第9話: 西の大遺跡(前編)
奇妙な暖かさが辺り一帯を包み込んでいた。
ぬるい蒸気が、粘つき滑りやすい地面を這うように漂っている。
普段なら暖かな土地へ渡っていく渡り鳥たちまでもが、この地へ集まり始めていた。
彼らのさえずりは、夕日の沈む方角から絶え間なく響く水音と重なり合う。
峡谷は濃い霧に覆われ、その中には巨大な岩柱が幾本も天へ突き立っていた。
平らな場所という平らな場所には苔がびっしりと張り付き、岩肌を鮮やかな緑へ染め上げている。
その時、不意にリアムは視線を逸らした。
近くで枝が折れ、枯れ葉が踏み潰される音が聞こえたからだ。
そこには一頭の鹿がいた。
腹には二本の白い帯模様が走り、下顎からは牙が外へ突き出している。
捕食者の気配を察した瞬間、奇妙な鳴き声を上げながら慌てて逃げ出し、岩の隙間へ苦労しながら身を滑り込ませていった。
その先には岩壁を裂くような亀裂があり、人ひとりがようやく通れるほどの細い道が続いている。
閉じ込められることを恐れたリアムは、一度は入るのを諦めた。
しかし、微かな風と共に蹄が硬い岩を打つ音が届く。
左を向くと、霧の向こう側――崖のさらに先で、先ほどの鹿が青々とした草をのんびり食んでいた。
「『霧と断崖の彼方にこそ、希望は静かに眠る』……。」
「ヴァイオレットのあの古い詩が本当なら、遺跡はもうすぐそこだ。」
リアムは背負っていた荷物を降ろし、岩陰へ隠した。
持っていくのは少量の保存食、水筒、そして狩猟用の剣だけ。
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二つ目の裂け目を越えた瞬間だった。
心臓が肋骨から飛び出し、そのまま逃げ出してしまいそうなほどの恐怖が襲う。
危うく谷底へ落ちかけたのだ。
風は顔を叩き、高い唸り声を上げて吹き抜ける。
眼前には霧に包まれた川と、無数の石柱。
その幾つかは、リアム以前にここを訪れた誰かのせいなのか、苔が剥がれ落ちていた。
他に道はない。
彼は意を決して跳ぶ。
両腕を必死に振り回しながら辛うじて着地し、なんとか体勢を立て直した。
それを四度繰り返す。
一回ごとに風は強く感じられ、恐怖も増していく。
最後の石柱へ飛び移った、その瞬間。
髪を束ねていた紐が風圧に耐え切れず切れた。
銀髪が視界を覆う。
一歩踏み外す。
身体は宙へ投げ出された。
だが、咄嗟に狩猟剣を岩へ突き立て、辛うじて崖へぶら下がる。
ようやく這い上がった頃には、全身が震えて止まらなかった。
再び鹿の姿を見つけた時、リアムは遠くから小さく手を振るだけで別れを告げた。
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谷を覆っていた霧は徐々に晴れていく。
そして――
旅の終着点が姿を現した。
巨大な要塞屋敷。
外壁に囲まれたその屋敷は、門扉が崩れ落ち、長い年月と草木に呑み込まれていた。
六本の高い塔が空を突き刺し、
それぞれに異なる旗が掲げられている。
もっとも、色だけしか判別できないほど朽ち果てていた。
三階建ての建物に並ぶ窓はすべて固く閉ざされている。
中庭へ足を踏み入れると、荒廃はさらに色濃かった。
噴水は濁った水と落ち葉で埋まり、
石畳の道は草や雑草に覆われている。
扉はどれも異様なほど巨大で、人間用とは思えない。
すべて閉ざされ、あるいは歪んで開かなくなっていた。
ただ一つだけ。
離れた場所にある扉だけが開いていた。
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そこは他の建物と切り離された一本の塔だった。
内部へ続く通路は崩落し、通れそうにない。
どうやら鍛冶場らしい。
様々な鎧が並び、
青銅製の重厚なものもあれば、
鉄や鋼で作られたものもある。
リアムは妙な違和感を覚えた。
鍛冶屋で何年も働いてきたというのに、
こんな鎧は一度も見たことがない。
人間用とは思えないほど巨大なものもあれば、
形そのものが異様なものもある。
――それとも。
違和感の正体は、
奥で今なお燃え続ける炉の熱だったのか。
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リアムは炉から赤熱した鉄棒を取り出した。
火花を散らし始めたその先端を見つめる。
その背後。
入口から一人の男が忍び込んでいた。
背が高く、
つま先立ちで音もなく歩いてくる。
右手には小さな手斧。
身につけているのは格子模様のズボンと、毛皮の肩掛けだけだった。
男が振り下ろすより早く、
リアムは振り返る。
赤熱した鉄棒を、その顔面へ叩きつけた。
男は悲鳴を上げて後退する。
リアムは即座に剣を抜き、その切っ先を向けた。
男は金髪に同じ色の口髭を蓄えた、中年ほどの年齢だった。
「まさか、こんな呪われた土地で人間に会うとは思わなかった。」
リアムは手斧を見ながら言う。
「殺すつもりなら、正面から来い。」
「……お前は誰だ?」
男は獣の唸り声にも似た、意味不明の言葉を叫び始めた。
助けを呼んでいるらしい。
落ちた手斧を拾おうとした瞬間、
リアムの蹴りが顎を捉えた。
男はそのまま気絶する。
(まったく……。)
(旅の間ずっと動物と、おしゃべりなエルフしか会わなかったのに。)
(ようやく人間を見つけたと思ったら、いきなり襲ってくるのか。)
(せめて話の通じる言葉くらい使ってくれよ。)
「ウルム・カティル・ジェトプラト!」
さらに三人。
獣のような叫びを上げながら入口を塞ぐ。
今度の連中は明らかに武装が整っていた。
前へ出た二人は短槍と細長い楕円盾。
緑地に深紅の紋様が描かれている。
最後尾には青銅製の菱形剣を持つ戦士。
二人の槍兵が怒号を上げて突撃した。
リアムは最初の突きを紙一重でかわす。
槍の柄を掴み、そのまま引き寄せる。
体勢を崩した男の顔面へ膝蹴りが突き刺さる。
鼻が砕け、血が噴き出した。
その身体を盾代わりに掴み、
もう一人の必死な突きを防ぐ。
好機。
狩猟剣の柄頭が二人の顎を同時に打ち抜いた。
骨の砕ける音。
関節の外れる鈍い音。
二人は地面へ倒れ伏す。
深手ではある。
だが致命傷ではない。
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残るは一人。
磨き上げられた青銅剣を握る戦士だけだった。
鎧もまた同じ青銅の鱗で覆われている。
男は剣を斜め下から構え、
左腕を添え、
ゆっくりとリアムへ歩み寄る。
リアムも同じように剣を構える。
二人は互いを中心として円を描き、
わずかな隙だけを待ち続けた。
先に動いたのは男だった。
構えそのままの軌道で斬り上げる。
リアムは剣の腹で受け止めた。
それでも勢いを殺し切れず、
肩口が浅く裂ける。
「やっぱりな。」
「親父さんが言ってた通りだ。」
「斜めの斬り上げは、完全には受け切れない。」
リアムが呟く。
「……見事だ、小僧。」
男は初めて口を開いた。
「俺の一撃を受け切れる者は少ない。」
「まして――」
口元が笑う。
「下段からの斬り上げを、な。」
続けざまに六連撃。
剣は布が風へたなびくようなしなやかさで舞い、
次の瞬間には獲物へ襲い掛かる鷹のような速度と重さへ変わる。
リアムは後退を余儀なくされ、
一撃ごとに受け流すので精一杯だった。
「はぁ……っ、はぁ……っ……。」
息を切らせながらも、リアムは苦笑する。
「つまり……。」
「最初から俺の言葉を話せたんだな。」
「だったら、先に話し合いくらいできただろ。」
「……それは無理だ。」
男は短く答えた。
次の斬撃は、
先ほどまで以上に速く、
そして容赦なく振り下ろされた。




