第36話:「地獄の鐘楼の鐘鳴り」・第一部
「うわあああああああっ!」
木造の壁の近くで槍を持っていた男の叫び声が響き渡る。
その声に混じって、重力に引かれるまま砕けていく木材の音が周囲へと広がっていた。
「もう少しだけ耐えて! 今、医務室へ運んで――」
「おえっ……!」
兵士を助けようとしていた女性の一人が、思わず吐き気を催した。
目の前にあったのは、草の上へ倒れた男の姿。
その足からは血が流れ続けていた。
木片の一つが膝の少し下から右脚を傷つけ、まともに動かせない状態にしている。
周囲には、重く赤い霧のようなものが漂っていた。
それは一瞬のうちに破壊された者たちによって生じたものだった。
明るい色の服も、周囲の草木も、その影響を受けている。
塔の上にいた観測兵には、もう指一本すら残っていない。
その隣にいた二人の射手も、あちこちへと散らばった木材や瓦礫の中へ倒れていた。
そのうちの一人の身体の一部は、家の屋根へ突き刺さっている。
「……!」
そして再び、矢が降り始めた。
まるで強風を伴った激しい雨のように。
そんな状況の中、一人の子供が動けなくなっている二人の女性へ向かって走っていた。
湿った地面に足を取られ、今にも転びそうになる。
しかし、とっさに木片へしがみついた。
その直後――
ヒュッ!
二本の矢が、子供のすぐ横を通り過ぎた。
「ギルドさん! クラインさん!」
「戻ってください! 負傷者を運ぶ人が、もっと必要なんです!」
だが、二人の女性は子供の呼びかけに反応しなかった。
担架を握ったまま、その場に立ち尽くしている。
その目には、何も映っていないようだった。
「お願いします! 早く! あなたの助けが必要なんです!」
子供は女性の腕を引っ張った。
少しでも気力を取り戻してくれることを願って。
「無駄よ」
その声に、子供が振り向く。
「早く医務室へ戻って。矢に当たるわよ」
マリアだった。
彼女は状況を横目で確認しながら、暗闇の向こうにいる敵の射手を探している。
「ほら。あの屋根にいるのが見える?」
マリアが指を向けた先。
そこには、砕けた射手の身体の一部が屋根の上に残っていた。
「は、はい……!」
「彼の名前はペッター。ペッター・クライン」
マリアは短く答えた。
「ギルダさんの婿でもある」
二人の女性は、もう立ち上がれない。
「だから、あの二人はもう動かない。医務室へ戻って、誰か別の人に二人を迎えに来てもらって」
「で、でも……この人は!? この人を乗せたままなんです!」
子供は必死だった。
マリアは答えるより先に、敵へ向けて弓を引いた。
「……!」
矢が彼女の頭部を掠める。
しかし、塔の柱がその軌道を遮った。
「そこね!」
マリアは即座に反対方向へ矢を放った。
直後、遠くから誰かが苦しそうに咳き込むような声が聞こえた。
「ねえ、顎の近くに太い血管があるでしょう?」
マリアは子供へ叫ぶ。
「そこへ指を当てて、動いているか確かめて!」
「はい!」
子供は震える指を男の首へ当てた。
皮膚の下に何か動くものがないか、必死に探す。
場所を変えて何度も確かめた。
それでも――
結果は変わらなかった。
さらに確認するため、男の腹へ手をついた。
その瞬間。
「……っ」
手が温かく、濡れていることに気づく。
脚だけではなかった。
木片の一つが腹部にも突き刺さっていたのだ。
「何も感じません!」
子供は叫んだ。
「それに、この人、お腹にもひどい傷があります!」
マリアはしゃがみ込んだ。
そして、目の前の状況を冷静に見つめる。
その表情は静かで、真剣だった。
「……もう駄目よ」
「え……?」
「この人はもう死んでる」
マリアは子供を見た。
「今すぐ戻って。誰かを呼んで、この二人を運んでもらって」
「で、でも……まだ助かるかもしれない!」
「自分の手が見えないの!?」
マリアの声が初めて荒くなった。
「その手がどれだけ汚れているか分からない!? 腕の途中まで赤くなってるでしょう!」
「この人はもう大量に血を失ってる!」
マリアは子供の肩を掴んだ。
「今は私の言うことを聞いて、戻って!」
マリアは普段、こんなふうに怒鳴る人間ではない。
だが――
今の状況で、子供をここに残しておくわけにはいかなかった。
「うっ……うぅ……」
泣きそうな顔をした子供は階段を駆け上がった。
そしてマリアの腰へしがみつき、服を引っ張りながら意味の分からない言葉を繰り返した。
やがて――
「どうして……!」
子供は涙を流しながら叫んだ。
「どうしてあんな簡単に人を死なせられるの!?」
「この人だって私たちの仲間だったんだよ!」
「もしかしたら、その人の息子だって私が知ってる人かもしれない!」
「どうしてそんな態度でいられるの!?」
「どうして下へ行って、クラインさんとギルダさんを助けようとしないの!?」
マリアの返事は、誰にでも分かるほど明確だった。
パンッ!
彼女は子供の頬を叩いた。
そして、その目をまっすぐ見つめる。
「あなた、何歳?」
「う……八歳……」
涙が止まらない。
鼻水まで流れていた。
「八歳ね」
マリアは静かに続けた。
「じゃあ、私が何歳か知ってる?」
子供は泣きながら首を横に振った。
「私は十二歳」
「分かる?」
マリアは子供の肩を揺らした。
「あなたより四歳しか年上じゃない」
「私だって、何でも知ってるわけじゃない」
少しだけ声を落とす。
「でも、一つだけ分かる」
「あの板を持って、今すぐ走って戻らなかったら――」
マリアは子供の目を見た。
「あなたも、あの二人や、あの男と同じことになる」
「分かる?」
「……」
「さあ、行って」
「戻って、私が頼んだことをやって」
「ひっ……う、うん!」
子供は涙を拭いながら走り出した。
「……」
「“お姉さん”じゃなくて、“奥様”?」
マリアは一瞬だけ首を傾げた。
「……まあ、いいか」
彼女はすぐに下を見た。
「そこの人たち!」
門を守っている兵士たちへ叫ぶ。
「塔にいた伝令は!?」
「馬が驚いてしまって、伝令を乗せたまま遠くへ走っていきました!」
「……くそっ!」
マリアは歯を食いしばった。
「どうやってヘルマンに、門はまだ落ちていないって伝えればいいの……?」
少し考える。
「矢に文字を書いて、彼の近くへ飛ばす……」
「いや、危険すぎる」
それに――
「ヘルマンも文字が読めない……」
そのときだった。
「敵が射撃を止めたぞ!」
門の指揮官が叫んだ。
「今のうちに後退している敵を狙え! 弓兵は射撃準備!」
兵士たちは一斉に命令へ従う。
しかし、マリアだけは違った。
彼女の思考は、別のことへ向いていた。
「……敵が止まった?」
マリアは目を細める。
「どうして?」
「さっきまで、あんなに上手く攻撃していたのに……?」
周囲を見れば、彼女の考えが正しかったことが分かる。
塔の破壊に巻き込まれた者だけではない。
すでに少なくとも十五人が敵の飛び道具によって倒れていた。
後方へ運ばれた者も多い。
だが、今夜中に再び戦線へ戻れる者はほとんどいないだろう。
「……」
敵がなぜ攻撃を止めたのか。
その理由を考えようとした瞬間――
マリアの心臓が大きく跳ねた。
「……え?」
彼女の目が見開かれる。
「いや……」
「違う……」
「違う、違う、違う、違う……!」
船の甲板。
そこに再び、あの光が現れた。
「違う! 違う違う違う、違う!」
マリアは叫ぶ。
「壁から離れて! 早く――!」
その瞬間、瞳孔が小さくなる。
目の前に現れた光から、目を離せない。
時間そのものが、突然ゆっくりになったようだった。
世界から色が失われていく。
灰色。
ほとんどすべてが灰色に見える。
それでも、燃えている岩の炎だけは僅かに色を残していた。
血の赤。
そして、人々の瞳に宿る様々な色。
風が葉を揺らす音まで聞こえる。
すべての音が、奇妙なほど澄んでいた。
ゆっくりと。
あまりにもゆっくりと。
マリアの視界へ、それが入ってくる。
「……あれは……」
「……球?」
空を飛んでくる黒い球体。
それはどんどん近づいてくる。
けれど、マリアの身体は思うように動かなかった。
それは硬く、重そうな物体だった。
ところどころ形が歪んでいる。
ただ、動いているものを見ているせいで、そう見えているだけなのかもしれない。
「……」
その瞬間。
バキィッ!
古い釘で繋ぎ合わせられていた木の板が、マリアの足元で砕け散った。
周囲にいた兵士たちは倒れる者、逃げる者、そして彼女と同じように動けなくなる者に分かれていく。
マリアの身体が宙へ投げ出された。
「――っ!」
反射的に腕を伸ばす。
少しでも衝撃を和らげようとした。
その一瞬だけ。
彼女は、自分がさっきまで立っていた場所を見た。
そして――
ドサッ!
乾いた草の上へ落下した。
「……全部、ぼやけてる」
マリアは倒れたまま呟いた。
彼女は鐘楼の残骸の近くに倒れていた。
服には小さな裂け目がいくつもでき、泥や埃で汚れている。
手も顔も汚れていた。
落下した際についた小さな傷がいくつかある。
耳の奥では、奇妙な耳鳴りが続いていた。
頭は激しく揺さぶられたように、強い眩暈を感じている。
「……っ」
マリアは何とか目の前へ焦点を合わせようとした。
だが、見えるのはぼんやりとした影だけ。
それらが少しずつ、少しずつ輪郭を取り戻していく。
「水……!」
マリアは腰のベルトから小さな水袋を取り出した。
そして透明な水を顔へ流し、手で汚れを拭う。
「これ……」
手に残った水を見つめる。
「血……?」
額には傷があった。
だが、前髪に隠れていて自分では気づいていなかった。
マリアは顔を上げる。
目の前に広がっていた光景は――
あまりにも酷かった。
多くの兵士が、もう射手としての持ち場を捨てて逃げ出そうとしている。
だが、恐怖に身体を縛られ、胸壁へ縮こまっている者も多い。
門の上に立っていた塔は完全に破壊されていた。
周囲には多くの人が倒れている。
門そのものは、二本の梁が支えているおかげで、どうにか崩壊を免れていた。
しかし――
「……あと二発も耐えられない」
マリアはそう判断した。
そして、もう一つ。
彼女が手にしていたもの。
かつて“弓”と呼ばれていた木片は、もう使い物にならなくなっていた。
「ヘルマン……」
マリアは立ち上がろうとした。
「……彼をここへ呼ばないと」
何とか身体へ力を込める。
立とうとする。
だが――
一歩目を踏み出そうとした瞬間、また倒れた。
「くそっ!」
「どうして……!」
もう一度立ち上がろうとする。
しかし、脚が思うように動かない。
「まさか……!」
「私、這って行かなきゃならないの!?」
「うわあああああっ!」
再び、矢が降り注いだ。
その一本がマリアの左腕へ突き刺さった。
「――っ!」
鋭い痛みが走る。
腕から血が流れ、身体の左側全体へ痛みが広がった。
それでもマリアは止まらなかった。
瓦礫の向こうへ行かなければならない。
泥にまみれた草の上を這い、落ちている木片や瓦礫で外套をさらに裂きながら進む。
「……あと少し……!」
ようやく、身を隠せる場所へ辿り着いた。
マリアは岩へ脚を掛け、身体を支える。
そして残っていた梁へ背中を預けた。
「……っ!」
左腕に刺さっていた矢を確認する。
彼女は矢の一部を折った。
口に入れられるほどの長さになるまで短くする。
残った矢をしっかりと掴む。
「一……」
呼吸が速くなる。
「二……」
心臓の鼓動が強くなる。
「三……!」
マリアは矢を抜こうとした。
できる限り傷を広げないように、慎重に動かす。
鎖帷子が役に立った。
鉄の鏃は、思っていたほど深く入り込んでいなかった。
それでも――
痛みは、矢が刺さったときより遥かに強かった。
まるで腕がいくつもの欠片へ分かれてしまうような感覚。
マリアは歯を食いしばる。
そして、矢が入ってきた角度を探った。
「……ここ……!」
グッ!
一気に引き抜く。
「――ッ!」
矢は抜けた。
マリアの身体から力が抜けそうになる。
涙と唾液が混ざり、顎から落ちて服を濡らす。
「……疲れた……」
身体が重い。
まだ、あの忌々しい眩暈も消えていない。
ただ、耳鳴りはいつの間にか止まっていた。
代わりに聞こえてくるのは――
叫び声。
苦痛の声。
恐怖に怯える声。
「……」
マリアは頭を外套の内側へ少しだけ縮めた。
そして、ゆっくりと目を閉じ始める。
起きていなければならない。
戦わなければならない。
そんなことは分かっている。
それでも――
今の身体は、彼女の意思に従おうとはしなかった。




