第35話:「口笛の矢」・第二部
「待て……待て……待て……」
「クソッ、リアム! もう長くは弦を支えていられないぞ!」
「今だ!」
テイターはついに弓の弦を放した。
放たれた口笛の矢は、見張り塔にいる兵士へと一直線に飛んでいく。
ちょうどその瞬間、兵士が二人の隠れている場所とは反対側へ周囲を確認するために顔を向けた。
ズドンッ!
矢は本当に重かった。
その重量こそが決定的だった。
ヘルムに直撃した瞬間、兵士はほとんど意識を失うようにして、その場に崩れ落ちた。
「誰か、今の音を聞いたか?」
「たぶん聞いてない。でも、どっちにしろ時間がない。俺が先に行く。そのあと、お前が上ってこい」
「分かった。ただ気をつけろ。今の矢、誰にも気づかれないほど小さな音じゃなかったぞ」
二人が這って進んだ穴は、本当に犬が掘った穴のようだった。
狭く、身体を押し込むだけで精一杯。
服も土も草も、あっという間に汚れていく。
それでも二人は一言も交わさずに中を進み、周囲の兵士たちの様子を窺った。
――どうやら、誰も気づいていない。
「上手くいったみたいだな。お前は裏側か、下から入口に入ってくれ。俺はあそこの階段を上って、あいつと服を交換してくる」
「上でこっそりやってくれよ。お前の尻を助ける羽目になるのは御免だからな」
* * *
大きな天幕の中は、思っていたよりも快適だった。
もっとも、植物や布切れを敷いただけの穴と比べれば、少しでもまともなら快適に感じるのは当然なのだが。
踏み固められた地面には乾いた藁が敷かれ、その上には色とりどりの刺繍が施された絨毯が何枚も重ねられている。
中央には机。
その上には大量の羊皮紙や本、乱雑に置かれた書類、筆記用具。
さらに右端には小さな宝箱まで置かれていた。
“壁”の周囲には箱や木箱、簡素な戸棚が並び、その近くの台にはワイン樽といくつかの杯やグラスまで用意されている。
「出てくる前に一言くらい言ってよ……」
アエルフレッドが鞄から身体の半分を出しながら、不満そうに呟いた。
「これが、あんたたちが調べたかった天幕?」
彼女はふわりと飛び上がり、何か気になるものがないか周囲を見回し始める。
一方のリアムは、机の上に置かれた書類へと目を向けた。
「ああ。何か役に立ちそうなものか、怪しいものを探してくれ」
「怪しいものって?」
「新鮮な物資の注文とか、村から来たように見える依頼とか……あとは、まともな人間同士の会話には見えない手紙とか」
「ふーん……なるほどね」
アエルフレッドは少し考えた。
そして――
「でも、一つ問題がある」
「何だ?」
「私、字が読めない」
「……」
リアムは返事をせず、次々と書類を手に取って確認していく。
「お前たちには文字を書く伝統がないのか?」
「ないよ。私たちはずっと話すことで伝えてきたから。昔話も、伝承も、決まり事も……全部、年長者から年少者へ口で伝えてきたの」
「ふーん。そういうものか」
リアムは一枚の書類をめくった。
「村も似たようなものだな。文字として残すのは書類とか、料理のレシピとか……そういうものばかりだ。俺が読めるようになったのも、実はヘルマンが無理に教えたからだ」
「へぇ……」
「帰ったら、ヴァイオレットに教えてもらうといい。いい先生だぞ。ちょっと厳しいけど」
「それなら、覚えたほうがいいかもね」
アエルフレッドは小さく笑った。
「またいつか、こんな状況になるかもしれないし」
そう言いながら、彼女はいつの間にかワイン樽の蛇口の上に腰を下ろしていた。
「ん? ……そこから飲むのはおすすめしないぞ」
リアムが眉をひそめる。
「どこから来たものかも分からないし、それにお前、その身体で酒なんか飲めるのか?」
「飲むのに身体の大きさって関係あるの?」
「え?」
「私は年齢の問題だと思ってた」
「……俺もよく分からない」
リアムは困ったように頭を掻いた。
そして再び書類へ視線を戻した。
「待て。これは……」
「どうしたの?」
「何か見つけたか?」
「うん。たぶん」
アエルフレッドは机の上へ飛んでいった。
「ちょっと、これをよく読んでみる」
彼女は一枚の羊皮紙を指差した。
「差出人は……グリュープっていう人みたい」
「グリュープ?」
「うん。それで、誰かとやり取りしてる。でも……相手の名前が少し消えていて、よく読めない」
リアムは羊皮紙を手に取った。
「これ……本当に消されてるのか?」
「羊皮紙?」
「そう」
「厚さを見る限り、たぶんそう。でも、それが何か重要なの? 二人とも金持ちってこと以外に」
「一部分を破ってくれ。あそこの蝋燭の近くに持っていってみろ」
「燃やさないでよ?」
「分かってる」
リアムは言われた通り、羊皮紙の厚い一部分を破り取った。
そして蝋燭の炎へ近づける。
しかし――
何も起こらない。
「……」
「ね?」
アエルフレッドが首を傾げる。
「何をしたかったのか知らないけど、上手くいかなかったみたい」
「……うーん」
彼女はしばらく考えた。
そして突然、何かを思いついたように目を輝かせる。
「分かった!」
樽の上から飛び立つと、机まで飛んでいき、置かれていたインク瓶を押し始めた。
「この紙に何か書いて。それからもう一度、今度はインクを塗った側を上にして炎へ近づけてみて」
「時間がない、アエルフレッド。俺はこいつらがここで何を探しているのか分かるものを見つけないと――」
「もう一回やってみて。絶対うまくいくから。ほら、早く早く」
アエルフレッドは羽ペンを持ち上げ、リアムへ差し出した。
「……分かった、分かった」
リアムは諦めたように羽ペンを受け取った。
「その代わり、村に戻ったら文字を覚えるのを途中でやめるなよ」
「分かったってば」
リアムは羊皮紙へ文字を書き込んだ。
そして、再び蝋燭の炎へ近づける。
すると――
「……!」
奇妙な変化が起こった。
すでに乾いていたはずのインクが、羊皮紙の中へとじわじわ染み込んでいく。
そして、みるみるうちに黒い染みへと変わっていった。
文字は完全に読めなくなった。
リアムは目を見開く。
「なるほど……」
「分かった?」
「別のインクなら、紙そのものが燃えるのを助けてしまう。だから、この染みは偶然じゃない」
「そういうこと」
アエルフレッドは頷いた。
「つまり、このグリュープって人と手紙をやり取りしていた相手は、かなり用心深いってことね」
「それで……この手紙には何が書いてある?」
「えっと……」
リアムは羊皮紙を読み進めた。
「謎の人物とグリュープとの取引だ」
「何の?」
「硝石」
「硝石?」
「聞いたことあるか?」
「ない。そもそも、硝石ってどんなもの?」
「俺にもよく分からない」
リアムはさらに文字を追った。
「ただ……五リットルの樽一つにつき銀貨十枚も払っている」
「それって……」
「かなり価値のあるものらしいな」
「クソッ!」
突然――
ピィィッ!
鋭く短い音が外から響いた。
その直後、複数の重い足音。
そして、何か硬いものへ矢が撃ち込まれる音が続く。
「アエルフレッド、隠れろ!」
リアムは即座に剣を抜いた。
以前よりも、その重すぎる剣の重量に身体が慣れてきている。
彼は天幕の外を一瞬だけ覗いた。
――最悪だった。
どういうわけか、計画が露見している。
何人もの兵士が塔へ向かって駆けている。
テイターが矢を放ち続けているにもかかわらず、兵士たちは止まらない。
さらに、門を守っていた兵士たちまで持ち場を離れ、騒ぎの方へ向かっている。
「……あの二人はどこだ?」
「助けが必要だ!」
テイターが叫びながら、続けざまに二本の矢を放った。
そして階段を上ってきた兵士の一人を蹴り落とす。
男は階段を転げ落ち、別の兵士へとぶつかった。
テイターは塔へ近づいてくる兵士たちを防ぐことだけに集中していた。
矢を放てる隙があれば放ち、足場へ手を掛けてきた者には足で払い落とす。
そのため――
彼は気づかなかった。
一人のクロスボウ兵が、すぐ近くから自分の頭を狙っていることに。
カチャリ。
引き金へ指が掛かる。
あと少し。
もう少しだけ待てば、確実に撃てる。
だが――
その一瞬が命取りだった。
「――ッ!」
リアムが駆け込んできた。
斜めに振り抜かれた剣が、クロスボウ兵の武器を打ち払った。
「リアム!」
地面へ落ちたクロスボウが弦を弾く。
放たれた矢が、塔を登ろうとしていた男の身体へ飛び、その勢いで彼を落下させた。
男は別の仲間の上へ倒れ込む。
その周囲には、まだ三人の兵士が立っていた。
三人とも、リアムへ視線を向ける。
「……三人同時?」
リアムは剣を構えた。
「マジかよ……」
まるで意思を持たない波のように、三人が一斉に押し寄せてくる。
リアムはゆっくりと後退しながら、相手の攻撃を受け流していった。
――こいつら、剣術そのものは大したことがない。
ただ数を利用して、左右から回り込もうとしている。
リアムはそれを許さなかった。
一人を牽制し、もう一人を押し返す。
そして、自分の中に定めた“境界線”より先へ、一歩も踏み込ませない。
「くそ……あの二人はどこにいるんだ!?」
「このクソガキが!」
一人の兵士が、怒鳴りながら無謀に突っ込んできた。
その瞬間――
大きな隙が生まれた。
リアムは相手の武器が振られてくる方向へ、剣を合わせた。
ガキィン!
相手の刃が地面へ叩きつけられる。
さらにリアムはそれを踏みつけ、相手の動きを封じた。
「――ッ!」
相手の隙が生まれる。
リアムは一瞬で踏み込んだ。
「……」
敵兵は数歩後退した。
リアムは剣を構え直す。
「片刃の武器を使うなら、無闇に真っ直ぐ振り下ろすな」
その言葉の意味を理解する暇もなく、敵兵は膝から崩れ落ちた。
「ハァ……ハァ……」
二人目の男は仲間を見て動揺しながらも、雄叫びを上げて突進してきた。
大きな斧が振り下ろされる。
リアムは白い鋼の剣で受け止めた。
ガァンッ!
「本気で、ここへ入って好き勝手できると思ったのか!?」
男が叫ぶ。
「お前ら、南のあの小さな村の連中だろ!」
「……」
「まさか、世界の果てみたいな泥溜まりに、こんな奴がいるとはな!」
その背後から、三人目が走ってくる。
剣を携えていた。
「――ッ!」
リアムは避けきれなかった。
刃が腕を掠める。
数歩後退したリアムの右腕から、わずかに血が流れた。
幸い、大した傷ではない。
「……あとで縫わないとな」
リアムは右腕を一瞥した。
敵の二人は、その後退を追い詰めた証拠だと思ったのだろう。
二人同時に再び踏み込んできた。
今度こそ確実に仕留める。
斧は上から。
剣は下から。
二つの攻撃を同時に叩き込む。
逃げ場はない。
――そう思った。
リアムの背後には、すでに柵がある。
「……ん?」
リアムの目が大きく見開かれた。
二人が、自分へ差し出した“贈り物”に気づいたのだ。
次の瞬間。
リアムは残された力をすべて使って踏み込んだ。
剣を左へ水平に振り抜く。
同時に、自らの身体を右へ投げ出すように動かした。
――一閃。
二人の攻撃が空を切る。
そして、二人の身体がその場で止まった。
何が起こったのか理解できないまま、兵士たちは後ろを振り返る。
そこにいたリアムは、長い剣を布で拭っていた。
二人はそのまま膝をつき、力を失っていく。
その少し後ろには、先ほどテイターへ迫っていた兵士たちが倒れていた。
その中には、何本もの矢を受けた者もいる。
「よくやった」
リアムは軽く笑った。
「……そう」
テイターの表情は晴れなかった。
「初めて誰かの命を奪った人間に、何て言えばいいのか……本当なら知っておきたかったんだけどな」
リアムは少し考えた。
「正直、俺にも分からない」
「……」
「動物を狩った経験があるから、そんなに変わらないと思ってたんだけど……」
テイターは弓を見つめた。
「……やっぱり、全然違うな」
「……そうだな」
二人の間に、しばし沈黙が流れる。
やがてリアムが口を開いた。
「そういえば……」
「ん?」
「“放っておく”って話なら、あの二人から一度も声が聞こえなかったぞ」
「俺もだ」
テイターは周囲を見回した。
「上からも、どこにいるのか見えなかった。まさか……俺たちを置いていったのか?」
「分からない」
リアムは剣を下ろした。
「……ひとまず、村かキャンプへ戻ったんじゃないか?」




