第13話: 西の大遺跡 (第五部)
先ほどまで、リアムの身体は氷のような風に打たれ、骨の髄まで冷え切っていた。
だが、それはもう問題ではなかった。
今度は足先から長くほどけた髪の一本一本に至るまで、穏やかな温もりが全身を包み込んでいる。
短い一本結びを留めていた紐も、今では水中を漂い、リアム自身と同じ流れに身を任せていた。
何が起きたのか理解できないまま、彼はただ流されていく。
『……水?
あれほど寒かったのに、どうしてこんなにも温かい水の中にいるんだ?』
疑問が浮かんでは消えていく。
だが、そんな思考も長くは続かなかった。
肺が悲鳴を上げ始めたのだ。
息を止めたまま、リアムは必死に水面を目指して泳ぎ始める。
技術も何もない。
ただ本能だけで腕を振り回し、足をばたつかせ、水を力任せに押し下げる。
そして――。
ようやく水面へ顔を出した。
「――はぁっ!」
まるで人生で初めて息を吸ったかのように、大きく肺へ空気を送り込む。
呼吸できるというだけで、これほど幸福を感じたことはなかった。
あの巨人を倒した瞬間でさえ、今ほどではない。
しかし視界は悪い。
辺り一帯は濃い湯気に覆われていた。
立ち昇った白い蒸気は高架水路の外へ流れ落ち、その下に広がる霧深い奈落へ吸い込まれていく。
まるで霧でできた巨大な滝だ。
その白は夜空の青を映し、遠くに連なる《青峰山脈》と同じ蒼い輝きを放ちながら周囲を照らしていた。
「リアーム!!」
アエルフレドの叫び声が響く。
彼女は水路に沿って飛びながら、霧の切れ間から必死に友人の姿を探していた。
「どこ!?
リアム!」
「無事だ!
でも何も見えない!
この川、どこへ流れてるんだ!?」
「そっちは――」
そこで小さな妖精は言葉を失う。
夜の帳と白い蒸気の柱の向こう。
そこには巨大な樹冠がそびえ立っていた。
薄闇の中でもなお圧倒的な存在感を放ち、その枝葉は天を目指して伸びている。
まるで伝説の王子を夢見る若き乙女のように。
「アエルフレド!」
「よく見えないけど……
煙の向こうに大きな木がある!」
『煙?
……水路が開ける場所か。
何かにつかまらないと。でも、何に?』
リアムは必死に手を伸ばす。
だが掴めるのは、滑らかに磨かれた石だけだった。
そこでようやく理解する。
ここは普通の川ではない。
両岸は高く積まれ、人の手によって築かれた構造物になっている。
もっとも、彼の知るどんな建築様式とも異なるものだった。
『流れが速くなってる……
この先は崖――』
ところが。
予想とは裏腹に、あっけない結末が待っていた。
流れに身を任せたまま漂っていると、そのまま身体は浅瀬へ押し流され、静かに岸へと打ち上げられたのである。
リアムは仰向けのまま星空を見上げる。
雲の隙間に瞬く星々。
そして荒々しく揺れる巨大な樹冠。
無数の桃色の花弁が夜風に舞い、辺り一面へ散っていく。
その光景をぼんやり眺めていると――。
ゴッ。
「いてっ!」
頭に強烈な蹴りが飛んできた。
「それ必要だった?」
「もちろん!」
アエルフレドは頬を膨らませる。
「こっちは必死で名前を呼んでたのに、あなたは聞こえないみたいに寝転がってるんだから!」
実際、リアムはまったく気づいていなかった。
「それより、その剣はちゃんと体に結んでおいたほうがいいよ。」
妖精が横を指差す。
「本物の滝や川だったら、とっくに流されてた。」
視線を向けると、新しい大剣が自分の身体と同じように、小さな波へ揺られていた。
「……確かに。」
リアムは苦笑する。
「それにしても、城から水路が流れ出てるなんて初めて見た。」
立ち上がると服を固く絞る。
この程度なら、そのうち乾くだろう。
濡れたまま風を受け続ければ身体が冷える。
幸い、この辺りは城内ほど寒くない。
それでも時折吹く風は十分に冷たかった。
「水が温かくて助かったよ。
もし氷みたいに冷たかったら、今ごろ死んでた。」
水路の流れは常識とは逆だった。
本来なら山から町へ清らかな水を運ぶためのもの。
だが、この水路は館を支える巨大な岩盤の内部から湧き出している。
そして終着点は、二人が立つこの小さな湖だった。
湖畔には一本の大樹がそびえている。
高さは先ほど見た塔にも匹敵する。
周囲を囲む岩壁は、おそらくリアムが命懸けで渡った断崖の一部なのだろう。
「だから城の中はあんなに暖かかったのかな?」
アエルフレドが尋ねる。
「多分な。」
リアムは頷く。
「薪や石炭を毎日運んで、冬のために山ほど備蓄するより、ずっと効率がいい。」
「こんな場所、一体誰が造ったんだろう。」
「さあな。」
リアムは肩をすくめた。
「俺が知ってることなんて、全部ひとつの古い詩から知っただけだ。」
「つまり……
その詩だけを頼りに何日も山や森を旅してきたの?」
アエルフレドは本気で呆れた顔をした。
目の前の少年を、夢想家か、あるいは救いようのない変人として見始めている。
「そういうことになるな。」
リアムは真面目なままだった。
どれほど馬鹿げて聞こえようと、その考えを笑う気はない。
少なくとも妹のベアトリスも、決して笑わなかった。
まだ幼かったからなのかもしれない。
リアムは十四歳になっていた。
だが、自分がベアトリスほど純粋に何かを信じられた頃を、もう思い出せない。
人は愛する者が死へ向かって苦しむ姿を見続ければ、必ず一つの岐路へ立たされるという。
伝説や神話に縋り、そこへ救いを求めるか。
それとも、その苦しみに穏やかな終わりを与えるか。
リアムは振り返る。
土埃の匂いが漂ってくる方向。
巨大な樹の幹がある方角だった。
そして、その木は単なる巨木ではなかった。
幹には一枚の扉が設けられ、その中央には色鮮やかなステンドグラスが嵌め込まれている。
小さな光が幾何学模様の上を踊り、夜空の星だけでなく、遠くの岩肌や蛮族たちの灯火までも映し出していた。
「行こう。」
リアムが言う。
返事はなかった。
アエルフレドは静かに頷くだけだった。
扉が開く。
その瞬間、小さな光の粒が一斉に淡い輝きを放ち始めた。
石段が照らされる。
木の内部へ築かれた階段は、樹皮の内側へ積まれた煉瓦によって支えられていた。
空間全体を淡い青が満たしている。
上へ登るほど、その青は少しずつ明るさを増していった。
濡れた靴音。
そして妖精の羽ばたき。
二つの音は重なり合い、慣れない者には一つの旋律にも聞こえる。
だが、リアムにとっては決して音楽ではなかった。
人は過去の出来事を完全な形で思い出すことはできない。
必ずどこかが欠け、あるいは順序が曖昧になる。
それでも――。
ある記憶だけは、鮮明なまま残り続ける。
根に宿り、梢に宿る。
流れは決して断たれない。
痛みも、罪も越えて。
その清らかさは、決して失われない。
あれは春の夜だった。
前の季節を彩っていた雪は雨へ変わっていた。
もっとも、その降り方は雪とよく似ている。
細かな雨粒は静かな霧雨となり、街灯の灯りに照らされて風の流れを白く浮かび上がらせていた。
だが、植民地の孤児四人が暮らす古い屋敷だけは様子がおかしかった。
二階から響くのは、小さく押し殺された雷鳴のような音。
その合間には、枕や藁布団へ押し込められたような苦しげな呻き声が混じっていた。
最初に目を覚ましたのはリアムとエリザベスだった。
誰かが屋敷へ侵入したのだと思い、二人は慎重に部屋を出る。
リアムは先頭を歩き、いつも寝床の下へ隠していた棍棒を握っていた。
もっとも、それは必要なかった。
仮に侵入者がいたとしても、階段下ではマリアが寝間着姿のまま弓を構え、矢をつがえて待ち構えていたからだ。
再び物音が響く。
今度は一階ではない。
リアムたちの部屋のすぐ隣だった。
そこでは、小さなベアトリスが泣き叫びながら暴れていた。
足を何度も寝台へ打ちつけ、全身を狂ったように掻きむしっている。
肌は真っ赤だった。
だが、ただ赤いだけではない。
まるで赤みが毛穴へ染み込み、皮膚と筋肉の間から滲み出ているかのような異様な色だった。
「マリア!」
リアムは叫ぶ。




