第3話: 風変わりな医師の薬草
時刻はすでに昼を回っていた。
秋の弱々しい陽射しは、その温もりを少しずつ失い始め、やがて地平線の向こうへ姿を隠そうとしている。
ツァイトの大樫は、驚くほど正確に季節の移ろいを刻んでいた。
赤く染まっていた葉はすでにその色を失い、どんぐりと同じ褐色へと変わりつつある。
冬を迎える最後の段階だった。
日を追うごとに暖炉へ火を入れる時間は長くなり、人々は少しずつ厳しい季節への備えを始めている。
マリアが次に向かったのは、この村で数少ない「火が絶えることのない家」。
村の「医者」、ディーターの住まいだった。
家の裏へ回ると、細身の男が大きな薬草畑で膝をつき、黙々と草花を摘んでいる姿が見えた。
まだ若いと言われている。
リアムより五歳ほど年上。
しかし、マリアは一度として彼の素顔を見たことがない。
痩せた体つきに、やや高い背丈。
不自然なほど長い手足。
そして何より目を引くのは、頭を覆う奇妙な仮面だった。
それは一羽の烏の頭蓋骨を模したもの。
伝承によれば、史上初の医師――《肉体の君主》が最も愛した鳥だという。
黒くゆったりとした外套が、その異様な姿をさらに際立たせていた。
ディーターは、摘み取った一本のスミレをしばらく眺め続けていた。
仮面の硝子越しに、その紫色を飽きることなく見つめている。
「……まだ彼女のこと考えてるの?」
マリアがそう声を掛けると、ディーターはぴくりと肩を震わせ、慌てて花を籠へしまい込んだ。
何事もなかったような素振りである。
「いつかちゃんと想いを伝えないと駄目よ?」
「彼女? 誰のことだい?
何を言っているのかさっぱり分からないな。」
「驚くことに、あんたがヴィオレットに惚れてるって気付いてないのは本人だけなのよ。
そのうち誰かに取られるわよ?」
「悪いけど、マリア。
恋愛相談をする相手としては、君ほど説得力のない人はいないと思う。」
「分かってる。
だからこそ、今のあんたがどれだけ間抜けかって話よ。」
「……うーん。
冬至祭の頃には話しかけてみようかな。」
マリアは呆れたように溜め息をついた。
「年の初めにもリアムに同じこと言ってたでしょう?
『春分の日には告白する』って。
それで今があるわけ。」
「僕には難しいんだ。
君には分からないさ。」
「そりゃ分からないわよ。
まず好きな人なんていないし、告白するのは男の役目でしょう。
でも一つだけ助言するなら、その怖い仮面を外したら?
子供たちが『鳥の頭をした悪魔に食べられる』って本気で怖がってるわよ。」
ディーターは静かに首を振った。
「これはマイヤー先生の形見なんだ。
教えと一緒に受け継いだものを、粗末には扱えない。」
「姉さんから聞いたことがあるわ。
年老いた犬を連れて歩いてた、背中の曲がったおじいさんだったって。」
少し考えてから続ける。
「優しい人だった……らしいわ。」
「リズの言う通りだ。
先生は立派な人だった。
そして、あの犬も本当にいい犬だった。」
短い沈黙が流れる。
「……まあ、昔話をしに来たわけでも、恋愛相談をしに来たわけでもないわね。」
ディーターが籠を持ち上げながら尋ねる。
「小さなビアの様子は?」
「落ち着いてる。
先週から発作も起きてないわ。」
マリアは少し視線を伏せた。
「リアムがあの本を探しに出て行ったことで、余計に悪くなったと思う?」
「断言はできない。」
ディーターは静かに答える。
「兄がいないことで症状が悪化する可能性は否定できない。
それでも……正直、完治できる希望はまだ少ない。」
そう言って立ち上がる。
「中へ来てくれ。」
室内は、不思議な空間だった。
散らかっているようでいて、どこか秩序が保たれている。
木の床には本が山積みにされ、その多くは亡き師から受け継いだものだった。
小袋に詰められた薬草は種類ごとに箱へ整然と並べられ、別の束は黒い石で囲まれた暖炉の脇で乾燥させられている。
錬金術用の作業台には青銅製の奇妙な装置が据えられ、中央の暖炉と繋がっていた。
煙を室内へ充満させないための工夫なのだろう。
一段高くなった奥の空間には、寝癖がそのまま残った簡素な寝台。
壁という壁は本棚で埋め尽くされ、古びた書物や羊皮紙、薬瓶や素材が隙間なく並んでいた。
「片付いてるかもしれないって期待した私が馬鹿だったわ。」
マリアが肩をすくめる。
「ヴィオレットって、すごく几帳面なんでしょう?」
「……そう、だったかな。」
ディーターは摘みたての花を吊るしながら、小さく答えた。
その様子を見て、マリアは苦笑する。
「鐘が鳴ってたから、アンドレアさんの船でしょう?
今回は何を買えたの?」
「いつもの物と、少し追加で。」
マリアは袋を軽く持ち上げる。
「一番大事なのはちゃんと手に入ったわ。
あの薬種商には、危うく靴まで毟り取られるところだったけど。」
「値上がりした?」
「ええ。」
ため息を漏らす。
「でも心配しなくていい。
あと一、二回くらいなら買えるだけのお金はあるわ。
少し狩りを増やせば何とかなる。」
少しだけ表情が曇る。
「ただ……その間、リズとベアトリスだけを家に残すのが心配なの。」
ディーターは静かに頷いた。
「狩りの間はスタイン老人が見回ってくれている。」
「昼だけでしょう?
私が怖いのは夜なのよ。」
「無理もない。
リズは優しい子だ。
自分の身を守るような性格じゃない。」
その瞬間。
マリアが獲物を睨む獣のような目で彼を見た。
「い、いや!
き、君だって優しいって意味で――!」
(続く)




