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ヒュール  作者: グラム
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第16話: 西の大遺跡 (第八部)

競走場の柵を飛び出した駿馬のように、リアムは全力で駆け出した。

 もっとも、その前に背負っていた即席の荷物だけは外している。

 両手で抱え込むその力はあまりに強く、今にも掌から血が滲み出しそうだった。

 自分の長身に感謝すべきだろう。

 長い脚があったからこそ、彼はバルコニーを踏み台にして夜の冷気へと身を投げ出せたのだから。

 荷物を放り投げたのは、炎や水辺から十分離れた場所へ落ちると確信した後だった。

 第一の目的は達成された。

 妹を救うための希望は、安全な芝生の上へ落ちた。

 しかも、偶然にもアエルフレドのすぐ近くだった。

 妖精は目を丸くしてその一部始終を見守っている。

 だが、第二の目的――つまり自分自身の生還は、もはや運任せだった。

 技術が必要な局面は、走り始めた時点で終わっていたのである。

 次の瞬間。

 リアムの背中が何かへ激突した。

 硬い。

 しかし同時に柔らかい。

 鉄屑を山積みにし、その間へ硬い枕を詰め込んだような感触だった。

 理想的とは程遠い。

 それでも骨が折れなかっただけ幸運だった。

 だが、もっと奇妙なことがあった。

 深い湖へ落ちたはずなのに、身体の下で何かが動いている。

 まだアドレナリンは全身を巡っていた。

 感覚は鋭く研ぎ澄まされている。

 そして、その理由はもう一つあった。

 何者かが左腕を掴み、水中へ引きずり込もうとしていたのだ。

 直後。

 透明な水の膜を裂いて何かが走った。

 反射的に頭を動かさなければ、片目を失っていたかもしれない。

 銀色の小魚が矢のような速さで泳ぐ時の閃光。

 それによく似た光だった。

 燃え落ちゆく巨木の光が周囲を照らす。

 霧の海に浮かぶ灯台のように。

 その光は水中へも届き、藻や石、小魚たちの姿を浮かび上がらせた。

 そして。

 リアムと戦う男の姿も。

 最後の蛮族だった。

 仲間の仇を討とうと、狂ったように短剣を振るう。

 一撃。

 二撃。

 三撃。

 しかし、そのどれも決定打にはならない。

 そして最後の一振りが隙を生んだ。

 リアムは自由な右手で敵の腕を掴む。

 身体を捻りながら押し流し、その勢いのまま額を鼻へ叩き込んだ。

 鈍い衝撃。

 鼻梁が砕ける感触。

 血が水中へ溶け出していく。

 二筋の赤が広がり、やがて周囲は紅い霧に覆われた。

 だが、その霧さえも――。

 リアムの大剣が真っ二つに切り裂いた。

 白銀の軌跡が血煙を断つ。

 濁流はさらに激しく掻き乱された。

 蛮族の身体は沈んでいく。

 一方、リアムは水面へ向かって泳ぎ始めた。

 敵は最後まで抵抗していた。

 短剣で防ごうとしたのだ。

 しかし、その刃ごと肩を切断されていた。

 今や彼を抱くのは深淵の闇だけ。

 焼け焦げた肉には青銅の輪が食い込み、剥き出しになった筋肉へなお張り付いていた。

「この馬鹿っ!!」

 岸へ上がった瞬間、アエルフレドの蹴りと拳が飛んできた。

 主に脛へ。

 容赦なく。

 リアムは無言で服を絞る。

 大量の水が妖精の頭上へ降り注ぎ、苦労して整えた髪型を一瞬で台無しにした。

 それが何より雄弁な返答だった。

「どうしてそんな無茶したの!?」

「……説明する気にもならないな。」

「思いついた理由?」

「そう。」

「それとも成功した理由?」

 リアムは苦笑した。

「正直、どっちも分からない。」

 剣は鞘へ戻していない。

 荷物を背負い直しただけだった。

 燃える巨木の熱のおかげで服はかなり乾いている。

 ほんの一時的なものだろうが。

「ふーん。」

 アエルフレドは呆れたように肩を竦めた。

「で、ここからどうするの?

 あの筏で上流まで戻るなんて無理だよ。」

「誰が戻るって言った?」

「え?」

 妖精は瞬きを繰り返す。

「他に出口なんて見えないよ?

 まさか霧の奈落へ飛び込む気?」

「そんなつもりはない。」

 リアムはそう言いながら、大剣の柄へ手を縛りつけ始めた。

 革紐を歯で強く締め上げる。

「じゃあ?」

「あそこだ。」

 彼は水道橋を指差した。

 アエルフレドは数秒理解できなかった。

 そして理解した。

『天よ。』

『私は本物の狂人と手を組んでしまった。』

「まさか……」

「そのまさかだ。」

「走る。」

「縁を。」

「走る!?」

「だから、お前は少し上を飛んでろ。」

 リアムは足元を確かめる。

「すぐに追手が来る。

 距離を取っておけ。」

「どうして走る必要があるの!?

 一歩踏み外したら本は終わりだよ!?」

「分かってる。」

 リアムは姿勢を低くする。

「でも四人も衛兵を送ったんだ。」

「次はもっと来る。」

「この狭い場所で戦う気はない。」

「だから走る。」

「出口まで。」

「何が現れても止まらない。」

「速度も落とさない。」

 そう言い終える前に。

 彼は走り出していた。

 アエルフレドは慌てて後を追う。

 大きく跳躍する。

 蒸気の柱を飛び越え、磨き上げられた石へ着地した。

 奇妙な橋。

 人工の川を支える巨大な土台。

 リアムの靴底はほとんど地面へ触れていなかった。

 つま先だけが一瞬接触し、すぐ離れる。

 まるで風の上を走っているかのようだった。

 もし老鍛冶師ヘルマンから走法と体幹を叩き込まれていなければ、とっくに転落していただろう。

 リアムはあまり彼の過去を知らない。

 自分が生まれて間もなく村へ現れたこと。

 それくらいしか。

 ただ一つ確かなのは、奇妙な茶を好んでいたことだ。

 自ら育てた木の葉を乾燥させ、粉末にして飲む。

 冬になるたび、雪や氷を掻き分けて葉を摘ませた。

 その緑の粉を乾燥した瓢箪へ入れ、湯を注ぎ、中空の葦や竹で作った管を使って吸う。

 身体は温まり、一日中力が湧く。

 だが味は最悪だった。

 草を噛む方がまだましと思えるほど苦い。

 空から見下ろすアエルフレドは息を呑む。

 リアムは速い。

 本当に速い。

 風より軽やかに走る。

 横へ伸ばした大剣は蒸気と風を切り裂き、まるで絹布を裂くようだった。

 一歩進むごとに。

 妖精の不安は増していく。

 一度でも踏み外せば終わりだ。

 そして。

 遠くから角笛の音が響いた。

 城壁の向こう。

 高所の窓という窓に人影が現れる。

 男も女も関係ない。

 全員が弓を構えていた。

 骨で作られた粗末な矢。

 金属製を作る時間すらなかったのだろう。

 矢の雨が降り注ぐ。

 しかしリアムは奇妙な動きを始めた。

 大剣を円を描くように回転させる。

 打つ。

 流す。

 弾く。

 飛来した矢は次々と逸らされる。

 あるものは左右へ。

 あるものは真っ二つに断ち切られた。

 だが。

 矢は増え続ける。

 橋の基部へ近づくほどに。

 そして。

 一矢が掠めた。

 腕を。

 ほんの僅かに。

 しかしそれで十分だった。

 均衡が崩れる。

 身体が傾く。

 一瞬だけ感覚が飛んだ。

 そして――落下。

 強烈な悪寒が全身を貫く。

 野営の夜を思い出すような寒気。

 だが、それも長くは続かなかった。

 背中が何かへ激突する。

 小さな塔の屋根だった。

 リアムは転がる。

 滑り落ちる。

 剣を突き立てようとした。

 だが青い木材へ刃は食い込まない。

 そのまま落下。

 再び激突。

 今度は石だった。

 正確には、古い漆喰で固められた城壁だった。

 矢が飛ぶ音。

 金属がぶつかる音。

 それらが絶えず耳へ届く。

 ここで倒れたままなら死ぬ。

 アエルフレドもそれを理解していた。

 近づくべきか。

 命令通り離れているべきか。

 迷っている。

 しかし、その膠着は一瞬で破られた。

 蛮族が現れる。

 大斧を振り下ろした。

 リアムの頭蓋を真っ二つにする一撃。

 ――のはずだった。

 だが。

 その瞬間。

 リアムの剣が男の首を貫く。

 血飛沫。

 蛮族の身体が崩れ落ちる。

 あと一瞬遅ければ終わっていた。

 リアムだけではない。

 ベアトリスも。

 アエルフレドも。

 全てが終わっていた。

 死体を押し退けながら、リアムは立ち上がる。

「くそ。」

 肩を回す。

「せっかく橋の根元まで来てたのに。」

 傷の有無を確かめる。

 だが休む暇はなかった。

 再び矢の雨が降り注ぐ。

 今度は水道橋の縁へ陣取った射手たちからだった。


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