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幕末の生き残り、英国銀行を盗る  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第七話:敗者たちの決算報告

翌朝、全員が来た。


廻船問屋の跡地。昨夜より早い刻限に、八人は黙って席についた。遅れた者はいない。数馬はそれを確認してから、黒板の前に立った。


黒板には、すでに図が描かれていた。

銀行の見取り図ではない。

人の名前と、矢印と、金額の数字が、複雑に絡み合っている。


「これが、現在の帳簿だ」


数馬はチョークで、図の中心にある三つの名前を囲んだ。

『英国銀行横浜支店』『新政府大蔵省』『白石屋』


「三者は、表向きには別々に動いている。だが、一本の線で繋がっている」


数馬はチョークを走らせた。


「慶応四年、幕府が英国銀行に預けた公金、三十万両。新政府はこれを『旧府整理預り金』として接収すると宣言した。だが実際には、接収は完了していない。金はまだ、英国銀行の金庫の中にある」


茂兵衛が口を挟んだ。「接収できなかったのか?」


「できなかったのではない。しなかったのだ」


数馬は図の矢印をなぞった。


「接収が完了すれば、金の所有権は新政府のものになる。公金として帳簿に載り、使途を明示しなければならなくなる。それでは、困る者たちがいた」


菊次郎が静かに言った。「白石屋か」


「白石屋と、相良主税だ。二人は密約を結んだ。金を『所有者不明の整理金』のまま宙に浮かせ、英国銀行の帳簿上で少しずつ目減りさせていく。その差額が、三者の懐に入る仕組みだ」


弥助が天井から視線を落とした。「証拠は」


「ある」


数馬は黒板の端に、二つの言葉を書いた。


『秘帳』『契約控』


「英国銀行の金庫の中に、この二つがある。秘帳は、横領の実態を記録した内部帳簿だ。どの金がどこへ流れたか、三者の署名入りで記録されている。契約控は、三者が交わした密約の写しだ。これがある限り、三者は互いに逃げられない」


清右衛門が静かに問うた。「……それを、取り返すのですな」


「金だけでは意味がない」数馬は言った。「金塊を盗んでも、我々はただの強盗になる。秘帳と契約控を取り返して初めて、あの金が『誰に支払われるべきか』を証明できる。それがなければ、遺族への支払いは不法行為だ」


部屋が静まった。


竹が手を上げた。「……一個だけ聞いていいすか」


「言え」


「なんで七年待ったんですか」竹の目は、真っ直ぐだった。「七年前に動けばよかったんじゃないですか」


誰も笑わなかった。全員が、数馬を見た。


数馬はチョークを置いた。


「七年間、動いていた」


静かな声だった。


「嘆願書を書いた。上申書を出した。新政府の窓口に並んだ。然るべき筋へ話を通そうとした。そのたびに、同じ言葉が返ってきた。『在所不明』。『繰入済』。『手続き上の問題につき対応不可』」


数馬は、黒板の図を一度だけ見た。


「合法的な手続きの内側から、この帳簿は絶対に動かせない。そう確信するまでに、七年かかった」


竹は何も言わなかった。


菊次郎が、低く言った。「……銀行で、窓口の女を見た時か」


数馬は答えなかった。

答えないことが、答えだった。


***


「攻略する壁は、三層ある」


数馬は黒板に向き直り、チョークを走らせた。


「第一の壁。物理だ」


黒板に、金庫の略図が現れた。


「シェフィールド鋼の特注金庫、四重ダイヤル式ロック。鍵穴がない。爆薬を使えば建物ごと吹き飛ぶ。物理的な破壊と解錠は、不可能と見ていい」


「第二の壁。権威だ」


「金庫の横に積まれた書類箱には、英国の公的な封蝋が押されている。これを物理的に盗み出せば、大英帝国への窃盗と内政干渉として新政府軍が動く。外交特権という名の壁だ」


「第三の壁。論理だ」


「帳簿の上では、あの金の所有権はすでに書き換えられている。正面から請求しても、『在所不明の整理金』として処理される。それは皆が知っている通りだ」


茂兵衛が腕を組んだ。「……つまり、力でも、法でも、筋道でも、開かない」


「開かない」数馬は頷いた。「だから、奴らの手で開けさせる」


部屋の空気が変わった。


「カニンガムは日本人を猿と呼んで憚らない。だが、一つだけ逆らえないものがある。条約上の義務だ」


数馬はチョークで黒板に書いた。『日英修好通商条約』


「英国公使館から銀行へ、『日本政府大蔵省による正式検査につき、条約に基づき全面協力を求む』という電報が届けば、カニンガムはどれだけ屈辱でも従うしかない。拒否すれば、条約違反として本国から咎められる。あの男の傲慢さも、本国への恐怖には勝てない」


茂兵衛の目が光った。「公使館と銀行の間の通信線を乗っ取る。俺の仕事だ」


「ああ。陸揚げ局から線を引っこ抜き、偽の電報を打ち込む。それが第一と第二の壁を、奴らの手で開けさせる鍵になる」


「ただし」


数馬は一拍置いた。


「カニンガムは馬鹿ではない。正式な監査が来ると知れば、必ず動く」


菊次郎が問うた。「どう動く」


「考えてみろ。金庫の中には三十万両あったはずが、七年間で大幅に目減りしている。横領の証拠が、帳簿ごとそのまま入っている。監査官に金庫を開けられれば、その瞬間に全てが露見する」


茂兵衛が低く言った。「……だから隠す」


「そうだ。弥助が事前に動く。大蔵省の下働きに変装し、カニンガムの通詞に情報を流す。『今回の検査は条約上、登録された保管庫の現物確認だけが対象。地下室は管轄外だ』と」


弥助が静かに言った。「カニンガムが自分で地下室に移す」


「ああ。本物の金塊と書類を地下室に隠し、金庫には別の資産を入れて帳尻を合わせようとする。外から鍵をかけ、誰にも分からないと思いながら。奴に、そう判断させる。そして奴が自ら罠に入ってくる」


茂兵衛が眉を上げた。「地下室の鍵は」


数馬は半次を見た。


部屋の奥で壁に背を預けていた半次が、帽子のつばをわずかに上げた。


「南京錠だ」半次は言った。「本物を数時間借りれば、複製が作れる。カニンガムが地下室の鍵を肌身離さず持ち歩く癖があることは、もう調べがついてる」


竹が半次を見た。「どうやって借りるんですか」


「そいつは俺の仕事だ」半次はつばを戻した。「聞かない方がいい」


数馬が続けた。「半次が複製鍵を作る。当日、弥助が複製鍵を使って地下室に侵入し、金塊を運び出す」


仙蔵が口を開いた。「運び出した金塊はどうする」


「お前の荷役衆が、銀行裏手の路地で待機する。弥助が地下室から出したものを、波止場の荷に紛れ込ませる」


仙蔵は黙って頷いた。


「菊次郎が検査官を演じる」数馬は菊次郎を見た。「新政府大蔵省の特命検査官だ」


菊次郎の目が、わずかに細くなった。「……新政府の看板を借りるわけか」


「奴らが遺族から金を奪うために使った看板を、奪い返すために使う。これ以上の皮肉はない」


菊次郎は、しばらく黙っていた。それから、低く笑った。「面白い。続けろ」


「清右衛門が菊次郎を仕上げる」数馬は清右衛門を見た。「新政府の高官が纏うべき威儀。洋風の礼法と日本式の格式が混在した、あの連中特有の権威の振る舞いだ。それを教えられるのは、お前だけだ」


清右衛門は、一瞬だけ目を伏せた。

新政府に「時代遅れ」と切り捨てられた作法で、新政府の看板を作る。

その皮肉の重さを、清右衛門だけが全身で受け止めていた。


「……承知した」清右衛門は、静かに頷いた。「本物より本物に仕上げてみせる」


数馬は続けた。


「竹は通詞として菊次郎に同行し、英語で全ての交渉を裁く。弥助は銀行内外の警備と人の動きを把握しながら、合図を待つ。宗伯は検査中に同席し、最後の切り札として動く」


宗伯は、また指先を拭いていた。「分かっている」


「コレラ騒ぎで全員が庭に退避する。その混乱の中に、弥助が動く時間がある。仙蔵の荷役衆と連携し、地下室の金塊を波止場へ流す。菊次郎と竹はその間、カニンガムたちと庭で待機する。コレラではないことを確認した後、全員でVIPルームに戻る。菊次郎と竹は涼しい顔で照合を終え、正面から堂々と帰る」


茂兵衛が腕を組んだ。「……後でカニンガムが地下室を確認したら、すぐにバレるんじゃないか」


「バレても構わない」


全員が数馬を見た。


「地下室に金塊を移した事実を誰かに話せば、カニンガム自身の隠蔽工作が露見する。金庫に偽の資産を入れたことも、別の銀行を脅して銀塊を借りたことも、全て公になる。訴えれば自分が終わる。だから、誰にも言えない」


部屋に、静寂が降りた。


菊次郎が低く言った。「……罠に嵌まった獣は、声も上げられないか」


「そういうことだ」数馬は言った。「以上が、作戦の全貌だ」


***


茂兵衛が口を開いた。「……うまくいくか」


数馬は答えなかった。

代わりに、懐に手を入れた。


取り出したのは、紙の束だった。

受取覚書だ。

古びた、角の擦り切れた紙が、何枚も重なっている。数馬はそれを、黒板の前の台に置いた。


「これが、この企てが回収すべき債権の一覧だ」


数馬は束を繰り始めた。一枚ずつ、名前を確認するように。

その指が、ある一枚で止まった。


「……片瀬惣兵衛」


誰も知らない名前だった。

数馬はその一枚を、束の一番上に置いた。

それだけだった。説明はない。


仙蔵が、数馬の横顔を一瞬だけ見た。それから視線を外した。


菊次郎が、懐に手を入れた。

古びた紙を一枚、取り出して、台の上に置いた。


清右衛門が、続いた。震える手で、丁寧に折り畳まれた覚書を、台に重ねた。


茂兵衛が、無造作に一枚叩きつけた。


弥助が、音もなく一枚置いた。


仙蔵が、最後に一枚を、静かに重ねた。


竹だけが、手ぶらだった。

竹の父の戸籍は、明治二年に抹消されている。覚書が発行される前に、存在ごと消された。


竹は俯いて、膝の上で拳を握った。


数馬は、竹を見た。


「お前の分は、俺が持っている」


懐から、もう一枚取り出した。

宛名には、竹の父の名前が書かれていた。


竹は顔を上げなかった。

ただ、握った拳が、白くなった。


部屋の奥で、半次が帽子のつばを指で弾いた。


「……俺の分はないのか、旦那」


数馬は半次を見た。懐からもう一枚取り出し、台の上に重ねた。

横浜特別警察の、未払い給与の証書だ。汚職として処理された、あの日の給料だ。


半次の手が、止まった。


帽子のつばの下から、何かが光った。


それ以上は、何も言わなかった。


台の上に、覚書が重なっていた。

血で赤黒く染まったものもある。雨で滲んだものもある。七年間、誰かが肌身離さず持ち続けてきた紙の、疲弊した質感がある。


数馬は、その束を一度だけ見た。


「七年前の不渡りを、取り立てに行く」


誰も、何も言わなかった。

言葉はもう、要らなかった。

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