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幕末の生き残り、英国銀行を盗る  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十話:前夜の舞台

居留地の夜は、昼より明るい。


ガス灯が石畳を照らし、馬車の音と異国の笑い声が絶えない。本町通りに面した英国商人クラブの二階から、弦楽の音が漏れている。月に一度、居留地の有力者が集まる親睦の宴だ。


菊次郎は、その建物の前に立っていた。


紺の背広。白シャツ。仙蔵が調達した、新政府高官が好んで纏う洋装だ。右手の指先が、わずかに動いている。


隣に竹がいる。同じく洋装に着替え、懐に名刺の束を入れている。


「……緊張してるか」竹が小声で言った。


「役者に、緊張などというものはない」


「じゃあ、行けるか」


「とっくに、なっている」


菊次郎の声は、昨日まで聞いてきた声と、微妙に違った。低く、静かで、どこか乾いている。大蔵省の特命検査官、山城主水。数馬が作り上げた、存在しない人物だ。


竹は菊次郎の横顔を一瞬だけ見た。


泥の中に這いつくばっていた、あの夜の顔がない。今そこにいるのは、七年間、新政府の帳簿を握ってきた男だ。


「行こう」


二人は建物の中へ入った。


宴の会場は、洋燭の明かりに満ちていた。


英国商人、フランス領事館の官僚、オランダの貿易商。それに混じって、新政府の官僚や横浜の有力商人が、ぎこちない洋装で笑顔を作っている。


竹は入口で名刺を差し出した。従者が恭しく受け取り、二人を案内した。


菊次郎は会場を一度だけ見渡した。


値踏みでも、感嘆でもない。戦場の地形を確認する目だ。


清右衛門から仕込まれた通りだ。入って右手に主催者。左手の窓際に居留地の有力者が集まる。中央のテーブルには料理。奥の暖炉の前が、最も格の高い者が集まる場所。


菊次郎は、暖炉の前へ向かった。


当然のように歩く。立ち止まらない。左右に会釈しながら、しかし誰にも捕まらない。清右衛門が言っていた。「格の高い者は、自分から人を求めない。人が集まるのを待つ」


暖炉の前に立ち、葡萄酒のグラスを受け取った。


親指と中指でステムを持つ。人差し指は添えない。清右衛門に三十回繰り返させられた所作だ。


「山城検査官」


竹が低く言った。視線で示した先に、大柄な金髪の男がいた。


アーサー・カニンガムだ。


居留地の宴では、カニンガムは別の顔をしていた。銀行での傲慢さを薄く覆い、社交の仮面を被っている。しかしその目の奥には、変わらない優越感が宿っていた。この場の誰よりも自分が上だという、骨の髄まで染み込んだ確信だ。


カニンガムがこちらに気づいた。


新しい顔だ、という目をした。そして菊次郎の立ち位置と所作を一瞬で読んだ。暖炉の前。葡萄酒の持ち方。それなりの格の男だという判断をした。


カニンガムが歩み寄ってきた。


「初めてお目にかかる。カニンガムだ。英国銀行横浜支店の支配人を務めている」


竹が素早く訳した。


菊次郎は、グラスを持ったまま、ゆっくりとカニンガムに顔を向けた。


急がない。待たせる。それが格の高い者の所作だと、清右衛門は言っていた。


「山城主水だ。大蔵省から参った」


竹が英語に変えた。


カニンガムの目が、わずかに細くなった。大蔵省。検査の件は、居留地でも噂になっている。


「ほう。大蔵省の方が、このような宴に」カニンガムは探るような目で言った。「横浜はいつごろからで」


「昨日着いた。明日、いくつか確認の仕事がある」


「確認、とは」


菊次郎はグラスを一口だけ傾けた。それだけで答えを代えた。


清右衛門の言葉が耳の奥に蘇った。「格の高い者は、全てを話さない。話さないことで、相手に想像させる」


カニンガムは一瞬だけ間を置き、それから微笑んだ。「なるほど。お仕事の話は、宴の席では野暮というものですな」


「そういうことだ」


カニンガムが手を差し伸べた。握手だ。


菊次郎は右手を差し出した。


その瞬間、右手の指先が、ほんのわずかに歌舞伎の見得の形に揃った。役者として染み付いた、消えない癖だ。


カニンガムの目が、一瞬その指先に止まった。


何かを感じたのかもしれない。あるいは、気のせいだったのかもしれない。


カニンガムは握手をして、手を離した。「明日のご予定が終われば、ぜひまたゆっくりお話しを」


「機会があれば」


カニンガムは会釈をして、踵を返しかけた。


その時だった。


「ああ、そうだ」カニンガムが振り返った。「山城検査官、せっかくですから、一人ご紹介しましょう。最近この管轄に赴任されてきたそうだが、居留地のことなら何でもご存知だ」


竹の体が、一瞬だけ固まった。


菊次郎は表情を変えなかった。


カニンガムが手を上げると、部屋の入口近くから一人の男が歩いてきた。


四十がらみ。がっしりした体格に、紺の制服。横浜特別警察本部の幹部だ。


「磯貝警部だ。ご紹介しよう、大蔵省の山城検査官だ」


磯貝は、菊次郎に目を向けた。


帽子のつばが深く、顔の半分が陰になっている。しかしその目は、場慣れした鋭さを持っていた。人を見る目だ。表と裏を同時に見る、職業的な目だ。


竹は菊次郎の隣で、息が止まりそうになっていた。


警察だ。本物の警察を名乗る人間が、目の前に立っている。磯貝が少しでも怪しめば、全てが終わる。明日の計画も、七年間の不渡りも、全部ここで終わる。


竹は菊次郎を横目で見た。


菊次郎は、微動だにしていなかった。


「磯貝警部」菊次郎は静かに言った。「山城主水だ。大蔵省から参った」


竹が訳した。声が震えないように、歯を噛んだ。


磯貝は菊次郎の顔を、じっと見た。


一秒。


二秒。


三秒。


竹の耳に、自分の心臓の音が聞こえた。


磯貝がゆっくりと口を開いた。「大蔵省の方が横浜に来られることは少ない。明日のご用向きは」


菊次郎は磯貝を見たまま、グラスを一口だけ傾けた。


「確認仕事だ。詳しくは言えない」


磯貝の目が、わずかに動いた。何かを測っている目だ。


「……なるほど」磯貝は小さく頷いた。「何かあれば、警察はいつでも動きます」


「頼もしい」


それだけだった。


カニンガムが二人の間に割って入り、別の話題に移した。磯貝は会釈をして、別の方向へ歩いていった。


竹は、密かに息を吐いた。


膝が、わずかに震えていた。


宴が終わり、二人は建物を出た。


夜風が、石畳を吹き抜けていく。


しばらく、二人は黙って歩いた。


竹が、ようやく口を開いた。


「……あの三秒、どうやって耐えたんですか」


「何の話だ」


「磯貝警部に見られた時です。あの目、本物ですよ。人を見慣れた目だ。俺は膝が震えました」


菊次郎は前を向いたまま言った。「気づいていた」


「え」


「膝が震えていたのは分かっていた。だから余計に動けなかった」


竹は菊次郎を見た。「……菊次郎さんも怖かったんですか」


「怖くない役者など、死んでいるも同然だ」


菊次郎は右手を見た。指先が、夜風の中で静かに揃っていた。


「舞台の上で恐怖を感じた時、どうすると思う」


竹は首を振った。


「恐怖を感じている自分ごと、役になる」菊次郎は言った。「山城主水という男は、あの場で何を考えているか。磯貝警部に見られて、何を思うか。私は山城主水として、その目を正面から受けた。怖いのは俺じゃない。山城主水が、警察の目に慣れていないだけだ」


竹は黙って聞いていた。


「……だから表情が変わらなかったんですか」


「変わらなかったのではない」菊次郎は言った。「山城主水として、あの場にいた」


竹は石畳を見た。


居留地のガス灯が、遠く、水面に滲んで光っている。


「俺、今日初めて分かりました」竹は言った。「菊次郎さんは本当に、別の人間になれる」


菊次郎は答えなかった。


「俺の英語は、居留地で盗んだものです。でも菊次郎さんのは、そういうことじゃない。もっと根っこのところが違う」


菊次郎は、しばらく黙って歩いた。


それから、ぽつりと言った。「お前の英語も、根っこのところにあるものだ。盗んだのではない。お前がそこで生きてきた証だ」


竹は顔を上げた。


菊次郎はすでに前を向いていた。


廻船問屋への道を、二人は並んで歩いた。石畳の上を、洋装の二人が、当たり前のように歩いていく。


翌日の舞台まで、あと一夜。


***


その夜遅く、廻船問屋の跡地。


数馬は一人、机に向かっていた。


弥助の報告書と、銀行の略図が広げてある。


算盤を静かに弾く。パチリ、パチリ。


奥から、清右衛門の声がした。「どうだった」


菊次郎の声が返る。「問題ない」


「磯貝警部と会ったか」


一瞬の間があった。


「……会った」


「どんな目だった」


「職業的な目だ。人を見慣れている」


清右衛門が、短い息をついた。「どうした」


「山城主水として、受けた」


また沈黙が落ちた。


清右衛門の声は、それ以上聞こえなかった。


数馬は算盤を置き、略図の一点を指先で押さえた。


執務室の個人金庫の位置。そして地下室への経路。


パチリ、と算盤が最後に一度鳴った。


全ての歯車が、明日へ向けて、静かに動き出していた。

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