表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末の生き残り、英国銀行を盗る  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/16

第十三話:完全包囲

「この電報は偽造だ」


庭に、鋭い声が響いた。


竹は振り返った。


居留地の入口から、馬車が止まり、一人の男が降りてきた。


新政府の大蔵省の紋が入った、正式な燕尾服。冷徹な目。


竹には、その男が誰か分からなかった。


しかしカニンガムの通詞の顔が、一瞬で変わった。白石屋の顔が、青から赤に変わった。


それだけで十分だった。


「大蔵省にそのような検査官はいない」男は歩みを止めず、庭の中央に立った。「この男たちは詐欺師だ」


竹の膝が、震えた。


大蔵省だ。本物の大蔵省の人間が、来た。


「……相良様」白石屋が低く呼んだ。


相良主税。


その名前が、竹の頭の中で転がった。数馬が五話で対峙していた男だ。新政府の大蔵省高官。この密約の当事者だ。


なぜここに。


竹は菊次郎を見た。


菊次郎は石段の端に座ったまま、動かなかった。コレラの演技をしている。しかしその目が、相良を見ていた。


「カニンガム支配人」相良は通詞を通して言った。「この者たちを取り押さえなさい。偽の検査官として、然るべき処置を」


カニンガムが、警備に目配せした。


行員が走り出した。


菊次郎が立ち上がった。


宗伯が静かに下がった。


竹は菊次郎の隣に並んだ。


「言いがかりだ」菊次郎が言った。竹が英語に変えた。声が震えないように、歯を食いしばった。「大蔵省の山城主水だ。その方が何者か知らないが」


「山城主水という人物は存在しない」相良は遮った。「大蔵省に照会した。記録にない」


「照会の手続きに時間がかかっただけだ。大蔵省の内部事情は——」


「電報も偽造だ」相良は続けた。「英国公使館に確認した。そのような電報は発信していない」


竹は頭の中で言葉を探した。言い返せる言葉を。しかし出てこなかった。


公使館に確認した。電報が偽造だと確認した。


茂兵衛が作った仕掛けが、ばれた。


「検査命令書の公印も、偽造だ」相良は言い切った。「全て確認済みだ」


竹は、その言葉を訳しながら、自分の声が遠くなっていくのを感じた。


全部、分かっている。この男は全部知っている。


菊次郎が何か言おうとした。


しかし相良は聞かなかった。カニンガムに向き直り、通詞を通して言った。「警備を呼びなさい。今すぐだ」


警備の男たちが、庭に出てきた。


二人が、三人が、菊次郎と竹を囲み始めた。


竹は菊次郎の袖を引いた。


菊次郎は動かなかった。


囲まれていく。逃げ場が、じわじわと消えていく。


宗伯は建物の陰に下がっていた。弥助はまだ地下室にいるはずだ。仙蔵の荷役衆は路地にいる。


しかし誰も来ない。来られない。


これで終わりだ、と竹は思った。


七話の夜、全員が覚書を台の上に重ねた場面が頭に浮かんだ。血で染まった紙。雨で滲んだ紙。竹の父の名前が書かれた紙。


全部、ここで終わる。


その時。


相良が、菊次郎の前に歩み出た。


二人の距離が、一歩になった。


相良は菊次郎の顔を、じっと見た。


何者だ、という目だ。この男は何者なのか、という目だ。偽の検査官にしては、何かが違う。その所作、その目の据え方、その静けさ。どこかで見たのか。いや、見たはずがない。しかし、この男は只者ではない。


相良の目が、菊次郎の右手の指先に止まった。


ほんのわずかに、揃っている。歌舞伎の見得の形に。


相良の眉が、微かに動いた。


竹は息を止めた。


気づいた。気づいたかもしれない。あの指先の意味を。役者だと。


しかし菊次郎は、相良の目を正面から受けていた。


一切、崩れなかった。


山城主水として、その目を受けていた。


相良はしばらく菊次郎を見た。それから、目を逸らした。


確信が、持てなかったのだ。


あるいは、確信を持ちたくなかったのかもしれない。


「……早くしなさい」相良はカニンガムに言った。「警備に引き渡せ」


竹は、密かに息を吐いた。


しかし膝は、まだ震えていた。


「……すまない」


菊次郎が小声で言った。


竹は俯いた。


責める気にはなれなかった。菊次郎は最後まで山城主水だった。相良に顔を覗き込まれても、一度も崩れなかった。


その時。


居留地の入口から、馬車の音が聞こえた。


一台ではない。複数だ。


紺の制服を着た男たちが、銀行の前に降り立った。


横浜特別警察本部の制服だ。


竹は、その制服を見た瞬間、頭が真っ白になった。


警察だ。


警察まで来た。


これで、完全に終わった。


先頭に立つ男が、帽子のつばを深く被っていた。


「通報を受けた」


しゃがれた声だった。


「詐欺の疑いがあるとのことだが」


男は庭を見渡した。相良、カニンガム、白石屋、菊次郎と竹。一人ずつ、確認するように見た。


「磯貝警部だ」


カニンガムの顔に、安堵が滲んだ。警察が来た。この状況を動かせる。


竹には、その安堵が遠い世界のことのように見えた。


警察が来た。詐欺師として逮捕される。七年分の覚書は、誰の手にも届かない。


菊次郎は、磯貝の帽子のつばを一秒だけ見た。それから、前を向いた。


表情は、変わらなかった。最後まで、山城主水のままだった。


「磯貝警部」カニンガムが通詞を通して言った。「よく来てくれた。この者たちは偽の検査官だ。今すぐ——」


「順番に聞きます」磯貝は遮った。「まず状況を確認させてください」


磯貝はゆっくりと庭を歩き、全員の顔を順番に見た。


相良を見た。白石屋を見た。菊次郎と竹を見た。


そして、カニンガムを見た。


「気になる場所はありますか」


カニンガムは一瞬迷った。


地下室だ。しかし地下室に金塊を移したことを、どう説明するのか。


「……地下室の私物が心配です」


「では確認しましょう」磯貝は言った。「全員、ご同行ください」


***


地下室への階段を、全員が下りた。


カニンガムが先頭に立ち、磯貝が続く。相良、白石屋、菊次郎と竹が続いた。


竹は菊次郎の隣を歩きながら、耳元で囁いた。「弥助さんは」


「もう出ていると思う」菊次郎は前を向いたまま言った。「だが金塊は——」


竹は頷いた。分かっていた。弥助は相良が来た瞬間に動けなくなったはずだ。


地下室の扉の前に、全員が集まった。


カニンガムが鍵を取り出した。差し込む。回す。


扉が開いた。


カニンガムがランタンを掲げた。


光が、地下室の奥を照らした。


積み上げられた箱が、そこにあった。


カニンガムが駆け寄り、一つ開けた。


金塊が、ランタンの光を照り返した。


カニンガムの肩から、力が抜けた。あった。本物の金塊が、ここにある。取られていない。


菊次郎は、その金塊を見た。


何も言わなかった。


竹は、金塊の重い輝きを見つめた。


あそこにある。あの金塊の中に、遺族への未払い給与がある。竹の父の分も、仙蔵の兄の分も、血染めの覚書に書かれた全員の分も。


あそこにある。しかし取れなかった。


竹は唇を噛んだ。


「問題ないようですね」磯貝が言った。それから、カニンガムを見た。「他に気になる場所はありますか」


カニンガムは一瞬迷った。


金庫だ。しかし金庫を開ければ、銀塊と公債証書が出てくる。本来あるべき金塊がないことが、また別の問題になる。


しかし黙っていれば、後で言い訳が立たなくなる。


「……金庫も、確認していただければ」


カニンガムは絞り出すように言った。


磯貝は頷いた。「では参りましょう」


* * *


VIPルームに戻り、金庫が開けられた。


銀塊と公債証書が、テーブルに並んだ。


磯貝は銀塊を手に取り、重さを確かめた。それから公債証書を一枚手に取り、目を通した。


「念のため」磯貝は言った。「金塊と銀塊は、捜査のために一時保管します。明後日、この証明書を持って取りに来てください」


カニンガムが口を開いた。「それは困る。この銀塊は他の銀行から——」


「カニンガム支配人」


相良が、低く言った。


カニンガムは口を閉じた。


部屋が静まった。


相良の目が磯貝に向いた。何かを計算している目だ。


警察が金塊と銀塊を押収する。それは困る。しかしカニンガムが騒げば、密約の全てが公になる。秘帳と契約控が金庫にないことも、金塊が地下室に隠されていたことも、全てが出てくる。


黙るしかない。


白石屋も同じだった。口を開けば終わる。


三者が、互いを見た。


誰も、何も言えなかった。


カニンガムが黙った。


相良が目を逸らした。


白石屋が俯いた。


磯貝は証明書をカニンガムに渡した。


それから、菊次郎と竹に向いた。


「検査官と通詞の方も、念のため事情聴取が必要です。身柄をお預かりします」


菊次郎は立ち上がった。


竹も立ち上がった。


逃げる気力もなかった。


二人は磯貝の部下に連れられ、VIPルームを出た。


廊下を歩きながら、竹は振り返った。


カニンガムが、相良が、白石屋が、それぞれ別の方向を向いていた。


誰も追ってこない。


誰も声を上げない。


三者全員が、同じ理由で、黙っている。


しかし竹には、その理由が分からなかった。


ただ、終わった、という事実だけがあった。


銀行の扉が、外側から閉まった。


夕刻の居留地。


菊次郎は磯貝の部下に挟まれながら、石畳を歩いた。


竹は隣を歩きながら、うつむいていた。


「……菊次郎さん」


小声で言った。


「なんだ」


「俺たち、どうなるんですか」


菊次郎は前を向いたまま、しばらく黙っていた。


それから、静かに言った。


「分からん」


それだけだった。


居留地のガス灯が、一つ、また一つと灯り始めた。


磯貝の帽子のつばが、夕刻の光の中に沈んでいた。

最後までお読みいただきありがとうございました!

少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ