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幕末の生き残り、英国銀行を盗る  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第五話:国家の論理と、血塗られた覚書

横浜の居留地に隣接する、新政府の外務省・横浜支局。

真新しい洋館の一室には、秒針の刻む音が冷徹に響いていた。壁に掛けられた西洋時計が、新時代の進行を無慈悲に告げている。


「――無用だ。もはや貴様の古臭い作法など、この国の帳簿には一銭の価値もない」

仕立てのよい洋装に身を包んだ新政府の大蔵官僚、相良主税さがらちからは、卓上の書類から目を離さずに言い放った。


彼の前で畳に手をついているのは、初老の男だ。かつて徳川家で礼法指南役を務めた、柴田 清右衛門きようえもん

「相良様……どうか、もう一度お考え直しを。異人を迎えるにあたっても、我が国の威儀を正す作法は必ずや――」

「威儀だと?」

相良はペンを置き、初めて冷たい視線を清右衛門に向けた。


「我々が異人と結ぶのは、茶の湯の交わりではない。条約という名の冷徹な契約だ。燕尾服の着こなしも、洋食の作法も知らぬ旧幕府の礼法など、外交という盤上では『不良債権』でしかない。損金処理される前に、自ら身を引きなさい」

清右衛門の肩が、力なく落ちた。四十年にわたり磨き上げてきた誇りが、ただの「無価値な古物」として切り捨てられた瞬間だった。

「……相良。お前は昔から、数字に合わないものを切り捨てることだけは早かったな」

部屋の入り口から、静かな、だがひどく冷え切った声が響いた。


相良の眉が微かに動く。

そこに立っていたのは、仙台平の袴に算盤を差した男、片桐数馬だった。

「誰かと思えば。……片桐か。まだそんな時代遅れの格好で、死人の勘定を数えているのか」

相良は、かつての部下を見る目に、一切の感情を交えなかった。

相良主税。旧幕府の勘定方でありながら、いち早く新政府に寝返り、その冷徹な計算能力で大蔵省の高官にまで上り詰めた男。


数馬にとって、彼はただの敵ではない。

七年前の鳥羽伏見の戦いにおいて、最前線で見殺しにされた幕臣たちの「名前」を、帳簿から抹消するよう命じた張本人だ。

数馬は、懐の中にある古い紙片――あの激戦の最中、弾雨の中で息絶えた親友が最期まで握りしめていた「受取覚書」――に、着物の外からそっと触れた。

血で赤黒く染まり、いまだ決済されていない、不渡りの手形。


数馬がその手形に裏書サインをしたのだ。必ず金と援軍を送ると。

「あの時、お前は言ったな。国家という大義のためには、末端の兵士の支払いを帳簿から消し去り、金を隠匿するしかないと」

数馬の目は、底知れぬ暗い炎を宿していた。

「お前のその『国家の論理』が、今、英国銀行と組んで旧幕府の金を私物化している。それがお前の言う、正しい帳簿か」


相良は鼻で笑い、椅子から立ち上がった。

「相変わらず、木っ端役人の視点しか持てない男だ。強大な西洋列強を前にして、この国を独立させるには莫大な資本が要る。死人に払う金などない。私はこの国という巨大な株式会社を存続させるため、当然の『減資』を行ったまでだ」


相良は数馬の横を通り過ぎる際、その耳元で冷たく囁いた。

「お前も、あの時それに加担したのだ。お前が帳簿を改竄したからこそ、前線の部隊は全滅した。己の罪から目を逸らすな、片桐」

数馬の顎の筋肉が、微かに硬直する。

相良はそれだけ言い残し、清右衛門を一瞥することもなく部屋を出て行った。


残されたのは、秒針の音と、這いつくばったまま動けない清右衛門だけだ。

「……終わった。私の生涯は、もはや無用の長物か……」

清右衛門が絞り出すように呟いた。


「いいや、違う」

数馬は、清右衛門の前に歩み寄り、冷徹な声で告げた。

「あの男の勘定は間違っている。名前を消して無理に合わせた帳簿は、いつか必ず破綻する。私は今日、七年前の『不渡り』を精算しに来たのだ」

清右衛門は、顔を上げた。数馬の纏う、異常なまでの静かな狂気に圧倒されていた。

「礼法師範。お前のその作法は、新政府には不要かもしれない。だが、私の企てにおいては、何にも代えがたい最高の資産だ」

「企て、だと……?」

「ああ。英国の傲慢な銀行支配人を騙し切り、絶対に破れない金庫を自ら開けさせるための企てだ」

数馬は、算盤を手に取り、パチリと珠を弾いた。


「素性の知れぬ三文役者を、大英帝国大蔵省の『特命監査官』に仕立て上げる。言葉は通詞が補うが、身に纏う威儀、歩き方、そして公的な文書に封蝋シーリングワックスを垂らす完璧な所作……。それらの『礼儀作法』に一点でも綻びがあれば、すべてが終わる」


数馬は、這いつくばる清右衛門に手を差し伸べた。

「あの男が『無価値』と切り捨てたお前の作法で、大英帝国の眼を欺いてみせろ。国家の帳簿から消された死者たちのために、私に投資しろ」

清右衛門の目に、かすかに光が戻った。

時代に不要とされた礼法が、最も強大な敵を穿つための「刃」になるというのだ。

彼は震える手で、数馬の手を強く握り返した。

「……承知した。この柴田清右衛門、残りの命を貴殿の帳簿に預けよう」

これで、盤面を覆すための役者は揃った。

偽りの権威を演じる役者、電信を操るからくり師、そして、威儀を仕込む礼法師範。


維新の敗者たちによる、前代未聞の偽装監査に向けた歯車が、今、静かに、そして確実に噛み合い始めた。


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