第十六話:支払済
冬が来る前の、短い晴れ間だった。
横浜の空が、どこまでも高く、青い。
波止場では、今日も荷が動いている。仙蔵が指を一本立てると荷が動き、手のひらを押さえると列が止まる。いつもと変わらない朝だ。
しかし、仙蔵の荷役衆が動かしている荷の中に、いつもとは違うものが紛れていた。
全国各地へ向かう、小さな荷だ。
宛名は、遺族たちの住所だ。
***
その日の朝、京都の外れに住む老婆のもとに、一人の飛脚が来た。
夫を鳥羽伏見で失い、息子と二人で細々と暮らしている老婆だ。
飛脚が差し出した小包を受け取り、老婆は中を開けた。
金だった。
それと、一枚の書状が入っていた。
差出人の名前はなかった。
ただ、短い文章が記されていた。
「慶応四年、徳川家よりの未払い給与、ここに精算いたします」
老婆は書状を読んだ。
何度も、読んだ。
息子が「おっかあ、どうした」と声をかけた。
老婆は答えなかった。
ただ、書状を胸に押し当てた。
* * *
仙台で一人暮らしをしている元旗本の未亡人のもとには、夕刻に届いた。
夫が死んで七年。子供たちはそれぞれ奉公に出た。家は売った。今は裁縫で食いつないでいる。
飛脚が去った後、未亡人は小包を開けた。
金と、書状。
同じ文章だった。
「慶応四年、徳川家よりの未払い給与、ここに精算いたします」
未亡人は縫い物の手を止め、しばらくその書状を見ていた。
七年前、夫が死んだ日のことを思い出した。
その翌日、届いた「名前だけは帳簿に残る」という通知のことを思い出した。
名前だけでは、米は買えない。
しかし今、手の中に金がある。
未亡人は針を置いた。
窓の外を見た。
夕刻の空が、赤く染まっていた。
***
横浜。
あの日、銀行の窓口に並んでいた女のもとに、書状が届いたのは、昼過ぎだった。
子供を背負って、洗い物をしていた。飛脚が来て、名前を確認して、小包を置いていった。
女は小包を開けた。
金が出てきた。
書状が出てきた。
「慶応四年、徳川家よりの未払い給与、ここに精算いたします」
女は、その文章を読んだ。
それだけだった。説明はない。誰が送ったかも書いていない。
女は書状を持ったまま、縁側に座った。
背中の子供が、身じろぎした。
あの日、窓口で言われた言葉を思い出した。
「名は、記録に残ります。しかし金は、繰入です」
あの時、自分は何も言えなかった。ただ列から外れ、子供の背中を叩いて、銀行の扉を出た。
七年間、夫の名前を帳簿に戻そうとした。七年間、同じ言葉が返ってきた。在所不明。繰入済。対応不可。
しかし今、金がある。
書状の中に、夫の名前が書かれていた。
「片瀬惣兵衛殿への給与」
惣兵衛。
女は、その名前を指先でなぞった。
紙の上に、夫がいた。
子供が、背中から顔を出して、書状を覗き込んだ。
「おとう、って書いてあるの?」
女は頷いた。
「書いてある」
それだけ言って、書状を胸に当てた。
泣かなかった。
ただ、秋の空を見上げた。
どこまでも、高く、青い空だった。
***
夜、廻船問屋の跡地。
みんながいなくなった後の、静かな部屋に、数馬は一人だった。
机に、ランタンが一つ灯っている。
数馬は椅子に座り、机の上を見ていた。
覚書の束が、置いてある。
全員分だ。茂兵衛の分、菊次郎の分、清右衛門の分、仙蔵の分、竹の父の分、弥助の分、宗伯の分、半次の分。
全員への送金が、今日、確認できた。
数馬は覚書の束を手に取り、一枚ずつ繰った。
名前を確認するように。
その指が、一番上の一枚で止まった。
古い、角の擦り切れた紙だ。
血で赤黒く染まっている。七年間、数馬が肌身離さず持ち続けてきた紙だ。
片瀬惣兵衛。
慶応四年、大坂方面。数馬が帳簿から消した部隊の一人。
数馬はその紙を、机の上に置いた。
ゆっくりと、広げた。
弾痕のような染みが、紙の端に残っている。あの日、どれだけの血を浴びながら、この紙を握りしめていたのか。死ぬまで手放さなかった男がいた。
数馬は、その染みを一秒だけ見た。
それから、懐から朱肉と印を取り出した。
小さな、木製の印だ。
数馬はそれを、朱肉に押し当てた。
紙の上に、静かに押した。
朱い文字が、紙の上に残った。
『支払済』
数馬は印を置いた。
朱い文字を見た。
七年間、この瞬間のために動いてきた。嘆願書を書いた。窓口に並んだ。上申書を出した。全部、無駄だった。手続きの内側からは、この帳簿は動かせなかった。
そして算盤を持った。
仙蔵の憎しみを受け入れた。菊次郎を泥の中から引き上げた。茂兵衛の技術を借りた。竹の英語に助けられた。清右衛門の作法が、偽物を本物にした。弥助の目が、全てを見ていた。宗伯のコレラが、空白を作った。半次の嘘が、本物を押収した。
全員が、不良債権だった。
新政府に、時代に、帳簿から切り捨てられた者たちだった。
しかし、その怒りと技術が、大英帝国のシステムを食い破った。
数馬は覚書を折り畳んだ。
束に戻した。
立ち上がった。
算盤を腰に差した。
ランタンの火を、吹き消した。
部屋が、暗くなった。
数馬は暗闇の中で、しばらく立っていた。
相良の言葉が、静かに響いた。
「お前の算盤も、いつかまた間違える。あの時と同じように」
数馬は、その言葉を、否定しなかった。
間違えるかもしれない。また誰かの名前を、帳簿から消してしまうかもしれない。
しかし。
七年前の不渡りは、今日、精算された。
それだけは、本当だ。
数馬は廊下に出た。
夜の横浜が、静かに広がっていた。
波止場の灯りが、遠くに見える。仙蔵の荷役衆が、今夜も荷を動かしているはずだ。
数馬は歩き出した。
腰の算盤が、一定のリズムで揺れた。
次の不渡りが、どこかにある。
それでも、歩く。
夜の石畳が、足音を返した。
どこまでも、続いていた。
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