第8話: 燃え盛る油火の灼熱
貯蔵庫へ向かって飛ぶにつれ、薬草と煤が混じった匂いはますます濃くなっていった。
鼻の奥深くまで染みつくような臭いだった。
床板はひどく傷み、妙に粘つきながらも滑りやすい。
腐りかけているように黒ずみ、踏めば木は柔らかく沈み込む。
人間から見れば、それらの樽は貯蔵用とは思えないほど小さい。
せいぜいビールジョッキほどの大きさしかない。
だがアエルフレドにとっては違う。
横倒しにして転がしたとしても、胸元ほどの高さがあった。
どうやら以前の住人は、燃えやすい物だらけの場所へ大量の油を一箇所に保管するつもりはなかったらしい。
彼女は苦労しながら三つの樽を暖炉の燃焼室へ運び込んだ。
特に、本を積み重ねて即席の坂を作り、その上へ押し上げる作業は骨が折れた。
最後の陽光が天井の小さな穴から消え去る。
闇がすべてを呑み込み、アエルフレドが並べた松明だけが一本の炎の道を形作っていた。
まるで小さな炉口から続く峡谷のようだった。
樽には穴が開けられ、中から流れ出た油が床一面へ広がっていく。
鼻を突く悪臭に、何度も吐き気が込み上げた。
木材が軋む音が壁を伝い、どこか薄暗い鼠穴のような場所へ吸い込まれていく。
突然、床板に亀裂が走った。
木片が跳ね上がり、床そのものが内側から破裂しようとしているかのようだった。
「どうして今は出てこないの?」
「さっきは私が泣いていた時、何のためらいもなく足に巻きついてきたじゃない。」
(……まさか。
そこまで賢いはずはないよね……。)
「なら――」
「こっちから引きずり出してあげる。」
アエルフレドは消えた両手持ちの松明を一本拾い上げ、火を灯した。
炎の道から離れ、一番大きな裂け目の真上まで飛ぶ。
暗闇の奥で何かが蠢いていた。
紫黒い肉塊の一部が恐る恐る外へ這い出す。
だが炎へ近づいた瞬間、驚異的な速さで巣穴へ引っ込んだ。
脚も骨もない生き物とは思えない速度だった。
その醜悪な肉体の中には、妖精の羽が幾枚も漂っている。
その中には――
まだ幼い、小さな羽もあった。
それを見た瞬間、彼女は松明を暗闇へ投げ込んだ。
耳をつんざく悲鳴。
低い唸り声。
緑色の炎に包まれた怪物が、ついに姿を現す。
苦痛にもだえながらも、降伏する気配はまるでない。
巨大な触腕を振り上げ、凄まじい勢いで叩きつける。
あと一瞬遅ければ、アエルフレドは押し潰されていた。
彼女は机の脚へ身を隠し、辛うじて回避する。
(よし……第一段階は成功。)
彼女は走り、飛び回る。
椅子の脚をくぐり抜け、積み重なった鏡や雑貨の間を縫い、何度もわざと姿を見せた。
怪物を誘き寄せるためだ。
もはや相手は捕食のために追っているわけではない。
逃げ延びただけでなく、自ら戻って挑んできた矮小な存在が許せないのだ。
怒りだけが怪物を動かしていた。
裂け目の奥では、緑の炎がなお燃え続ける。
闇は払いのけられ、これまで隠されていた巨体が露わになった。
悲鳴を上げながら暴れ続け、必死に巣穴から這い出ようとする。
その姿を見たアエルフレドは理解する。
(……あれを。)
(あんな中型犬ほどもある塊を、暖炉の中へ押し込まなきゃいけない。)
思わず一歩、二歩と後退る。
だが身体は震えなかった。
怪物は自らの触腕を引き裂き合いながら炎を消していく。
そのたびに肉体は削れ落ち、再生し、また燃える。
そして、ついに最後の火を消し去った。
怪物は静かにアエルフレドを見据える。
――その瞬間。
彼女は全力で駆け出した。
誰もこんな話を本気にはしないだろう。
妖精が怪物に追われることではない。
脚も骨も持たぬ肉塊が、信じられない速さで追いかけてくることを。
ジグザグに走り、椅子を避け、本の山を飛び越え、錆びた青銅壺の間をすり抜けても、暖炉へ誘い込む隙はまるで見つからない。
角を曲がるたび、そこにはすでに怪物が待ち構えていた。
肉体の一部を刃のように変え、彼女を真っ二つにしようとして。
やがて逃げ場は完全になくなった。
まるで騎士たちの槍に囲まれた猪のように。
飛び立とうとした瞬間、触腕が振り下ろされる。
頭を掠め、再び床へ叩き落とされた。
(……これで終わり?)
(結局私は、家族のほとんどを奪ったあいつに殺されるんだ。)
(……でも。)
(おじいちゃんだけでも逃げられるなら。)
その時、リアムの姿が脳裏をよぎった。
(リアム……。)
(ちゃんと、お別れを言えばよかった。)
怪物は床も壁も覆い尽くし、ゆっくりと彼女へ迫る。
恐怖は限界だった。
身体は震え、翼を抱き締めるように丸くなる。
血の気を失った脚を伝い、尿が流れ落ちた。
あと一瞬で足先から喰われる――
そう思った瞬間だった。
怪物が苦鳴を上げ、再び炎に包まれる。
「……槍!?」
アエルフレドは思わず叫んだ。
「ここだァァァッ!!
地獄の芋虫めッ!!
貴様の腹の中に入りながら、それでも喰い損ねた男がこの儂だァァァ!!」
アエルフレドだった。
深紅の外套を脱ぎ捨て、青銅の兜と腰帯だけを身に着けている。
炎の道を背に立ち、最後の敵へ堂々と吠えた。
その声は塔全体へ轟き、まるで建国神話に語られる初代皇帝の英雄譚そのものだった。
「まだ儂を敵と認めぬかァァァッ!!」
もう一本の槍を投げ放つ。
穂先近くへ括り付けられた小袋には、火のついた油がたっぷり染み込ませてあった。
「すまんな、愛しい孫よ。」
「もうこれ以上、儂のような老いぼれを生かすために、お前たち孫を犠牲にはできん。」
「さあ来い!!
卑しき魔物よ!!
貴様の臓腑を引き裂き、その勝利を栄光ある太陽へ捧げてくれる!!」
その時にはもう、怪物はアエルフレドへの興味を完全に失っていた。
怒りの矛先は、すべて老人へ向けられる。
新たな追跡が始まる。
今度は暖炉へ飛び込む老人を追って。
アエルフレドは必死に祖父の名を叫び、逃げてと懇願する。
だが老人は振り返ることなく、悪臭漂う燃焼室へ飛び込んだ。
怪物もまた、樽から溢れた油が身体へまとわりつくことなど意にも介さず、その後を追う。
二人は煤に覆われた巨大な煙道の最上部まで辿り着く。
再び追い詰められる構図。
怪物は四方八方から老人を包み込もうとしていた。
アエルフレドは最後の槍を抜く。
他より一回り大きく、豪華な装飾が施された一本だった。
残していた最後の可燃液を槍へ浴びせる。
そして渾身の力で、その穂先を岩壁へ叩きつけた。
飛び散る火花。
やがて磨かれた鉄の穂先は、静かな炎を纏う。
「おじいちゃん!!
おじいちゃぁぁん!!」
アエルフレドは泣き叫びながら飛んでいく。
「……すまんな、アエルフレド。」
老人は静かに構え、宿敵の中心へ狙いを定めた。
「お前を、この世界へ一人残すことになってしまう。」
槍は一直線に橙色の軌跡を描き、怪物の中心を易々と貫いた。
熱は瞬く間に全身へ広がり、すべてを炎が包み込む。
直後に起きた爆発は、アエルフレドを遠くまで吹き飛ばした。
床へ叩きつけられ、額が裂ける。
「嫌……。」
「そんなの嫌……。」
「おじいちゃんまで失うなんて……絶対に嫌……。」
必死に意識を保とうとした。
だが瞼は閉じていき、
彼女は静かに意識を失った。
爆風によるものだったのか、それとも別の風だったのか。
かつて祖父が纏っていた深紅の外套だけが、静かに宙を舞う。
そして――
今や一族最後の生き残りとなった少女を、そっと包み込んだ。




