第十一話:偽装入城
午後の居留地は、一日で最も騒がしい刻限を迎えていた。
馬車と人力車が入り交じり、波止場からの荷車が石畳を軋ませる。英国銀行横浜支店の前には、普段より多くの行員が立っていた。制服を正し、入口の石段を磨き、VIPの到着に備えて落ち着きなく視線を行き交わせている。カニンガムが朝から血相を変えて怒鳴り続けた結果だ。
銀行の向かい、茶屋の二階。
数馬は窓際に座り、湯飲みを手にしたまま、銀行の正面を見ていた。
隣に弥助がいる。
「白石屋の馬車が、三十分前に裏口から入った」弥助は低く言った。「今頃、カニンガムの執務室にいる」
数馬は頷かなかった。湯飲みを置き、腰の算盤に指先を触れた。
パチリ、と小さく鳴った。
「茂兵衛は」
「昨夜から姿を消している。今頃、居留地の外だ」
数馬は再び銀行の正面を見た。石造りの重厚な扉。その前に整列した行員たち。
算盤が、もう一度鳴った。
菊次郎は、路地の陰で目を閉じていた。
紺の背広。白シャツ。右手の指先だけが、わずかに動いている。
竹は何も言わなかった。
昨夜の帰り道、菊次郎は言っていた。「恐怖を感じている自分ごと、役になる」
その言葉を思い出しながら、竹は銀行の石段を見た。整列した行員たち。重厚な石造りの扉。カニンガムがこの中にいる。
菊次郎が目を開けた。
「行くぞ」
それだけだった。
二人は路地を出た。
***
英国銀行の石段を、二人が上った。
菊次郎が先を歩く。竹がその半歩後ろに続く。
行員の一人が気づき、慌てて内部に声をかけた。
重厚な扉が、内側から開いた。
アーサー・カニンガムが、自ら出迎えた。
昨夜の宴での社交的な顔ではない。今日のカニンガムは、条約上の義務と保身の計算が、精一杯の愛想笑いの形に化けた顔をしていた。その笑顔の裏に、屈辱と焦りが透けて見えた。
しかし昨夜、この男と握手をした。それだけで十分だった。
「山城検査官、ようこそおいでくださいました」カニンガムは深く頭を下げた。「準備は整っております。どうぞこちらへ」
竹が訳す前に、菊次郎はすでに扉をくぐっていた。
立ち止まらない。笑わない。頷きもしない。
ただ、当たり前のように銀行の中へ入った。
カニンガムが慌てて後に続く。
菊次郎の背中を追うカニンガムの青い目に、一瞬だけ不快感が滲んだ。日本人だ。しかし条約の条文が脳裏を走り、それを押し込めた。その葛藤が、眉の端に残った。
菊次郎は、その葛藤を背中で感じながら、振り返らなかった。
VIPルームへの廊下を歩く途中、白石屋が現れた。
廊下の端に立ち、カニンガムの傍らで愛想笑いを作っている。新政府の高官が来るとなれば、この男が黙って引っ込んでいられるはずがない。
「大蔵省の御検査官様、白石屋でございます。日頃より新政府のお役に——」
白石屋が一歩前に出た。
菊次郎の顔が、正面から見える距離になった。
白石屋の目が、止まった。
何かを探っている目だ。記憶の引き出しを、片端から開けているような目だ。どこかで見た顔だという感覚が、白石屋の顔に滲み始めた。
竹が動いた。
懐から書類の束を取り出し、わざと取り落とした。
紙が、廊下に散らばった。
「申し訳ございません」竹が素早くしゃがみ、書類を拾い始める。白石屋の視線が、床に散らばった紙に引き寄せられた。
その一瞬。
菊次郎は目線だけを動かし、白石屋を見た。
それから、視線を前に戻した。
表情は、変わっていない。最初から、ずっと変わっていない。
白石屋が顔を上げた時、菊次郎はすでに廊下の先を歩いていた。
白石屋は口を開きかけ、閉じた。
確信が、持てなかった。あの泥まみれの役者と、目の前を歩くこの高官が、同じ人間だという確信が。
竹が書類を揃えて立ち上がり、白石屋に深く頭を下げた。『大変失礼いたしました』
白石屋は、廊下の先を歩く菊次郎の背中を、もう一度だけ見た。
それから、愛想笑いを貼り直した。
VIPルームは、銀行の奥まった一室だった。
重厚な机と椅子。壁際に積まれた書類箱。そして、その奥に続く金庫室への扉。
菊次郎は部屋の中央に立ち、ゆっくりと室内を見渡した。
値踏みでも、感嘆でもない。当然のものを確認する目だ。
カニンガムが、机の前に立った。竹を通じて言う。「検査の手順について、ご説明申し上げたいのですが」
菊次郎は、懐から書類を一枚取り出した。
無言で、机の上に置いた。
カニンガムが書類を手に取った。日本政府大蔵省の公印が押された、正式な検査命令書だ。清右衛門が三日かけて仕上げた、本物より本物の書類だ。
カニンガムの顔が、わずかに強ばった。
竹が静かに言った。『検査の手順は、こちらで定めております。まず、金庫内の現物と帳簿の照合から始めていただきます』
カニンガムの通詞が訳す。カニンガムは書類から顔を上げ、菊次郎を見た。
菊次郎は、カニンガムを見ていなかった。
金庫室への扉を、見ていた。
その視線の重さに、カニンガムが気圧された。言葉が出ない。大英帝国の銀行支配人が、返す言葉を失っている。
竹が続けた。『公使館からの通達にもございます通り、条約上の義務に基づくご協力をお願いいたします。記録はすべて残させていただきます』
カニンガムの喉が、動いた。
「……わかった」
低く、絞り出すように言った。
「金庫を開ける」
金庫室は、VIPルームの奥にあった。
重厚な鉄扉に、四つのダイヤル。シェフィールド鋼の特注品。鍵穴がない。数字の組み合わせだけが、この扉を動かす唯一の手段だ。
菊次郎は金庫室の入口に立ち、腕を組んで待っていた。
竹がその斜め後ろに控えている。
カニンガムは、金庫の前に立った。
背中が、こわばっている。燕尾服の肩が、微かに上下している。この男が、自らの手でこの金庫を開けるのは、あの帳簿を封印した日以来だ。
カニンガムは、振り返った。
菊次郎を見た。
菊次郎は、カニンガムを見ていなかった。金庫のダイヤルを見ていた。
カニンガムは、前を向いた。
右手が、第一のダイヤルに触れた。
回す。
硬質な金属音が、静かな部屋に響いた。
一つ目が合う。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
最後のダイヤルが定位置に収まった瞬間、重い機械音が、扉の内側で動いた。
カニンガムが、両手で扉の取っ手を引いた。
シェフィールド鋼の扉が、音もなく、開いた。
金庫の内部は、薄暗かった。
カニンガムがランタンを掲げる。
黄金色の光が、金庫の奥を照らした。
積み上げられた銀塊が、鈍く光った。その隣に、公債証書の束が並んでいる。
金塊ではない。
竹の喉が、わずかに動いた。
菊次郎は、動かなかった。
表情も、視線も、呼吸すら変わらない。ただ、右手の指先だけが、一度だけ静かに揃った。
カニンガムが、銀塊と公債証書をVIPルームのテーブルへ運ぶよう行員に命じた。
行員たちが動き始めた。
テーブルの上に、銀塊が並んだ。公債証書の束が置かれた。
菊次郎は、テーブルに歩み寄った。
公債証書を一枚、手に取った。
しばらく、見た。
カニンガムの額に、汗が浮いた。どこまで分かるか。どこまで見抜くか。日本人の猿どもに、銀と金の違いが分かるのか。
菊次郎は、証書を元に戻した。
竹に向かって、静かに頷いた。
『照合を続けます』
カニンガムは、息を整えた。
分からなかった。やはり猿どもには、分からなかった。
その安堵が、カニンガムの顔に微かに滲んだ。菊次郎はそれを、視界の端で静かに捉えていた。
照合が続く中、白石屋がカニンガムの耳元に口を寄せた。
「……念のため、大蔵省に確認を取っておきます」
カニンガムが微かに頷く。
白石屋が部屋を出た。
竹の目が、その背中を追った。菊次郎は書類を手にしたまま、表情を変えなかった。
***
茶屋の二階。
弥助が戻ってきた。「白石屋が動いた。銀行の裏口から馬車で出た。大蔵省の方向だ」
数馬は窓の外を見たまま、頷いた。
「茂兵衛は」
「まだ動いていない」
「仙蔵は」
「銀行裏手の路地に入った。荷役衆も揃っている」
数馬は立ち上がった。外套を手に取り、算盤を腰に差した。
窓の外、本町通りの端。
荷役人に紛れて、一人の女が立っていた。
三十前後。やつれた顔に、幼い子供を背負っている。
あの日、窓口に並んでいた女だ。
彼女は、銀行の正面扉を見ていた。
今日ここへ来たのは、また窓口に並ぶためではない。ただ、来てしまった。七年間、この扉の前に何度立っただろう。そのたびに、同じ言葉が返ってきた。在所不明。繰入済。対応不可。
夫が最期まで握りしめていた覚書は、今日も懐にある。
子供が、背中で身じろぎした。
女は視線を下げ、子供の頭に手を触れた。
銀行の中で、何が起きているか、知らない。
ただ、この扉の前に立つと、夫のことを思う。
数馬はその背中を、一秒だけ見た。
それから、茶屋の階段を下りた。
算盤が、腰で静かに揺れている。
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