第14話 西の大遺跡・第六部
志を抱く者に、恐れは支配できない。
眠りに落ちるとき、安らぎは涙する。
静寂の夜に、運命は姿を現す。
蒼き天を仰ぐその先に、必ず誰かの眼差しがある。
病がベアトリスのか弱い身体を蝕み始めてから、すでに数か月が過ぎていた。
もともと軽かった少女の身体は、今では見る影もない。
筋肉は日に日に痩せ細り、肉を覆っていた脂肪もほとんど失われていた。
どれほど食べようとも、その身体は食物のほとんどを受けつけない。
アルベルトは手に入る限りの薬を調合し続けていた。
しかし彼にできることは、症状を遅らせ、ケシの乳液から作った鎮痛薬で痛みを和らげることだけだった。
それも一時しのぎに過ぎない。
高山に咲くその花の効き目は、死期が近づいた患者には、もはやほとんど意味をなさない。
《スカーラの災疫》は、およそ二千年前から知られている病だった。
《星湖学院》の歴代最高の学者たちでさえ、その治療法を見つけ出すことはできなかった。
少なくとも、歴史に名を残した者たちの中には。
「治癒した」と記録された例は、全歴史の中でわずか三件。
だが、そのどれも特別な治療が施された形跡はなく、症状への対処が行われていただけだった。
薬草や木の根が効いている間だけは楽になる。
だが薬効が切れれば、皮膚は焼けつくような痒みと痛みに襲われる。
少しでも楽になろうと掻きむしり続けた結果、ベアトリスの身体には皮膚が剥がれ落ち、生肉が露出した箇所までできてしまっていた。
アルベルトはそれ以上傷つけないよう、彼女の両手を包帯で固定する。
普段、入浴を手伝っていたのはリザだった。
赤い髪の少女は、妹同然に思っていたベアトリスが日に日に衰えていく姿を、誰より近くで見続けていた。
決まった時間になると、庭の花々の前で一人静かに涙を流す彼女の姿を目にした者も少なくない。
ある日の入浴中。
リザは恐怖で息を呑んだ。
いつもは透明な湯が、その日は赤く染まっていた。
傷は増え続け、肉は不自然なほど黒ずみ始める。
アルベルトにとって、それは予想していた変化だった。
呪わしい病は、中期へ移行すると組織が血液を受け取っていても腐敗を始める。
そしてもう一つの兆候も現れた。
小指の先端が黒く変色し始めたのである。
そこまで進めば、もはや治療を一刻たりとも先延ばしにはできない。
普段のリアムは、老鍛冶師の助手として働いて金を稼いでいた。
鍛えた武具を買い取ってもらう代わりに、剣術を教わる日々。
しかし今は事情が違う。
午後から夜にかけては、マリアの狩りを手伝い、少しでも家計を支えていた。
その日、帰宅した彼を迎えたのは、沈痛な面持ちのエリザベスだった。
居間ではアルベルトとヴァイオレットがソファへ腰掛けている。
紫髪の少女は凄まじい速さで本を読み進め、一節ごとに声へ出して読み上げていた。
嫌な予感が走る。
荷物を放り出し、リアムは全力で妹の部屋へ駆け込んだ。
そこにいたベアトリスの姿は――。
まるで母と同じだった。
全身を幾重もの包帯が覆い、その包帯は絶えず交換し続けなければならない。
そうしなければ、病状はさらに悪化する。
誰も部屋へ入ろうとはしなかった。
家族であろうとも、その場で最も彼女の傍にいるべき人間は、リアムしかいなかったからだ。
リアムはその場へ膝をついた。
傷ついた妹の手を、壊れ物を扱うようにそっと握る。
涙が止まらない。
嗚咽も、叫びも止まらない。
階下ではリザも同じように泣き崩れ、姉に抱き締められていた。
あのヴァイオレットですら、本をめくる指が震えている。
ベアトリスはケシの種子から抽出した、最も強力な麻酔薬の作用で深い眠りについていた。
明日の昼頃まで、愛する者たちの声さえ届くことはない。
リアムはそっと妹の首へ手を添える。
これ以上苦しませたくない。
母と同じように衰えていく姿を見るだけで胸が裂けそうだった。
何もできないまま、その苦痛だけを長引かせている。
そんな自分が、心の底から憎かった。
やがて彼は重い足取りで階段を下りる。
妹へ伸ばしかけた手を、もう片方の手で強く押さえ込んでいた。
苦しみのない終わり。
母の待つ場所へ送り届ける終わり。
――それでも。
彼には、それだけはできなかった。
「見つけた!!」
ヴァイオレットが勢いよく立ち上がる。
「ついに見つけたわ、この忌々しい詩を!」
「リアム。」
仮面越しにアルベルトが静かに呼ぶ。
「……まだ方法が残っているかもしれない。ただ――」
「聞かせてください!」
リアムは身を乗り出す。
「妹を助ける方法なんですね!?」
久しく誰も見ていなかった希望が、その瞳には宿っていた。
姉妹たちも息を呑んで耳を傾ける。
「成功する保証はない。」
アルベルトは首を横へ振った。
「いや……存在することすら証明できない。」
「お願いします、ヴァイオレット。」
「どんなに小さな可能性でも構いません。」
「教えてください。」
「《星湖学院》の創設者の話は知ってる?」
アルベルトが問いかける。
「内海で最初にできた、あの大学院?」
マリアは姉の肩へ上着を掛けながら答える。
「そう。」
ヴァイオレットが続けた。
「彼の名はナフトゥール。
若い頃と晩年の初めまでは天才として名を馳せたけれど、塔から追放された後は消息不明。
世間では、狂人としてしか語られなくなった。」
「その老人が消えた話と、ベアトリスに何の関係が?」
リアムの問いへ、アルベルトが静かに答える。
「私は師に命じられて学院へ留学していた頃、歴史家の間でしか語られない話をいくつも聞いた。
その一つが、この植民地の図書館誕生の伝承によく似ていてね。」
「老人は私蔵書と完全な蔵書を一隻の船へ積み込み、そのまま旅立ったと言われている。」
「私たちの図書館も、昔、本を満載した船が浜へ流れ着いたことから始まったのよ。」
エリザベスが続ける。
「何世紀も後に入植者が見つけた時、本だけは不思議なくらい無傷だった。
船の残骸は最初の家と図書館の土台になったの。」
「ええ。」
ヴァイオレットは頷く。
「アルベルトからその話を聞いて、私はもう一つの噂を調べ始めたの。」
彼女はアルベルトへ視線を向ける。
医師は何も言わない。
ただ静かに彼女を見つめ返していた。
「もう一つの噂では……
彼は最後の著作として、あらゆる疫病の治療法を書き記した巨大な書物を残したと言われている。」
「……待って。」
リアムは二人を見比べる。
「つまり、その本が――」
ヴァイオレットは答えず、一枚の古びた紙を差し出した。
詩の余白には、別の筆跡でこう記されていた。
『我は万病を導く師を、文字の中へ隠そう。
この魔術を手にする術は、誰にも与えない。
初めから書かなければよかったのだろう。
それでも、我が最高傑作だけは捨てられなかった。
なんと身勝手なことか。
だが、そのような選択と報いによって、我が魂は幾十年も前から穢れている。』
銀の文字は指先より流れ落ち
積み重ねた罪を静かに責め立てる
夕暮れは名もなき根の下で熱を宿し
花弁の間には鳥たちが風と共に眠る
二人はついに巨木の最上部へ辿り着いた。
先ほどまで苦痛しか運ばなかった風は、今では穏やかな慰めとなって吹き抜けていく。
裂け始めたカーテンを花嫁のヴェールのように揺らし、リアムの話を聞き終えたアエルフレドの涙を静かに乾かしていた。
そこは一室だった。
多少散らかってはいるものの、家具の保存状態は驚くほど良い。
薄く積もった埃だけが、沖へ広がる波のように揺れ、あるいは嵐を前にした雲のように静かに舞っていた。
壁際には閉じられた書見台。
その両脇には巨大な木製の戸棚が二つ。
使われている木材は赤熱した炭のような深紅を帯び、一つだけでも農民の一年分の収入を超える価値があると言われる代物だった。
貴族が宝石箱に用いるという伝説は聞いたことがあった。
それほど巨大な家具が二つも並んでいる光景は圧巻だった。
寝台の下には何かの輪郭が見える。
リアムには見覚えのある形だった。
興味津々のアエルフレドが近寄ろうとする。
「……やめておいた方がいい。」
「どうして?
何かが隠れていて襲ってくるかもしれないよ?」
言い訳らしい言い訳だった。
単なる好奇心であることは明らかだ。
「亡くなった人は、何よりも静かな眠りを望むって聞いた。」
その一言だけで十分だった。
アエルフレドは小さく頷き、素直に手を引っ込める。
好んで遺骨へ触れたい者など、多くはない。
書見台は左右へ開く二枚扉で閉じられていた。
表には一組の男女が描かれている。
だが扉を開くと、二人の表情は悲しみに変わる。
奇妙な細工だった。
もっと眺めていたくなる。
しかし今は、その余裕はない。
リアムの前には、一冊の古びた本が置かれていた。
革張りの表紙。
最上級の羊皮紙。
題名は記されていない。
そこには、終わりも始まりもない鎖が一本の硝子瓶を取り囲み、その中では淡い髪と白い衣の乙女が槍とも杖ともつかぬものを抱いている。
瓶の口には白い鳩がとまり、嘴には純白の百合が咥えられていた。
「……見つけた。」
リアムの声は震えていた。
涙が頬を伝う。
「ヴァイオレットの言った通りだった。
……やっと見つけた。」




