第18話: 西の大遺跡 (第十部)
うめき声と唸り声が、降り始めた細かな霧雨とともに辺りへ響いていた。
雨粒はあまりにも軽く、冬の始まりに舞う雪片のように風へ漂う。
少なくとも十数人はすでに魂を失い、その倍ほどの者が負傷していた。
原因は、先ほどまで続いていた乱戦だけではない。
あの騎馬突撃が残した爪痕でもあった。
城壁の上に立つ弓兵や投石兵たちは、しばらく前から呆然とその光景を見つめている。
凶暴な黒馬は止まらない。
泥濘を滑りながら円を描き、狂ったように疾走を続ける。
自分を傷つけようと近づく者も、背にいるリアムを狙う者も関係ない。
踏み潰し、泥を浴びせ、容赦なく蹴散らしていく。
リアムを守ろうとしているわけではない。
ただ、自分へ危害が及ぶと本能で理解しているだけだった。
その暴れぶりは常軌を逸していた。
やがて盾壁のあった場所を突破すると、そのまま湾曲した城壁へ激突しかける。
しかし次の瞬間。
巨馬は蹄を傾け、そのまま濡れた草地を滑走し、勢いを殺すことなく石壁へ到達した。
そして。
リアムが予想もしなかったことが起きる。
まるで平原でも駆けるかのように、その巨体は城壁そのものを走り始めたのだ。
もし誰かがこの馬の主人だったなら、狂気に侵された獣として迷わず始末していただろう。
穏やかに降りることは不可能だと悟ったのか。
漆黒の軍馬は城壁を強く蹴り、大きく跳躍した。
砕けた石壁には、蹄の跡だけが深々と刻まれている。
眼下の蛮族たちは悲鳴を上げながら逃げ惑った。
何を叫んでいるのかリアムには分からない。
だが、おそらく――
「悪魔だ!」
そのような意味だったのだろう。
リアムは必死にしがみつく。
城壁を駆けた際、鐙から外れた脚と片腕で青銅の鱗に覆われた首へ絡みつき、もう片方の手では額当てから伸びる巨大な鋼の角を掴んでいた。
少しでも遅れていれば、噛みつかれていたかもしれない。
奇跡か。
それとも実力か。
空中でどうにか体勢を立て直し、再び鞍へ腰を下ろす。
あと少しで完全に立て直せた。
――その時だった。
槍が一直線に顔面を狙って飛来する。
リアムは大剣の厚い刀身で受け流した。
しかし。
続く一撃までは防げない。
強烈な蹴りが腹部へ叩き込まれた。
息が詰まる。
身体が宙へ吹き飛ぶ。
落下する最中、彼の視界に映ったのは。
以前、自分の言葉を理解していたあの蛮族が、巨馬の手綱を握る姿だった。
二人はほぼ同時に地面へ着地した。
リアムは腹部への衝撃から立ち直ろうとしている。
一方、蛮族は悠然と馬から降りた。
暴れ狂っていた獣は、不思議なほど静かになっていた。
男は以前より立派な鎧を纏っている。
銀色の鎖帷子の上には磨き上げられた青銅板が革へ縫い付けられ、簡素な胴衣を形作っていた。
腰から下は赤と緑の格子柄の毛織物に、厚い革帯を垂らしただけの装い。
そして。
真冬の寒さにもかかわらず、その足は裸足だった。
「シーッ……ほら、大丈夫だ。」
蛮族は馬へ優しく語りかける。
まるで幼子をあやすような声だった。
「もう終わった。大丈夫、大丈夫……俺がいる。」
そう言って、額へ軽く口づけまで落とす。
もし先ほどこの馬に蹴られていたなら。
今見ている光景にも納得できたかもしれない。
そんな考えは。
男の冷え切った視線によって断ち切られた。
それは獣ですら逃げ出すほど冷たい眼差しだった。
「君、この子を怖がらせただろ?」
リアムは答えない。
答える必要もなかった。
「君は本当に優しい子だ。」
「あの悪い人は、もう君をいじめない。」
「約束するよ。」
「……俺が怖がらせた?」
リアムは周囲を見渡した。
砕けた盾。
倒れ伏す兵士。
死体。
傷ついた者たち。
生き残った兵士たちは複雑な表情でこちらを見つめている。
恐怖。
怒り。
そして驚愕。
「そうだ。」
「かわいそうなセフィルを怖がらせた。」
「この子は本当に優しい魂なんだ。」
「どうしてそんなことをした?」
リアムはすぐには答えなかった。
男は群衆へ目を向ける彼を見て、小さく笑う。
「彼らのことは心配しなくていい。」
「少なくとも、私がさっきやったことの後ではね。」
「……何をした?」
「ん?」
「正式に決闘を申し込んだ。」
「そして君は受けた。」
リアムは眉をひそめる。
そんな覚えはない。
男は苦笑した。
「その顔。」
「東じゃ『道に迷った猿』って言うんだったかな?」
「簡単な説明を聞いても何一つ理解できてない奴のこと。」
「合ってる?」
「そんな言葉は初めて聞いた。」
「……それで?」
「俺を逃がす気はあるのか。」
「答えは分かってるけど。」
腹部の痛みに耐えながら、リアムは再び剣を構えた。
男も静かに姿勢を低くする。
「正直に言えば。」
「あの大馬鹿を殺してくれた礼として、君を逃がしてやりたい。」
波打つ刃を持つ長剣を前腕へ沿わせるように構え、その切っ先をリアムへ向ける。
「だが残念ながら。」
「私より上にある掟が、それを許さない。」
剣戟が始まる。
男――アルダンは次々と鋭い突きを放つ。
リアムは刃へ身体を寄せ、自らの大剣で軌道を逸らしながら応じる。
互いに息が上がれば、一度距離を取る。
そして再び踏み込む。
この部族の決闘作法など知るはずもない。
それでもリアムの身体は自然と正しい間合いで動いていた。
まるで目に見えない旋律へ導かれ、踊らされているかのように。
「こんな大勢の前で。」
「本当にあの化け物を殺してほしかったなんて認めるのか?」
鍔迫り合いの最中、リアムは問い掛けた。
もし言葉で終わらせられる可能性があるなら。
今しかない。
「そんなことはどうでもいい。」
「誰も東方の言葉なんて理解できないし、話せもしない。」
アルダンはリアムを押し返し、続けざまの斬撃を放つ。
「正直に言うと……ええと。」
「リアムだ。」
「ああ、リアム。」
「君がここを生きて出る方法は一つだけ。」
「私を越えることだ。」
「……そうそう。」
「私はアルダンという。」
再び刃がぶつかる。
今度はリアムが武器の重量を活かし、アルダンを城壁へ押し込もうとした。
火花が散る。
汗と霧雨が宙へ舞う。
一撃ごとに観衆は後退していく。
流れ弾ならぬ流れ斬撃を恐れて。
浅い傷はいくつも刻まれる。
だが決定打にはならない。
膠着を破ろうと、リアムは大剣の反りを利用して相手の足を薙ぎ払おうとした。
しかし、それは失策だった。
アルダンは跳ぶ。
頭上から全体重を乗せた斬撃を振り下ろす。
リアムは辛うじて反応し、刀身の側面で受け止めた。
それでも。
泥濘は彼を支え切れない。
二人はもつれるように倒れ込んだ。
上を取ったのはアルダンだった。
拳を何度も叩き込む。
リアムは両腕で頭部を守るしかない。
やがてアルダンが剣を取り直し、その切っ先を眉間へ突き立てようとした瞬間。
リアムの肘が顎を打ち抜く。
続けて前腕でもう一撃。
そのまま両腕を絡め取って一瞬だけ動きを封じる。
十分だった。
額が槌となる。
渾身の頭突きがアルダンの顔面へ炸裂した。
蛮族は後退し、そのまま城壁へ蹴り飛ばされる。
リアムは泥の中から剣を拾い上げ、間髪入れず突進した。
まだ意識の定まらないアルダンは、苦し紛れに泥を投げつける。
意味はない。
リアムはその泥塊すら両断し、純粋な力比べへ持ち込んだ。
白銀の刃と磨き上げられた鋼が擦れ合う。
しかし、月光色の大剣は明らかに勝っていた。
アルダンの剣には次々と亀裂が走る。
欠片が飛ぶ。
考える暇すら与えられない。
リアムは押し込むだけでは終わらなかった。
鍔を振り下ろす。
まるで戦槌のように。
重い衝撃がアルダンの頭を打つ。
巨大な剣だからこそ可能な戦い方だった。
圧力を分散させながら攻撃を続け、同時に相手の反撃も封じ込める。
さらに三度。
鈍い打撃がアルダンを襲う。
片目は腫れ上がり。
もう片方は額の四つの裂傷から流れる血で赤く染まる。
耳鳴りが止まらない。
意識も霞み始める。
だが。
リアムも限界だった。
肩へ深く突き刺さった傷が力を奪っていく。
アルダンは右手の指を二本失っていた。
立っていることすら苦しい。
全身の傷が心臓の鼓動に合わせて疼く。
完全に見誤った。
かつての族長候補へ苦戦していた少年。
その程度と思っていた。
新しい剣のせいか。
それとも。
妹を救いたいという想いが、天を衝くほど強くなったからか。
「エンク・アルダン!」
甲高い泣き声が二人の頭上から響いた。
バルコニーには何人もの女性が身を乗り出している。
年配の女性が必死に中へ引き戻そうとしていたが、誰一人として石の欄干から手を離さない。
「ナル・ヴェルリド! エンク・アルダン! ヨージン・プレディグ・ヴェル!」
アルダンは胸の痛みとともに、その泣き声を聞いていた。
すべての運命が、自分の肩へ懸かっていることを知っていたからだ。
「教えてくれ、リアム。」
「どうしてこんな辺境まで来た?」
「今さらそんなことを聞くのか?」
「答えたところで、あんたは俺を通す気なんてないんだろ。」
「ただの興味だ。」
「君が手に入れたのは、その剣と背中の本だけだ。」
リアムはしばらく口を閉ざした。
村へ報復が及ぶことを恐れていた。
しかし。
アルダンの瞳には悪意が見えない。
必要以上に誰かを傷つけようという意思も。
だから彼は信じることにした。
「妹のためだ。」
「重い病気なんだ。」
「その治療法が、この本にしかないかもしれなかった。」
「存在するかどうかさえ分からない本を求めて。」
「呪われた土地へ来たのか。」
「……愛のため、か。」
アルダンはかすかに笑う。
折れた肋骨が痛むのか、その笑いは何度も途切れた。
「笑うなら笑え。」
「妹を救えるって、まだ信じてるからな。」
「だったら早く決着をつけよう。」
「俺には時間がない。」
「違う……ゴホッ。」
「君の想いを笑ったわけじゃない。」
「私も……同じだからだ。」
「妹さんの病は?」
リアムは静かに答えた。
「緋の疫病だ。」
「……そうか。」
「奇妙な縁だな。」
「その病が最初に確認されたのは、私たちの故郷なんだ。」
「君たちは『緋鋼王国』と呼んでいるはずだ。」
「病名も、そこから付いた。」
「私たちはその北方から逃げてきた。」
「五部族連合へ戦を仕掛けた王へ従うことを拒み、新天地を求めて。」
「この状況で身の上話を始めるつもりか?」
アルダンは苦く笑う。
「少しでも傷の痛みを忘れたかっただけだ。」
「……無理そうだけどな。」
「そうだな。」
「無理だ。」




