第四話:泥の中の銀貨と、三流の芝居
横浜の奥座敷、野毛山に立つ高級料亭『花月』。
最高級の伽羅の香りが漂うはずの座敷は、ひどく暴力的な匂いに汚染されていた。異人特有の強い葉巻の煙と、新政府の御用商人・白石屋から発せられる、脂ぎった金と欲望の匂いだ。
「――嘆かわしい。実に退屈な踊りだ」
上座で胡座をかく英国銀行支配人、アーサー・カニンガムが、大きな欠伸とともに葉巻の灰を畳に落とした。
部屋の中央では、一人の男が舞っていた。
かつて江戸の舞台で天才女形と謳われた元歌舞伎役者、菊次郎だ。
白塗りの端正な顔立ちに、流し目を送るその所作は、本来ならば千両の価値がある。だが、カニンガムの青い瞳には、それが人間以下の滑稽な動作にしか映っていなかった。
「白石屋。君たちはなぜ、顔を白く塗って無表情で動く? 感情というものが欠落しているのか。まるで、人間に成り損ねた猿だな」
「ハハハ! 支配人様のおっしゃる通りでございます! 所詮は時代遅れの河原乞食。大英帝国の洗練された芸術には到底及びませんな!」
白石屋は、膝を擦り合わせるようにしてカニンガムに同意した。
その傍らで、末席に控える一人の男が、冷徹な目でこの「取引」を観察していた。
生糸商の帳付け(経理担当)に変装して潜り込んでいた片桐数馬だ。彼の膝の上には、白石屋の分厚い取引帳簿が置かれている。
カニンガムは、退屈しのぎの玩具を見つけた子供のように目を細めた。
彼は懐から、銀色に輝く異国の銀貨を取り出すと、縁側の外――昨日からの雨でぬかるんだ、庭の泥の中へ無造作に放り投げた。
「猿なら、猿らしく振る舞え。その泥の中の銀貨を、手を使わずに口で拾ってみせろ。そうすれば、私の退屈も少しは紛れる」
カニンガムが母国語で命じ、通詞が冷笑とともにそれを訳す。
菊次郎の舞が、ピタリと止まった。
白く塗られた頬が微かに引き攣り、伏せられた長い睫毛の下で、かつての天才役者の矜持が音を立てて軋んだ。
「何をしている、菊次郎! 支配人様のご命令だぞ!」
白石屋が扇子で畳を叩き、怒鳴りつけた。
「お前がウチにいくら借金を作っていると思っている! その泥の銀貨を口で拾えば、利息分の五十円を帳簿から消してやる。やれ!」
菊次郎の肩が、微かに震えた。
役者としての看板。舞台に懸けた誇り。
だが、新時代に居場所を失い、白石屋の帳簿に「不良債権」として縛り付けられた彼には、拒否権という名の資産は一銭も残されていなかった。
菊次郎はゆっくりと膝を折り、雨上がりの縁側から、泥濘へと這いつくばった。
白塗りの顔が、泥に沈んだ銀貨へと近づいていく。
カニンガムが手を叩いて喜び、白石屋が下劣な笑い声を上げた。
――理不尽な帳簿が、人間の尊厳を殺す瞬間。
数馬の胸の奥で、七年間、血濡れたまま凍りついていた「受取覚書」が、静かに熱を帯びた。
国のためだと切り捨てられ、不渡りの手形を握りしめたまま泥の中で死んでいった同志たちの姿が、菊次郎の背中に重なる。
「……三流の芝居だな」
冷たく、しかし部屋の空気を一変させるほどの硬質な声が響いた。
次の瞬間。
泥に顔を近づけていた菊次郎の目の前に、何者かの足が踏み出され、泥の中の銀貨を無慈悲に踏み諂った。
「なっ……!?」
カニンガムと白石屋が同時に目を見開く。
数馬は、銀貨を踏みつけたまま、見下すような視線で菊次郎を見据えた。
「五十円の利息のために、泥を舐める猿を演じるか。投下した資本に全く見合っていない。お前の看板は、そんな安い勘定で売り渡していいものではないはずだ」
「き、貴様! うちの帳付けが何の真似だ!」
激昂して立ち上がった白石屋に対し、数馬は手にしていた分厚い帳簿を、ドサリと畳に放り投げた。
「白石屋。お前の帳簿は、この役者の芝居以上に三流だ」
数馬は、算盤の珠を弾くような冷徹な早口で告げた。
「生糸の輸出高、関税局への申告額とこの裏帳簿で、実に三万両の差額がある。二重帳簿……いや、脱税というより、もはや新政府への国家反逆罪だな」
白石屋の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「この役者の負債額、元金三百円と利息分。……私の『沈黙』という資産と、相殺させてもらう。この男の身柄は、私が買い取った」
「……馬鹿な! 貴様、何者だ!」
白石屋の悲鳴のような問いを無視し、数馬は呆然と這いつくばる菊次郎の胸ぐらを掴み、泥の中から強引に引きずり起こした。
上座では、カニンガムが不快感を露わにし、母国語でわめき散らしている。
「なんだこの男は! 私の余興を邪魔するな! 泥棒め!」
数馬は、初めてカニンガムを一瞥した。
その目は、相手を「人間」としてではなく、解体すべき「巨大な不良債権」として値踏みしていた。
「泥棒ではない」
数馬は通詞を通さず、カニンガムの目を見据え、流暢な異国の言葉で低く言い放った。
「私は、お前たちの腐った帳簿を糺す、監査役だ」
カニンガムが怪訝な顔をした隙に、数馬は菊次郎の腕を引き、料亭の廊下へと歩み出た。
冷たい夜風が、菊次郎の泥まみれの顔を打つ。
「……アンタ、正気か。白石屋を敵に回せば、横浜中の裏社会から追われるぞ」
菊次郎が震える声で言うと、数馬は足を止め、振り返った。
「すでに、大英帝国と新政府を敵に回す勘定になっている。誤差の範囲だ」
数馬は、泥に汚れた菊次郎の顔を、値踏みするように見つめた。
「猿の芝居は終わりにしろ、菊次郎。私がお前に、最高の絵図面を用意してやる」
「……絵図面、だと?」
「観客は、あの傲慢な英国銀行の支配人だ。演目は、大英帝国大蔵省の特命監査官」
数馬の言葉に、菊次郎は息を呑んだ。
「完璧な英国貴族の所作で、あの銀行の正面扉を叩き、あいつらの手で自ら金庫を開けさせる。……お前のその泥まみれの看板で、あの異人に這いつくばる猿の芝居を、演じきれるか」
数馬の目は、本気だった。
時代に殺されかけ、泥を舐めるしかなかった元天才役者の胸の奥で、鎮火していたはずの「見栄」が、業火となって燃え上がった。
「……ふっ、ははははッ!」
菊次郎は、泥だらけの顔を歪め、狂ったように笑い出した。
「面白え。不良債権だか何だか知らねえが、その大役、この菊次郎が千両の価値で演じ切ってやる。……ただし、木戸銭は高くつくぜ、旦那?」
「安心しろ。報酬は、奴らの絶対金庫の中から、全額引き当ててやる」
数馬の冷徹な帳簿に、二人目の手駒が計上された。
残るは、偽装監査を「完璧な本物」にするための、権威と礼法の奪取である。
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