表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末の生き残り、英国銀行を盗る  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/16

第六話:波止場の不良債権

明治七年、五月。

横浜の朝は、潮の匂いより先に、人の匂いがする。


廃刀令から三年が経った。

本町通りを行き交う男たちの腰は、皆一様に軽い。武士も町人も、もはや同じ腰つきで歩いている。ただ、歩き方だけが違う。新時代の男たちは顎を上げて歩く。時代に乗り遅れた者たちは、地面を見て歩く。


片桐数馬は、どちらでもない歩き方で、本町通りを南へ向かっていた。

腰の算盤が、一定のリズムで揺れている。


角を曲がると、居留地との境界が見えてくる。境界のこちら側では、日本の仲買人が反物を抱えて立ち並んでいる。向こう側では、英国商人が椅子に腰かけ、値を告げている。仲買人は頷くだけだ。値を交渉する言葉も、交渉が成立する帳簿の仕組みも、持っていない。


数馬はそれを一瞥し、歩みを止めなかった。


波止場への路地に入る手前、古びたレンガ塀に立て札が打ちつけられていた。


『英国領事館管轄区域内ニ於ケル示威行為ヲ禁ズ』


その根元に、紙の束が積み重なっていた。

嘆願書だ。風雨に晒され、墨が滲んで文字が読めなくなっている。何枚あるかも判然としない。ただ、ここに来て言葉を尽くし、それでも届かなかった者たちがいたということだけが、朽ちた紙の量で分かる。


数馬は立ち止まり、一秒だけそれを見た。

それから、路地を抜けた。


***


波止場は、朝から慌ただしかった。

上海からの蒸気船が夜明けに入港し、荷下ろしの男たちが桟橋を行き来している。怒声と滑車の音と、生魚の匂いが入り交じる中、一人の男が、荷の流れを仕切っていた。


荷役頭の仙蔵。

四十がらみの、日焼けした大柄な男だ。顎に古い刀傷がある。彼が指を一本立てると荷が動き、手のひらを押さえると列が止まる。波止場の物流は、この男の体の動きで動いていた。


数馬が桟橋の端に立つと、仙蔵は荷を見たまま言った。

「邪魔だ、どきな」

「仙蔵。少し時間をもらいたい」

仙蔵の手が、止まった。

彼はゆっくりと振り返り、数馬の顔を見た。顎の刀傷が、朝の光の中で白く光る。

「……お前が、片桐か」

声に、熱がない。その分だけ、重い。

「そうだ」

「勘定方の」

「元、だ」

仙蔵は、荷役の男に顎をしゃくった。男たちが、黙って距離を取る。


「慶応四年」

仙蔵は、数馬を見たまま言った。波止場の喧騒が、二人の周囲だけ遠のいていくようだった。

「大坂の勘定方が、一夜で帳簿を書き換えた。前線への兵糧と援軍の引き当てが、朝になったら消えていた」

数馬は何も言わない。

「兄貴の部隊は、その日の昼前に玉薬が尽きた。刀で突っ込んで、銃剣で腹を抜かれた」

仙蔵の目は、静かだった。怒鳴りもしない。泣きもしない。ただ、七年間、腐らずに保存されてきた憎悪の目だ。

「相良に命じられたと聞いた。だがお前は、一度、拒否できたとも聞いた」

数馬は、頷かなかった。否定もしなかった。

「より少ない犠牲でこの国が成り立つなら、と。お前が自分で算盤を弾いて、署名した。……そう聞いた」

「聞いた通りだ」

数馬の声は、平坦だった。弁解の色が、一切ない。

仙蔵の顎の筋肉が、微かに動いた。

「なんでお前が音頭を取ってる。なんで俺がお前の話を聞かなきゃならない」

「嫌なら帰れ。止めない」

しばらく、滑車の音だけが響いた。

仙蔵は視線を海に投げ、それから数馬に戻した。

「……英国銀行の、絶対金庫」

「ああ」

「兄貴たちへの未払い給与が、その中にある」

「ある」

「取り返せるか」

「取り返す」

仙蔵は、鼻から息を吐いた。それは、許しではなかった。

「片桐。俺はお前を許してねえ。これからも許すつもりはない」

「知っている」

「お前を使い潰してでも、兄貴の金を取り返す。それだけだ」

数馬は頷いた。「それで構わない」

仙蔵は踵を返し、荷役の男たちに声を張り上げた。「次の便まで一刻ある。俺は少し出る」

それだけ言って、桟橋を歩き出した。数馬が、その後に続いた。


***


夕刻、横浜の外れにある古い廻船問屋の跡地。

板張りの薄暗い部屋に、八人が集まっていた。


茂兵衛、菊次郎、清右衛門、仙蔵。それに、数馬がすでに話をつけていた四人。


新聞売りの少年・竹。十四か五か、定かでない。居留地の異人から英語を盗み覚えた、横浜生まれの孤児だ。


元隠密の弥助。旧幕府の御庭番崩れで、今は何屋とも知れない。人の気配を消すことと、気配を読むことだけを生業にしてきた男だ。


医者の宗伯。部屋の隅に座る初老の男だ。


そして、もう一人。

部屋の一番奥、壁に背を預けて立っている男がいた。

目深に被った中折れ帽が、顔の上半分を隠している。年は四十前後か。ただ、腕を組んだその立ち姿には、妙な凄みがあった。


数馬は、全員の顔を一度だけ見渡してから、懐から折りたたんだ紙を出した。広げると、八人分の名前と、それぞれの「負債の内訳」が書かれている。


「確認する」

数馬は読み上げた。帳簿を読むように、淡々と。

「茂兵衛。幕府御用達・からくり師。白石屋への抵当、工房と工具一式、五百円」

茂兵衛が、顎でしゃくった。

「菊次郎。元・中村座の天才女形。白石屋への負債、元金三百円と利息」

菊次郎は、黙って扇を開いた。

「清右衛門。元・徳川家礼法指南役。新政府より解雇、退職金の支払いなし」

清右衛門は、背筋を伸ばして頷いた。

「仙蔵。横浜港荷役頭。白石屋の物流支配により、稼ぎの三割を上納中」

仙蔵は何も言わなかった。

「竹。無籍。彰義隊の残党として賊軍処理された父の戸籍は、明治二年に政府によって抹消。居留地の商館に英語の通詞を申し込んだが、警保局に無籍の浮浪児として追放された」

竹は鼻をすすった。今度は誰も、軽いとは思わなかった。

「弥助。元・旧幕府御庭番。新政府内務省より『旧幕密偵は百円の登録料をもって届け出るべし』との通達。……要するに、飼い犬になれということだ」

弥助は天井を見たまま、微かに笑った。「払う気はなかった。今もない」


数馬は最後の二人の前で、一瞬だけ間を置いた。

「宗伯。旧幕府の外科医。明治五年のコレラ流行時、横浜の患者収容を一手に引き受けた。政府からの約束だった補助金は、翌年の予算組み替えで消えた。患者三十二人を診て、受け取った金は一銭もない」


宗伯は、手元の布で指先を拭いながら言った。

「今年の夏も流行る。去年の冬から、波止場の検疫が緩んでいる」

誰も返事をしなかった。宗伯は続けた。

「あの黄色い旗を見ると、異人は思考が止まる。石灰の匂いを嗅いだだけで部屋から逃げ出す。あれは、病気への恐怖じゃない。自分が死ぬかもしれないという、制御できない本能だ」

宗伯は顔を上げ、数馬を見た。「それを使うつもりだろう」

数馬は、紙を折り畳んだ。「そのために来てもらった」

宗伯は小さく頷き、また指先を拭き始めた。


「最後だ」

数馬は、奥の壁際に立つ男を見た。


男は帽子のつばを、さらに目深に引き下げた。


「……勘弁してくれよ、旦那。俺ぁ素顔を晒す趣味はない」


しゃがれた、しかし妙に陽気な声だった。


「元・横浜特別警察の刑事、半次はんじ。汚職の証拠を白石屋に握られ、免職の上に飼い殺し。……今の稼業は、泥棒だ」


半次は肩をすくめた。「そういうわけで、旦那方と同じ帳簿の上に乗ってるってこった」


竹が半次を見た。「泥棒なら、最初から金庫の鍵を盗めばいいんじゃないですか」


半次は帽子のつばの下から、竹を一瞥した。


「坊主、あの金庫を見たことがあるか。三重の仕掛けに、ダイヤル式の錠前だ。鍵を盗んだところで複製なんざ出来やしない。そもそも、あの金庫には鍵穴すらないんだぜ」


「じゃあ何ができるんですか」


「地下室の鍵なら話は別だ」半次は、指先でつばを弾いた。「ありゃあ普通の南京錠だ。本物を数時間借りれば、複製が作れる。問題は、どうやって借りるかだがな」


竹はしばらく半次を見てから、視線を外した。


「……泥棒が素顔を晒したらおしまいよ、ってやつですか」


「そういうことだ」半次はにやりとした。「顔を売ったら商売上がったりだ。旦那方もそこは分かってくれるな?」


誰も異論を言わなかった。


部屋が静まった。

八人分の「負債の台帳」が、薄暗い空気の中に残った。

誰も、何も言わない。言う必要がなかった。ここにいる全員が、同じ帳簿の上に乗っている。


数馬は立ち上がり、部屋の奥に立てかけてある黒板の前に立った。

「明日から、作戦の全貌を話す」

それだけ言って、数馬は外套を手に取った。

出口に向かう途中、仙蔵と肩が並んだ。

二人は、互いを見なかった。

ただ、仙蔵が低く、独り言のように言った。

「……明日、ちゃんと来るぞ」

数馬は、答えなかった。

答える必要がないことを、二人とも知っていた。


半次だけが、一人部屋の奥に残り、帽子のつばをさらに引き下げながら、誰にも聞こえない声で呟いた。

「……泥棒と元刑事と、勘定方か。妙な組み合わせだねえ」

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ