第十二話:コレラの発作
照合は、一刻を過ぎても続いていた。
菊次郎は公債証書の束を一枚ずつ確認し、竹が帳簿と照らし合わせる。カニンガムは部屋の端に立ち、腕を組んだまま、その様子を見ていた。
退屈そうな顔を作っている。しかしその目は、菊次郎の手元から離れない。
白石屋はまだ戻っていない。
竹は帳簿に目を落としながら、耳だけを周囲に向けていた。廊下の気配。行員の動き。カニンガムの呼吸。
全てが、薄い膜一枚の上に乗っているような時間だった。
「少し休憩をいただけますか」
竹が静かに言った。菊次郎が顔を上げ、カニンガムを見た。
カニンガムの通詞が訳す。カニンガムは肩をすくめた。「どうぞ」
菊次郎は椅子に座り、葡萄酒のグラスを受け取った。
竹は帳簿を閉じ、部屋の隅に立った。
何気なく窓の外を見る。銀行の表。荷役人に紛れた人影。仙蔵の荷役衆が、裏手の路地に揃っている。
まだ動いていない。
竹は視線を戻した。
コレラ騒ぎが始まれば、弥助が裏口から動く。複製鍵は弥助がすでに持っている。自分がやることは一つだ。全員が外に出た後、カニンガムたちの注意を引きつけておく。それだけだ。
竹は算盤を弾くように、頭の中で手順を確認した。
***
その時、扉が開いた。
宗伯が入ってきた。
初老の医者だ。検査の随行員として、VIPルームの隅に控えていた存在だ。カニンガムは彼をほとんど気にしていなかった。
宗伯は菊次郎に歩み寄り、額に手を当てた。
「……熱がある」
竹が訳した。『検査官の具合が悪いようです』
カニンガムが眉をひそめた。
宗伯は菊次郎の手首を取り、脈を測る振りをした。そして、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、カニンガムを見た。
「コレラの、症状です」
竹が英語に変えた瞬間、カニンガムの顔から血の気が引いた。
「な——」
「腹部の痛み、発熱、そして」宗伯は静かに続けた。「昨日から、波止場で患者が出ています。今年の夏は早い」
カニンガムの通詞が訳し終わる前に、カニンガムはすでに後退していた。
「全員、外へ」
カニンガムの声が、廊下に響いた。「今すぐだ。外へ出ろ。誰も近づくな」
行員たちが、廊下を走る音がした。
宗伯が菊次郎の腕を取り、立ち上がらせた。菊次郎は苦しそうな顔を作り、宗伯に支えられながら歩いた。
竹は帳簿を抱え、二人の後に続いた。
カニンガムは、菊次郎から最大限の距離を保ちながら、廊下へ出た。白石屋が戻ってきたのは、その瞬間だった。
「どうしました」
「コレラだ」カニンガムが吐き捨てた。「検査官が発症した。外へ出ろ」
白石屋の顔が、カニンガムと同じ色に変わった。
銀行の表、石畳の庭。
カニンガム、白石屋、通詞、行員たち。全員が、銀行の外に出ていた。
菊次郎が石段の端に腰を下ろし、宗伯が付き添っている。
竹はその傍らに立ち、周囲を見渡した。
カニンガムは菊次郎から十分な距離を取り、ハンカチで口元を押さえている。白石屋はその更に後ろで、建物の壁に背を預けていた。
誰も、竹の動きを見ていない。
全員の目が、菊次郎に向いている。
竹はカニンガムに近づいた。
「通詞の方」カニンガムが竹に向かって言った。「検査官は本当にコレラか。医者は確かなのか」
『症状が出ております。ただ、確定には時間が必要だと申しております』
カニンガムが舌打ちをした。
竹は頷きながら、カニンガムの傍らに立ち続けた。
コレラへの恐怖で思考が止まっているカニンガムに、今は誰も近づきたくない。それが竹の役割だった。唯一、この男の傍らで言葉を交わし、外の世界との接点を保ちながら、弥助が動く時間を稼ぐ。
「他に症状は出ていないか。行員たちは大丈夫か」カニンガムが矢継ぎ早に聞いた。
『確認いたします』竹は宗伯に向かい、いくつかの質問をする振りをした。宗伯が答える振りをする。
その間、裏手の路地では、弥助が動いていた。
銀行の裏口。
弥助は音もなく、中に滑り込んだ。
廊下は無人だった。
足音を消して進む。右に曲がり、階段を下りる。地下室への扉が見えた。
懐から複製鍵を取り出した。
半次が作った、地下室専用の複製だ。本物と寸分違わない。
錠前に差し込む。回す。
扉が、開いた。
暗い。
弥助はランタンを掲げた。
地下室の奥に、積み上げられた箱がある。
一つ開けた。
金塊だ。本物の、重い輝きがある。
弥助は仙蔵に合図を送るために、来た道を戻りかけた。
その時。
銀行の表から、声が聞こえた。
怒鳴り声だ。日本語だ。
弥助の足が、止まった。
***
「この電報は偽造だ」
庭に、鋭い声が響いた。
全員が振り返った。
居留地の入口から、馬車が止まり、一人の男が降りてきた。
新政府の大蔵省の紋が入った、正式な燕尾服。冷徹な目。
相良主税だった。
「大蔵省にそのような検査官はいない」相良は歩みを止めず、庭の中央に立った。「この男たちは詐欺師だ」
カニンガムの目が、菊次郎に向いた。
白石屋の顔が、青から赤に変わった。
菊次郎は石段の端に座ったまま、動かなかった。
竹の膝が、わずかに震えた。
地下室の中で、弥助は動けなかった。
仙蔵は路地の奥で、荷車を止めていた。
全員が、固まった。
相良の声が、続いた。「カニンガム支配人。この者たちを今すぐ取り押さえなさい。大英帝国の施設を騙した詐欺師として、然るべき処置を」
カニンガムの目が、鋭くなった。
昨日の宴での「大蔵省の検査官」が、偽物だったのか。ならば、なぜ公使館からの電報が届いた。なぜ検査命令書に公印があった。
カニンガムの頭の中で、七年間守り続けた秘密が、ガラスのように軋んだ。
「……警備を呼べ」
カニンガムが、低く言った。
行員が走り出した。
菊次郎は立ち上がった。
宗伯が、静かに下がった。
竹は菊次郎の隣に並んだ。二人は相良を見た。相良は二人を見た。
その瞬間、竹は確信した。
これで終わりだ。
地下室では、弥助が扉を静かに閉めていた。
金塊は、動かせない。
仙蔵は路地の奥で、荷役衆に目で合図を送った。
撤退だ。
荷車が、静かに路地を離れた。
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