第十三話:完全包囲
「この電報は偽造だ」
庭に、鋭い声が響いた。
竹は振り返った。
居留地の入口から、馬車が止まり、一人の男が降りてきた。
新政府の大蔵省の紋が入った、正式な燕尾服。冷徹な目。
竹には、その男が誰か分からなかった。
しかしカニンガムの通詞の顔が、一瞬で変わった。白石屋の顔が、青から赤に変わった。
それだけで十分だった。
「大蔵省にそのような検査官はいない」男は歩みを止めず、庭の中央に立った。「この男たちは詐欺師だ」
竹の膝が、震えた。
大蔵省だ。本物の大蔵省の人間が、来た。
「……相良様」白石屋が低く呼んだ。
相良主税。
その名前が、竹の頭の中で転がった。数馬が五話で対峙していた男だ。新政府の大蔵省高官。この密約の当事者だ。
なぜここに。
竹は菊次郎を見た。
菊次郎は石段の端に座ったまま、動かなかった。コレラの演技をしている。しかしその目が、相良を見ていた。
「カニンガム支配人」相良は通詞を通して言った。「この者たちを取り押さえなさい。偽の検査官として、然るべき処置を」
カニンガムが、警備に目配せした。
行員が走り出した。
菊次郎が立ち上がった。
宗伯が静かに下がった。
竹は菊次郎の隣に並んだ。
「言いがかりだ」菊次郎が言った。竹が英語に変えた。声が震えないように、歯を食いしばった。「大蔵省の山城主水だ。その方が何者か知らないが」
「山城主水という人物は存在しない」相良は遮った。「大蔵省に照会した。記録にない」
「照会の手続きに時間がかかっただけだ。大蔵省の内部事情は——」
「電報も偽造だ」相良は続けた。「英国公使館に確認した。そのような電報は発信していない」
竹は頭の中で言葉を探した。言い返せる言葉を。しかし出てこなかった。
公使館に確認した。電報が偽造だと確認した。
茂兵衛が作った仕掛けが、ばれた。
「検査命令書の公印も、偽造だ」相良は言い切った。「全て確認済みだ」
竹は、その言葉を訳しながら、自分の声が遠くなっていくのを感じた。
全部、分かっている。この男は全部知っている。
菊次郎が何か言おうとした。
しかし相良は聞かなかった。カニンガムに向き直り、通詞を通して言った。「警備を呼びなさい。今すぐだ」
警備の男たちが、庭に出てきた。
二人が、三人が、菊次郎と竹を囲み始めた。
竹は菊次郎の袖を引いた。
菊次郎は動かなかった。
囲まれていく。逃げ場が、じわじわと消えていく。
宗伯は建物の陰に下がっていた。弥助はまだ地下室にいるはずだ。仙蔵の荷役衆は路地にいる。
しかし誰も来ない。来られない。
これで終わりだ、と竹は思った。
七話の夜、全員が覚書を台の上に重ねた場面が頭に浮かんだ。血で染まった紙。雨で滲んだ紙。竹の父の名前が書かれた紙。
全部、ここで終わる。
その時。
相良が、菊次郎の前に歩み出た。
二人の距離が、一歩になった。
相良は菊次郎の顔を、じっと見た。
何者だ、という目だ。この男は何者なのか、という目だ。偽の検査官にしては、何かが違う。その所作、その目の据え方、その静けさ。どこかで見たのか。いや、見たはずがない。しかし、この男は只者ではない。
相良の目が、菊次郎の右手の指先に止まった。
ほんのわずかに、揃っている。歌舞伎の見得の形に。
相良の眉が、微かに動いた。
竹は息を止めた。
気づいた。気づいたかもしれない。あの指先の意味を。役者だと。
しかし菊次郎は、相良の目を正面から受けていた。
一切、崩れなかった。
山城主水として、その目を受けていた。
相良はしばらく菊次郎を見た。それから、目を逸らした。
確信が、持てなかったのだ。
あるいは、確信を持ちたくなかったのかもしれない。
「……早くしなさい」相良はカニンガムに言った。「警備に引き渡せ」
竹は、密かに息を吐いた。
しかし膝は、まだ震えていた。
「……すまない」
菊次郎が小声で言った。
竹は俯いた。
責める気にはなれなかった。菊次郎は最後まで山城主水だった。相良に顔を覗き込まれても、一度も崩れなかった。
その時。
居留地の入口から、馬車の音が聞こえた。
一台ではない。複数だ。
紺の制服を着た男たちが、銀行の前に降り立った。
横浜特別警察本部の制服だ。
竹は、その制服を見た瞬間、頭が真っ白になった。
警察だ。
警察まで来た。
これで、完全に終わった。
先頭に立つ男が、帽子のつばを深く被っていた。
「通報を受けた」
しゃがれた声だった。
「詐欺の疑いがあるとのことだが」
男は庭を見渡した。相良、カニンガム、白石屋、菊次郎と竹。一人ずつ、確認するように見た。
「磯貝警部だ」
カニンガムの顔に、安堵が滲んだ。警察が来た。この状況を動かせる。
竹には、その安堵が遠い世界のことのように見えた。
警察が来た。詐欺師として逮捕される。七年分の覚書は、誰の手にも届かない。
菊次郎は、磯貝の帽子のつばを一秒だけ見た。それから、前を向いた。
表情は、変わらなかった。最後まで、山城主水のままだった。
「磯貝警部」カニンガムが通詞を通して言った。「よく来てくれた。この者たちは偽の検査官だ。今すぐ——」
「順番に聞きます」磯貝は遮った。「まず状況を確認させてください」
磯貝はゆっくりと庭を歩き、全員の顔を順番に見た。
相良を見た。白石屋を見た。菊次郎と竹を見た。
そして、カニンガムを見た。
「気になる場所はありますか」
カニンガムは一瞬迷った。
地下室だ。しかし地下室に金塊を移したことを、どう説明するのか。
「……地下室の私物が心配です」
「では確認しましょう」磯貝は言った。「全員、ご同行ください」
***
地下室への階段を、全員が下りた。
カニンガムが先頭に立ち、磯貝が続く。相良、白石屋、菊次郎と竹が続いた。
竹は菊次郎の隣を歩きながら、耳元で囁いた。「弥助さんは」
「もう出ていると思う」菊次郎は前を向いたまま言った。「だが金塊は——」
竹は頷いた。分かっていた。弥助は相良が来た瞬間に動けなくなったはずだ。
地下室の扉の前に、全員が集まった。
カニンガムが鍵を取り出した。差し込む。回す。
扉が開いた。
カニンガムがランタンを掲げた。
光が、地下室の奥を照らした。
積み上げられた箱が、そこにあった。
カニンガムが駆け寄り、一つ開けた。
金塊が、ランタンの光を照り返した。
カニンガムの肩から、力が抜けた。あった。本物の金塊が、ここにある。取られていない。
菊次郎は、その金塊を見た。
何も言わなかった。
竹は、金塊の重い輝きを見つめた。
あそこにある。あの金塊の中に、遺族への未払い給与がある。竹の父の分も、仙蔵の兄の分も、血染めの覚書に書かれた全員の分も。
あそこにある。しかし取れなかった。
竹は唇を噛んだ。
「問題ないようですね」磯貝が言った。それから、カニンガムを見た。「他に気になる場所はありますか」
カニンガムは一瞬迷った。
金庫だ。しかし金庫を開ければ、銀塊と公債証書が出てくる。本来あるべき金塊がないことが、また別の問題になる。
しかし黙っていれば、後で言い訳が立たなくなる。
「……金庫も、確認していただければ」
カニンガムは絞り出すように言った。
磯貝は頷いた。「では参りましょう」
* * *
VIPルームに戻り、金庫が開けられた。
銀塊と公債証書が、テーブルに並んだ。
磯貝は銀塊を手に取り、重さを確かめた。それから公債証書を一枚手に取り、目を通した。
「念のため」磯貝は言った。「金塊と銀塊は、捜査のために一時保管します。明後日、この証明書を持って取りに来てください」
カニンガムが口を開いた。「それは困る。この銀塊は他の銀行から——」
「カニンガム支配人」
相良が、低く言った。
カニンガムは口を閉じた。
部屋が静まった。
相良の目が磯貝に向いた。何かを計算している目だ。
警察が金塊と銀塊を押収する。それは困る。しかしカニンガムが騒げば、密約の全てが公になる。秘帳と契約控が金庫にないことも、金塊が地下室に隠されていたことも、全てが出てくる。
黙るしかない。
白石屋も同じだった。口を開けば終わる。
三者が、互いを見た。
誰も、何も言えなかった。
カニンガムが黙った。
相良が目を逸らした。
白石屋が俯いた。
磯貝は証明書をカニンガムに渡した。
それから、菊次郎と竹に向いた。
「検査官と通詞の方も、念のため事情聴取が必要です。身柄をお預かりします」
菊次郎は立ち上がった。
竹も立ち上がった。
逃げる気力もなかった。
二人は磯貝の部下に連れられ、VIPルームを出た。
廊下を歩きながら、竹は振り返った。
カニンガムが、相良が、白石屋が、それぞれ別の方向を向いていた。
誰も追ってこない。
誰も声を上げない。
三者全員が、同じ理由で、黙っている。
しかし竹には、その理由が分からなかった。
ただ、終わった、という事実だけがあった。
銀行の扉が、外側から閉まった。
夕刻の居留地。
菊次郎は磯貝の部下に挟まれながら、石畳を歩いた。
竹は隣を歩きながら、うつむいていた。
「……菊次郎さん」
小声で言った。
「なんだ」
「俺たち、どうなるんですか」
菊次郎は前を向いたまま、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「分からん」
それだけだった。
居留地のガス灯が、一つ、また一つと灯り始めた。
磯貝の帽子のつばが、夕刻の光の中に沈んでいた。
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