第十五話:それぞれの精算
秋が、横浜に来ていた。
居留地の街路樹が色づき始め、波止場に吹く風が変わった。夏の間、黄色い検疫旗を翻していた港の入口に、今は何もない。
あの日から、十日が経っていた。
***
英国銀行横浜支店の執務室で、カニンガムは机に向かっていた。
帳簿が、広げてある。
数字を見ていた。しかし頭に入らなかった。
金塊は戻らない。銀塊も戻らない。横浜正金銀行への返済期限は、来月だ。個人保証でサインした。大英帝国の銀行支配人が、日本の銀行に個人債務を抱えている。
誰にも言えない。
相良に連絡を取ろうとした。しかし相良からの返事はなかった。白石屋に使いを送った。白石屋は「当面、ご連絡は控えさせていただきたい」と返してきた。
三者は今、互いに沈黙している。
誰かが動けば、全てが崩れる。だから誰も動かない。誰も声を上げない。秘帳と契約控は消えた。しかし逆説的に、その消滅が三者を縛り続けている。証拠がなくなった今、誰かが暴露すれば、その人間が最も疑われる。
カニンガムは帳簿を閉じた。
窓の外を見た。
港の光が、秋の波に揺れていた。
あの男の顔を思い出そうとした。山城主水と名乗った男。相良に顔を覗き込まれても、一切崩れなかった男。去り際に微笑んだ男。
あの微笑みの意味が、今になって分かった。
カニンガムは窓から目を逸らした。
帳簿を、また広げた。
数字が、ぼやけて見えた。
***
白石屋の商館は、いつもより静かだった。
番頭が、廊下で顔を合わせるたびに目を逸らす。出入りの商人たちが、以前より来なくなった。居留地での評判が、少しずつ変わり始めている。
白石屋は茶を飲みながら、庭を見ていた。
秘帳がなくなった。
契約控がなくなった。
それは、三者の密約の証拠が消えたということだ。しかし同時に、自分が相良やカニンガムを縛る手段も消えた。三者は今、互いの良心と保身だけで沈黙を守っている。
その均衡が、いつまで続くか。
白石屋は茶を一口飲んだ。
冷めていた。
***
横浜の外れ、夕刻の路地。
数馬は歩いていた。
人通りの少ない道だ。廻船問屋の跡地から、波止場へ向かう道の途中にある。
角を曲がった。
向こうから、一人の男が歩いてきた。
新政府の官吏の洋装。冷徹な目。
相良主税だった。
二人は、狭い路地の中で向き合う形になった。
相良が、数馬を見た。
数馬が、相良を見た。
相良の目に、何かが走った。
怒りではない。敗北でもない。
ただ、何かを確認するような目だった。この男は本当に、あれだけのことをやり遂げたのか、と。
数馬は何も言わなかった。
相良も何も言わなかった。
二人は、すれ違った。
それだけだった。
相良の足音が、路地の奥に消えていった。
数馬は立ち止まらなかった。
腰の算盤が、一定のリズムで揺れていた。
***
廻船問屋の跡地。
竹は縁側に座っていた。
膝を抱え、居留地の方角を見ていた。
あの日から、何かが変わった気がした。何が変わったのか、うまく言葉にできなかった。ただ、あの銀行の扉が閉まった瞬間から、何かが終わり、何かが始まった気がした。
「竹」
背後から、数馬の声がした。
振り返ると、数馬が縁側の端に立っていた。
「少し、いいか」
竹は頷いた。
数馬は縁側に腰を下ろした。二人は並んで、居留地の方角を見た。
しばらく、何も言わなかった。
数馬が、懐に手を入れた。
取り出したのは、一枚の紙だった。
薄い、公的な書類だ。
「見ろ」
竹は受け取った。
目を通した。
戸籍だった。
名前が書いてある。小泉竹文。横須賀出身。生年月日が記されている。
竹は、その生年月日を見た。
自分と同じ年だ。
「……これは」
「相良が用意した架空の戸籍だ」数馬は言った。「秘帳の中に紛れていた。誰かを騙すために作ったものだ。本来の持ち主は、存在しない」
竹は戸籍を見た。
小泉竹文。
自分の名前ではない。しかし年が同じだ。横須賀出身と書いてある。竹は横須賀に行ったことがない。
「……俺が、使っていいんですか」
「お前が決めろ」
数馬は答えた。それだけだった。説明も、勧めも、押しつけもなかった。
竹は戸籍を持つ手を、膝の上に置いた。
小泉竹文。
この名前で生きていくことができる。戸籍のない浮浪児ではなく、横須賀出身の小泉竹文として。居留地の商館に通詞として雇ってもらえる。警保局に追い払われることもない。
しかし。
「……俺の親父の名前は、分からないままですよね」
竹は言った。
「ああ」
「この戸籍を使っても、俺が誰の子か、どこから来たかは変わらない」
「変わらない」
竹は、また戸籍を見た。
小泉竹文。横須賀出身。
嘘の名前だ。しかし数馬は言った。持ち主は存在しない、と。誰も傷つけない嘘だ。
「……茂兵衛さんも」竹は言った。「盗んで覚えた技は本物だ、と言っていました」
数馬は答えなかった。
「盗んだ名前でも、本物になれますかね」
数馬はしばらく黙っていた。
それから、算盤を腰から外した。パチリ、と一度だけ鳴らした。
「帳簿の上の名前は、使った者のものになる。それが勘定方の考え方だ」
竹は、算盤の音が縁側に残るのを聞いていた。
帳簿の上の名前は、使った者のものになる。
竹の父の名前は、政府の帳簿から消された。しかし数馬が持っていた覚書に、その名前はあった。帳簿から消えても、紙の上に残っていた。
そして今、この戸籍の上に、小泉竹文という名前がある。
竹は戸籍を、そっと折り畳んだ。
懐に入れた。
「……小泉竹文」
口の中で、一度だけ言ってみた。
しっくりこなかった。
しかし、しっくりこなくていいのかもしれない、とも思った。
菊次郎が山城主水になった時も、最初からしっくりきていたわけではないはずだ。何度も歩いて、何度も立ち止まって、何度も清右衛門に怒鳴られて、それでも消えなかった指先の癖を抱えたまま、山城主水になった。
「……ありがとうございます」
竹は数馬に言った。
数馬は答えなかった。
算盤を腰に差し直し、立ち上がった。
「仙蔵が待っている。送金の段取りを詰める」
それだけ言って、縁側を離れた。
足音が、廊下の奥に消えていった。
竹は一人、縁側に残った。
懐の戸籍を、もう一度取り出した。
小泉竹文。横須賀出身。
居留地のガス灯が、夕刻の空に一つ、また一つと灯り始めていた。
その光の中で、竹は戸籍を見ていた。
しばらくして、立ち上がった。
「小泉竹文」
もう一度、口の中で言ってみた。
さっきより、少しだけしっくりきた気がした。
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