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幕末の生き残り、英国銀行を盗る  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第十四話:偽りの精算

数日後、横浜特別警察本部。


カニンガムは馬から降り、正面扉を蹴るように開けた。


証明書を受付に叩きつけた。


「英国銀行のカニンガムだ。金塊と銀塊を受け取りに来た。磯貝警部を今すぐ呼べ」


声に、怒りが滲んでいた。


数日間、待たされた。明後日と言われたのに、その日も次の日も、何の連絡もなかった。大英帝国の銀行支配人を、これだけ待たせるとは何事か。


受付の日本人が証明書を受け取り、目を通した。


「英国銀行の件でございますね。詐欺未遂の事後報告は受けております。少々お待ちください」


カニンガムは腕を組み、受付を見下ろした。


当然だ。記録がある。全て正式な手続きだ。早く磯貝を呼んで、金塊と銀塊を返させろ。それだけだ。


受付が奥に消えた。


カニンガムは待った。


廊下の奥から、足音が聞こえた。


「英国銀行のカニンガム支配人でいらっしゃいますか」


現れた男は、四十がらみの、日焼けした顔の警察官だった。制服を着ている。帽子のつばが、浅い。


顔が、見える。


カニンガムは、その顔を見た。


一秒。


知らない顔だった。


あの日、庭に立っていた男ではない。あの日、地下室を確認した男ではない。あの日、証明書を渡した男ではない。


「……磯貝警部か」


「はい、磯貝です」男は頷いた。怪訝な顔をしている。「英国銀行で詐欺未遂があったとの報告を受けましたが、詳細な報告書がまだ届いておらず。何か新しい情報が」


カニンガムの口が、開いた。


言葉が、出なかった。


磯貝が証明書を受け取り、目を通した。眉をひそめた。「これは……私の名前が使われていますが、私はこのような押収を行っていません。現場にも参っておりません」


「……何だと」


「この証明書は、偽造です」


カニンガムの顔が、一瞬で赤くなった。


「ふざけるな!」


怒鳴り声が、警察本部の廊下に響いた。


「大英帝国の銀行が、これだけの被害を受けたのだぞ。金塊を返せ。銀塊も返せ。今すぐ捜査しろ。責任者を出せ!」


磯貝は動じなかった。「では、正式な被害届を出していただければ、捜査を開始します」


「当然だ。用紙を持ってこい」


受付が被害届の用紙を持ってきた。


カニンガムはテーブルに用紙を広げた。ペンを受け取った。


書き始めようとした。


止まった。


被害の内容。何を書けばいい。


地下室から金塊が消えた、と書くのか。ではなぜ金塊が地下室にあったのか説明しなければならない。なぜ本来金庫にあるべき金塊が、地下室に移されていたのか。監査を逃れるために隠した、と書けるか。


銀塊を別の銀行から脅して借りた、と書けるか。


秘帳と契約控が消えた、と書けるか。書けば、その内容を説明しなければならない。三者の密約が、全て公になる。


カニンガムのペンが、用紙の上で止まったまま、動かなかった。


磯貝が待っている。


受付が待っている。


何も書けない。


何一つ、書けない。


カニンガムはペンを置いた。


「……後日、改めて来る」


声が、掠れていた。


磯貝が呼び止めた。「カニンガム支配人、被害届は——」


「後日だ」


扉を開けた。


外の光が、眩しかった。


馬が、待っていた。


カニンガムは馬に乗らなかった。


しばらく、その場に立っていた。


居留地の喧騒が、遠くから聞こえた。馬車の音。異人の笑い声。波止場の汽笛。


何も変わっていない。


しかし、全てが変わった。


金塊は戻らない。銀塊も戻らない。別の銀行に返すべき銀塊も、消えた。秘帳も、契約控も、消えた。


誰にも訴えられない。


何もできない。


カニンガムはゆっくりと馬の手綱を取り、歩き出した。


乗らなかった。


歩いた。


大英帝国の銀行支配人が、馬を引いて、横浜の石畳を歩いていた。


***


数日前の夜、居留地の外れ。


菊次郎と竹は、磯貝の部下に連れられて歩いていた。


どこへ向かうのか、分からなかった。


居留地の石畳を外れ、倉庫街の路地に入った。


ガス灯がなくなり、夜が深くなった。


竹は足元を見ながら歩いた。頭の中が、空っぽだった。


覚書のことを考えようとした。父の名前が書かれた紙のことを。しかし、考えられなかった。ただ、足を動かしていた。


路地の奥に、古びた小屋があった。


磯貝の部下が、扉を開けた。


「入れ」


菊次郎が先に入った。竹が続いた。


扉が閉まった。


暗い小屋の中に、ランタンが一つ灯っていた。


その光の中に、一人の男が座っていた。


「……片桐さん」


数馬だった。


仙台平の袴に、色褪せた羽織。腰に算盤。


菊次郎は数馬を見た。それから天井を仰いだ。


長い沈黙があった。


「……最初から、こういうことか」


その時、扉が開いた。


磯貝が入ってきた。


帽子を、取った。


中折れ帽の下から、顔が現れた。


顎に古い傷。しゃがれた声。


半次だった。


竹は、半次を見た。


「……お前が、警察か」


半次は肩をすくめた。


「元、だけどな」


竹は小屋の中を見渡した。


数馬がいる。半次がいる。扉の外には、「磯貝の部下」として動いていた男たちがいる。仙蔵の荷役衆だ。


「……どういうことですか」竹は数馬を見た。「金塊は地下室に残っていました。取れなかったはずです」


数馬は答えなかった。


代わりに、扉が開いた。


茂兵衛が入ってきた。


無造作に、懐から書類の束を取り出した。テーブルの上に置いた。


赤い封蝋が押されている。


竹は目を見開いた。


「……秘帳と、契約控」


菊次郎が、茂兵衛を見た。「……執務室か」


茂兵衛は頷いた。「カニンガムは金塊を地下室に移した。しかし最も危険な書類だけは、自分の手元に置いた。執務室の個人金庫だ」茂兵衛は続けた。「この型の金庫は、十年前に分解したことがある」


部屋に、しばらく沈黙が落ちた。


竹の頭の中で、何かが繋がり始めた。


「……相良が来た時」竹は言った。「全員の目が庭の騒ぎに集中した」


茂兵衛が頷いた。「その隙に、執務室へ入った」


竹はさらに考えた。


「だから、清右衛門さんが封蝋の押し方を教えたのか」


部屋の奥から、清右衛門の声がした。


「割れた封印を、押し直した」


清右衛門が、静かに姿を現した。


菊次郎は清右衛門を見た。それから数馬を見た。


「相良を呼んだのも、お前か」


数馬は答えない。


仙蔵が、部屋の奥から口を開いた。


「俺だけ、知っていた」


竹が「仙蔵さんが?」と驚く。


「金塊は半次が警察として押収する。それだけ聞いていた」仙蔵は続けた。「相良を呼ぶ理由も聞いた。相良がいなければ、カニンガムが半次の押収提案を拒否した可能性がある。しかし相良がいることで、三者全員が密約を盾に互いを縛り合う。誰も動けない。誰も止められない」


竹は、仙蔵を見た。


「……仙蔵さんは、それを聞いて、どう思いましたか」


仙蔵はしばらく黙った。


「片桐を許していない。今もだ」仙蔵は言った。「だが、この男の算盤は信じることにした」


全員が、数馬を見た。


数馬は算盤を一度だけ鳴らした。


パチリ。


竹は、もう一度全てを頭の中で辿った。


相良の乱入は危機ではなかった。茂兵衛を動かすための、計算された混乱だった。


弥助が諦めたのは本当だった。しかし金塊は半次が回収した。


コレラ騒ぎは、金塊を盗むためではなかった。茂兵衛が執務室へ動くための時間を作るためでもあった。


そして発覚しても、三者は誰にも言えない。


「……全部、読んでいたのか」


竹は、自分でも気づかないうちに、言葉を口にしていた。


数馬は答えなかった。


「一つだけ聞く」


菊次郎が静かに言った。


「相良が俺の顔を覗き込んだ時、お前は見ていたか」


「見ていた」


「あの男は、確信を持てなかった。なぜだと思う」


数馬は菊次郎を見た。


「お前が、山城主水だったからだ」


菊次郎は、その言葉を聞いて、目を伏せた。


泥の中で這いつくばった日から、ここまで。看板を売り渡してから、三年。その全てが、あの一瞬に注ぎ込まれていた。


竹は菊次郎を見た。


菊次郎の目が、赤くなっていた。


役者が泣くところを、竹は初めて見た。


***


小屋の外。


仙蔵が待っていた。


数馬が出てくると、仙蔵は黙って隣に並んだ。


しばらく、二人は歩いた。


「茂兵衛から書類を受け取った」仙蔵が言った。「秘帳と契約控、間違いない」


数馬は頷いた。


「金塊は」


「半次から引き取った。波止場の荷に紛れ込ませてある。いつでも動かせる」


「遺族への送金は、お前の物流網で頼む」


「分かっている」


二人はしばらく黙って歩いた。


路地の角で、仙蔵が立ち止まった。


「……片桐」


数馬も立ち止まった。


仙蔵は数馬を見なかった。夜の横浜の、どこか遠い場所を見ていた。


「兄貴の分も、ちゃんと届けてくれるか」


「届ける」


仙蔵は頷いた。


それだけだった。


二人は再び歩き出した。


夜の横浜が、静かに続いていた。

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