↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒュール  作者: グラム
7/37

第7話 ニンニク、タマネギ、塩、そして酢

ぬめりを帯びた細長い何かが、大地の至る所から這い出してきた。

 それはゆっくりとアエルフレドの踵へ絡みつく。

 まるで彼女が己の精神の奥底へ囚われていることを理解しているかのように。

 やがて踵から血が流れ始める。

 紫がかった半透明の管を通して、その奇怪な存在は血液を地下へ吸い上げていった。

 痛みがあるかどうかなど、もはやどうでもよかった。

 再び自らの苦しみの深淵へ意識を沈めてしまった今、彼女はそこから抜け出したいとも思えなかった。

 心のどこかでは、それが何一つ解決しないと分かっていたにもかかわらず。

________________________________________

 それが運命だったのか。

 偶然だったのか。

 あるいは、名も知らぬ神秘なる存在の導きだったのか。

 小さな妖精は、同族の腕に引き寄せられることで救われた。

 抱き上げられた身体は、床にも壁にも一切触れることなく運ばれていく。

 その直後だった。

 急激な眠気が瞼を重くし、激しい眩暈が意識を蝕み始める。

 空を飛ぶ何かに抱えられていることだけは分かった。

 しかし、それが何なのかは分からない。

 突然、頭へ何かが強く押し当てられる。

 視界が闇へ沈む寸前――

 彼女が最後に見たのは、

 眩い光に照らされた深紅の外套だけだった。

________________________________________

 強烈な匂いが鼻腔を焼いた。

 その刺激だけで瞼が勝手に開いてしまう。

 涙で真っ赤に腫れた瞳がゆっくりと世界を映し出した。

 ……懐かしい匂いだった。

 この方法で起こされたことは、一度や二度ではない。

 熱湯へ刻んだニンニク、タマネギ、酢、塩を混ぜた、とんでもない悪臭。

 どれほど深い眠りでも、この臭気だけは容赦なく叩き起こしてしまう。

「……ん……?」

 アエルフレドはぼんやりと声を漏らした。

「もうそれは片付けてもよさそうじゃな。」

 奥から低く太い声が聞こえる。

「さすがの儂でも、あれを長時間嗅ぎ続けるのは勘弁じゃ。」

 視線を向けると、すぐにその人物が誰なのか分かった。

 老いた妖精。

 全身を無数の皺が覆い、古びた灰色の長衣は麻袋のように擦り切れている。

 長い髭は乱れ放題で、汚れ、枝毛だらけ。

 太く繋がった眉もまた、同じようにぼさぼさだった。

「……おじいちゃん……アエルフレド。」

 彼女は両腕を広げ、老人へ飛びつく。

 力いっぱい抱き締めながら、涙を零した。

「し、死んじゃったのかと……思ってた……!」

「ここにおるよ。」

 老人は優しく孫の頭を撫でる。

「今はちゃんと、お前の傍におる。」

「私……あの花を……」

 言葉は最後まで続かなかった。

 胃の奥から込み上げたものが喉を逆流し、そのまま吐き出される。

 二人がいたのは、鳥籠のような小さな部屋だった。

 天井に開いた細い裂け目から朝日が差し込み、中を明るく照らしている。

「運んでいる間も、一度も手放さんかったぞ。」

 アエルフレドは木箱の上へ湯気の立つ茶碗を置いた。

「ほれ。

 お前の好きな茶じゃ。」

________________________________________

 立ち上る湯気には、懐かしい香りが溶け込んでいた。

 西方の薬草。

 そして、砂漠と蛮族の草原を越えた東方から伝わった高価な茶葉。

 ジャスミン。

 ミント。

 それを紅茶へ合わせた一杯だった。

 彼女は一息で飲み干す。

 干し肉とふやけた黒パンの嫌な後味が、ようやく消えていった。

「ありがとう……。

 本当に欲しかった。」

 少しだけ笑みを浮かべる。

「でも、どうやってお茶なんて手に入れたの?

 もう何ヶ月も、お湯に薬草を入れたものしか飲めなかったのに。」

 その瞬間だった。

 老人の表情が、一段と重く沈む。

 ぼろ布の下に隠された左腕を、強く握り締める。

「……アエヨンとアエニスの荷物から見つけた。」

「干した薬草も、一緒にな。」

「……アエヨンと……アエニス……。」

 アエルフレドの声が震える。

「じゃあ……

 あの二人も……。」

「……。」

 返事はない。

 沈黙だけが部屋を満たす。

 やがて老人は、小さく苦しそうに息を吐いた。

 視線の端には、赤い外套に包まれた細長いものが横たわっている。

 その形だけで、彼女には中身が分かった。

________________________________________

 包帯の隙間から覗く皮膚は、酷い火傷のように見えた。

 だが違う。

 炎で焼け爛れた壊死ではない。

 何百本もの細い針で、一斉に突き刺されたような傷跡だった。

 焼け付くような痛みは筋肉の奥深くまで染み込んでいる。

 包帯を外して確かめようとは思えなかった。

 ほんの一部を見ただけでも十分すぎるほどだった。

「……何が起きたの?」

「ここなら二年くらいは安全に暮らせると思ってたのに……。」

「……あれじゃ。」

 老人は静かに答える。

「……あれ?」

「お前の傷を作ったものじゃ。」

 即席の杖で、彼女の脛を指した。

「この地獄を作ったのも、全部あれじゃ。」

「……覚えてない。」

「だろうな。」

 老人は苦く笑う。

「お前を見つけた時は、昼間の星みたいに魂がどこかへ飛んでおった。」

「名前があるのかも分からん。

 知性があるのかも分からん。」

「ただ一つ分かるのは……

 骨も肉も持たぬ生き物だということじゃ。」

「身体はどんな隙間にも入り込み、

 どんな形にも変わる。」

「古いプラムみたいな、あの紫黒い色だけは変わらん。」

「牙も……爪もないの?」

「ない。」

 老人は首を振る。

「ただの塊じゃ。」

「噛めるものなら何でも喰う。」

「仮設小屋を縛っていた革紐まで食い尽くした。」

 爪の欠けた指先が暗闇を指した。

 しかし濃い霧が谷底を覆い隠していて、その先は何一つ見えなかった。

 光は到底届かない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。