第二話:絶対金庫と不良債権
「――七年遅れの未払いを取り立てに来た」
片桐数馬の静かな宣言は、英国銀行横浜支店の高い天井に吸い込まれ、一瞬の真空を作り出した。
行員のペンが止まり、屈強な警備兵士たちが銃を握り直す。
しかし、次に空間を満たしたのは、暴力的なまでの嘲笑だった。
「Oh, a ghost from the Shogunate.(おお、幕府の亡霊か)」
カウンターの奥から歩み出てきた支配人、アーサー・カニンガムは、美しい金髪を揺らしながら肩をすくめた。その青い瞳には、路傍の石ころを見るような絶対的な優越感が宿っている。
傍らに立つ日本人通詞が、主人の冷笑をそのまま写し取ったような顔で翻訳する。
「カニンガム支配人はこう仰っている。滅んだ政府の幽霊が、存在しない給金の夢を見ているのか、と」
「夢ではない。帳簿上の事実だ」
数馬は微動だにせず、懐から一枚の書付を取り出した。
「慶応四年、徳川家から預けられた公金。そのうち、旗本・御家人への給与として引き当てられるべき三十万両。新政府への引き渡し期限は過ぎているが、まだ支払いは完了していないはずだ」
カニンガムは通詞から内容を聞き終わるや否や、芝居がかった手つきで額を押さえた。
「哀れなモンキーズだ。君たちは、近代国家の『契約』という概念すら理解していない。あの金はすでに『旧府整理預り金』として再分類され、我が大英帝国の厳正なる管理下にある」
カニンガムは、これ見よがしに背後の巨大な鉄扉を指差した。
鈍い黒光りを放つ、シェフィールド鋼の特注金庫。
「見ろ、あの重厚なる鋼を。本国の最新鋭技術の結晶、四重ダイヤル式ロックだ。鍵穴すら存在しない。未開の君たちには、一生かかってもあの扉を開けることはできない。それとも、その腰の木製の玩具(算盤)で、鋼鉄の扉を叩き割るつもりかね?」
行員たちの間に、再び下劣な笑い声が広がった。
数馬は何も言い返さず、ただ冷徹な目で金庫を見つめていた。
彼は怒っていなかった。
怒りは、勘定を狂わせる最大のノイズだ。
数馬の脳内では、すでに猛烈な速度で算盤が弾かれていた。
(扉の厚さ、推定八寸。蝶番の内蔵型。爆薬を使えば建物ごと吹き飛ぶ。ダイヤルの組み合わせは数万通り。物理的な破壊および解錠は――不可能)
さらに、数馬の視線は金庫の横にうず高く積まれた「書類箱」へと移動する。そこには、赤い封蝋がべったりと押されていた。
(ただ金塊を盗んでも意味はない。あの金が『誰に支払われるべきか』を記した秘帳と、それを隠蔽する密約の証拠『契約控』。あの紙の束こそが本命だ。だが、あれには英国の公的な封蝋が押されている。物理的に盗み出せば、即座に大英帝国への窃盗・内政干渉として新政府軍が動く)
つまり、この銀行は三層の壁に守られている。
第一の壁は、シェフィールド鋼の『物理』。
第二の壁は、外交特権と封蝋という『権威』。
第三の壁は、所有権を書き換えた帳簿という『論理』。
「……なるほど。確認は済んだ」
数馬は短く呟くと、書付を懐にしまい、踵を返した。
「逃げるのか、亡霊!」と通詞が背後から喚くが、数馬の足取りは正確なリズムを刻んだまま、一度も振り返ることなく銀行の重厚な扉を抜けた。
――彼が欲しかったのは、交渉の成功ではない。
「現在の盤面」を、この目で正確に監査することだ。
***
横浜の裏通り。表通りのガス灯の光は届かず、暗く湿った霧が立ち込めている。
数馬は立ち止まり、腰の算盤を手に取った。
パチリ、パチリと、暗闇の中で乾いた木音が響く。
現在の貸借対照表。
借方(手元にあるもの)は、己の頭脳と、勘定方としての執念のみ。
貸方(乗り越えるべき負債)は、大英帝国の銀行システムと、新政府の国家権力。
どう計算しても、完全に破綻している。一人では、絶対にこの勘定は合わない。
「剣で鋼は斬れない。ならば、ルールそのものをハックする」
暗闇の中で、数馬の目が鋭く光った。
物理で開かないなら、カニンガムの傲慢な手で、自らダイヤルを回させる。
封蝋が割れないなら、公的な手続きの場で、合法的に割らせる。
そのためには、この途方もない「偽装買収劇」を演じ切るための、手駒が必要だ。
だが、表の世界でまともな職に就いている者は使えない。新政府に少しでも未練のある者は、死のリスクに耐えられないからだ。
数馬が必要としているのは、時代から見捨てられ、社会の帳簿から「不良債権」として切り捨てられた者たち。
彼らの怒りと、狂気じみた専門技術だけが、あの冷徹なシステムを食い破る刃になる。
数馬は算盤を腰に戻すと、霧の奥――横浜の最下層、かつて幕府の隠密や裏社会の住人たちが吹き溜まる「豚町」へと歩を進めた。
まずは、あの銀行の電信網を狂わせるための「機巧」を買い叩きに行く。
維新の敗者たちによる、前代未聞の事業が、今、静かに動き出そうとしていた。
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