が歩く音がする。床板を踏む、一定のリズム。止まる。また歩く。


「右肩が下がる」


菊次郎の舌打ちをこらえる気配がした。


竹は立ち上がり、台所で水を汲んだ。湯飲みを二つ持って、奥座敷の障子の前に立った。


「……入っていいですか」


返事がなかった。竹は構わず障子を開けた。


清右衛門が振り返り、竹を一瞥した。それから無表情のまま、視線を菊次郎に戻した。


「続けなさい」


菊次郎は竹を見た。竹が湯飲みを部屋の隅に置くと、菊次郎は小さく頷いて、また歩き始めた。


竹は部屋の隅に座り、膝を抱えた。


***


特訓は、昼を過ぎても終わらなかった。


歩き方。立ち方。書類の受け取り方。椅子への座り方。視線の置き場。


清右衛門は一つ一つを、妥協なく直した。菊次郎は黙って従った。怒鳴りもしない。投げ出しもしない。ただ、何度でも繰り返した。


竹はその様子を、ずっと見ていた。


役者というのは、こういうものか、と思った。居留地で見た西洋の劇団が、横浜の波止場に来た時のことを思い出した。舞台の上で別の人間になる、あの感覚。竹には分からない感覚だった。


「竹」


清右衛門が、突然竹を呼んだ。


竹は顔を上げた。「……はい」


「お前は英語で話す時、今と声が変わるか」


竹は考えた。「……変わると思います。たぶん」


「どう変わる」


「なんというか……居留地の言葉になります。横浜の言葉じゃなくて、異人の言葉に」


清右衛門は頷いた。「それだ」


菊次郎が、竹を見た。


「お前が英語を話す時、お前はお前のままか」


竹はしばらく考えた。「……違います。なんか、別の竹になる気がします。でも、竹なんですよね。消えるわけじゃなくて」


菊次郎は、その答えを聞いて、天井を仰いだ。


「……そうか」


清右衛門が静かに言った。「菊次郎。お前が山城主水になる時も、同じことだ。菊次郎が消えるのではない。菊次郎のまま、山城主水になる」


菊次郎は目を閉じた。


しばらく、部屋が静まった。


それから、菊次郎は立ち上がった。


歩いた。


竹は思わず、背筋を正した。さっきまでと、何かが違う。歩き方が変わったわけではない。ただ、部屋の空気が変わった。そこを歩いているのが、別の人間のように見える。


清右衛門は黙っていた。


菊次郎が部屋の端まで歩き、振り返った。


右手の指先が、ほんのわずかに、歌舞伎の見得の形に揃っていた。役者として染み付いた、消えない癖だ。


菊次郎は自分の指先を見た。苦い顔をした。「……またこれか」


清右衛門が歩み寄った。老いた指で、菊次郎の指先をそっと開いた。


「消すな」


菊次郎が顔を上げた。


「武家の男が洋装を纏っても、体の奥の所作は消えない。お前のその指先は、七年間舞台に立ち続けた証だ。見る者が見れば、この男は只者ではないと思う。見る者が見なければ、ただの癖に過ぎない」


清右衛門はゆっくりと手を離した。「カニンガムには、見る目はない。消そうとして不自然になるより、それごと山城主水になれ」


菊次郎は自分の右手を見た。


泥の中に這いつくばった日も、白石屋に罵倒された夜も、消えなかった指先だ。


「……本物より本物か」


「それがお前にしかできないことだ」


菊次郎は、もう一度歩いた。


指先は、そのままだった。


清右衛門は何も言わなかった。ただ、四十年間で初めて、弟子でもない男のために、深く頭を下げた。


竹は、その頭の上を見つめた。


なんで泣きそうな気持ちになるんだろう、と思った。自分でも、よく分からなかった。


***


夕刻。特訓が終わり、菊次郎が縁側で涼んでいた。


竹が隣に座った。


しばらく、二人は黙っていた。


「なあ」菊次郎が口を開いた。「お前、英語はどこで覚えた」


「覚えてないです」


「覚えてない?」


「居留地で拾いました。気づいたら話せてた」


菊次郎は竹を見た。「親は」


「いないです」竹はあっさり言った。「正確には、いたんですけど。戸籍ごと消されたんで。いないのと同じです」


菊次郎は何も言わなかった。


「でもまあ」竹は空を見上げた。「俺の親父は彰義隊だったんで。賊軍ってやつですよ。どうせろくでもない死に方したんでしょう。名前も顔も知らないけど」


「……知りたくないのか」


「知りたいですよ」竹は膝を抱えた。「でも、知る方法がない。戸籍がないから、探せない。名前を調べようとしても、賊軍として処理されてるから記録がない。俺の親父は、この国の帳簿に存在しないんです」


竹は、懐の覚書を思った。数馬が持っていると言った、父の名前が書かれた一枚。


「あの覚書が本物なら」竹は続けた。「少なくとも、名前だけは分かる。そういうことですよね」


菊次郎は縁側から空を見上げた。夕暮れの雲が、横浜の上を流れていた。


「……お前はまだ、若いな」


「十五です。たぶん」


「たぶん、か」


「生まれた日も知らないんで」


菊次郎は、鼻で笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。


「俺は三十二だ。看板を売り渡してから、もう三年になる。舞台に立てない三年間は、長いぞ」


竹は菊次郎を見た。「今回、また立てますよ。舞台に」


「舞台?」


「英国銀行が舞台で、カニンガムが観客じゃないですか」


菊次郎は、しばらく竹を見た。


それから、声を上げて笑った。


廊下の向こうで、清右衛門の「うるさい」という声がした。菊次郎はさらに笑い、竹も釣られて笑った。


二人の笑い声が、夕暮れの廻船問屋に響いた。


***


夜、数馬は一人、アジトの隅で弥助の報告書を広げていた。


英国銀行の内部構造の略図。行員の動線、警備の配置、VIPルームから地下室への経路。


数馬は算盤を静かに弾いた。


パチリ。パチリ。


奥座敷から、清右衛門の声が聞こえた。「もう一度。今度は封蝋の押し方から」


菊次郎の返事は聞こえない。


ただ、畳を踏む足音が、昨日より確かな重さを持っていた。


竹の声も、聞こえた。「こうやって押すんですか」


「違う。手首から動かすな。肩から動かせ」


「こうですか」


「……まあ、及第点だ」


数馬は算盤を止め、略図の一点を指先で押さえた。


執務室の個人金庫の位置。


パチリ、と算盤が鳴った。


全ての歯車が、噛み合い始めていた。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ