第三話:不良債権とからくり師
レンガ造りの洋館から歩いてわずか十五分。
華やかな居留地を囲むように広がる「豚町」は、文明開化の光が届かない巨大な影だった。
ぬかるんだ泥道には、安酒と生活排水の饐えた匂いが立ち込めている。路地に行き倒れているのは、廃刀令で士分を失った元武士や、西洋の機械に仕事を奪われた職人たちだ。
彼らは皆、新時代という名の冷酷な帳簿から、不良債権として切り捨てられた者たちだった。
片桐数馬は、その泥道を正確な歩幅で進み、傾いた一軒の長屋の前で足を止めた。
看板はない。だが、戸の隙間からは、微かに油の匂いと、金属を削る鋭い音が漏れていた。
数馬が戸を開けると、薄暗い土間に、無数の歯車や銅線、そして西洋の懐中時計の残骸が散乱していた。
その中央で、ボサボサの髪をした小柄な男が、虫眼鏡を目に当てて真鍮の部品を削っている。元・幕府御用達の天才からくり師、茂兵衛だ。
数馬の気配に気づき、茂兵衛は気怠げに顔を上げた。
「……時計の修理なら他を当たんな。見ての通り、商売上がったりだ」
茂兵衛が顎でしゃくった先には、作業台に置かれた幾つもの精密な工具箱があった。そのすべてに、政商・白石屋の印が押された「抵当札」がべったりと貼られている。
「借金か」
数馬が短く問うと、茂兵衛は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「新政府の御用商人様・白石屋に、五百円ポッキリだ。俺の腕も、この工房も、全部あいつらの帳簿に縛られてる。利息だけで首が回らねえ。……で、アンタ、何の用だ。借金取りの犬には見えねえが」
数馬は答えず、土間の隅に無造作に置かれている奇妙な機械に歩み寄った。
木箱に、電磁石と銅線のコイル、そして真鍮のレバーが組み込まれている。それは明らかに、日本の伝統的なからくりではない。
「……モールス電信機。西洋の通信機を、自力で解体したのか」
数馬の言葉に、茂兵衛の目がわずかに光った。
「毛唐どもは、電気という見えねえ魔法を使ってる気になってやがるがな。俺に言わせりゃ、あれはただの『速い歯車』だ。電流の断ち繋ぎ。その二つの組み合わせで、遠く離れた場所に文字を送る。仕組みさえ分かりゃ、音の長さで偽の信号を割り込ませる仕掛けだって作れるさ」
「動作確認は?」
「とうの昔に終わってる」茂兵衛は吐き捨てるように言った。「だが、こんなもん作ったところで一文にもならねえ。俺の技術はもう、時代遅れのゴミなんだよ」
数馬は、腰の算盤を外し、手のひらで軽く弾いた。
パチリ、と硬質な音が土間に響く。
「白石屋の五百円の負債。……くだらんな」
茂兵衛が顔をしかめた。
「なんだと?」
「お前のその指と、電信を操る技術。私の帳簿におけるお前の資産価値は、そんなはした金では収まらないと言っているんだ」
数馬は、茂兵衛の目の前まで歩み寄り、冷徹な目で見下ろした。
「英国銀行横浜支店。あの絶対金庫を、内側から開けさせる」
茂兵衛は、数馬が正気を失ったかのように目を丸くした。
「……おいおい、冗談だろ? あそこは白石屋すら手が出せねえ、大英帝国の本丸だぞ。首が飛ぶだけじゃ済まねえ!」
「物理的な強奪はしない。奴らの定めた『手続き』と『通信』を手玉に取り、自ら金庫を開けるよう誘導する。そのためには、ロンドン本国から銀行へ送られる暗号電報の線を物理的に乗っ取り、私が描いた『偽の筋書き』を打ち込む必要がある」
数馬は、懐から「受取覚書」の写しを一枚取り出し、作業台の上に置いた。
それは、昨日銀行で切り捨てられた未亡人のものではない。
宛名には『からくり時計方・茂兵衛』と記されている。彼自身が、幕府から受け取るはずだった未払い給与の証書だ。
「……ッ!」茂兵衛が息を呑む。
「お前が白石屋に縛られているのは、この正当な給与が、新政府と銀行の密約によって『整理金』として凍結・横領されているからだ」
数馬の声は、どこまでも冷徹で、それゆえに圧倒的な説得力を持っていた。
「負債を真面目に返す必要はない。お前の首を絞めている『帳簿の前提』そのものを破壊する。国と銀行のからくりが腐っているのなら、からくりごと精算すればいい」
茂兵衛は、抵当札の貼られた自分の工具と、数馬の差し出した覚書を交互に見つめた。
歯車を愛し、新しい技術に焦がれながらも、理不尽な借金によってゴミのように扱われてきた日々。その絶望の底で、目の前の男だけが、自分の技術を「世界をひっくり返す価値がある」と断言している。
「……狂ってやがる」
茂兵衛の口元が、歪な弧を描いた。それは、何年かぶりに見せる職人としての笑みだった。
「海底ケーブルの陸揚げ局から、線を引っこ抜く。必要な機材の目星はついてる。だが、俺一人じゃ重くて運べねえし、警備の目もある」
数馬は、算盤を腰に戻した。
「荷の運搬と警備の排除は、すでに次の人員を計算に入れてある」
「……アンタ、名前は?」
「片桐数馬。徳川家勘定方だ」
「いいだろう、勘定方。俺の指と技術、アンタの帳簿に『投資』してやる。配当は高くつくぜ」
茂兵衛が、抵当札の貼られた工具箱の蓋を蹴り開けた。
時代遅れと嗤われた不良債権(からくり師)が、大英帝国の巨大な機構に牙を剥くための「最強の武器」へと変わった瞬間だった。
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