第12話: 西の大遺跡(第四部)
二人の前には、灰色に染まり冷え切った廊下がなおも続いていた。他と変わらぬ造りではあるが、こちらのほうが幾分明るい。
汚れた煉瓦が延々と連なるその先には、再び重武装の兵たちが通路を固めていた。鋼の槍は穂先だけで前腕ほどの長さがあり、密に編まれた鎖帷子の上には、厚い布へ縫い付けられた革板が幾重にも重ねられ、それは膝まで覆っている。
五人が何を話していたのかは聞き取れなかった。
だが彼らが向こう側へ渡った直後、耳慣れた音だけははっきりと響く。
――ガチャリ。
錠が閉ざされたのだ。
これで二人の進める道は二つだけとなった。
右手には板で打ち付けられた窓が並び、左手は一変して広い回廊となり、下の階からは無数の話し声や喧騒が絶え間なく響いてきていた。
長く擦り切れた絨毯を境に、二つの集団が向かい合っている。
その中央では、それぞれを代表する二人の男が言葉を交わしていた。
片方はリアムにも見覚えがある。
以前、『民の言葉』で話しかけてきたあの蛮族だった。
もう一人の男だけは、依然として正体の知れぬ存在である。
「……あいつは」
「知り合いなの?」とアエルフレドが尋ねる。
「知らないままでいたかったよ。ここへ来たときに決闘してな。その直後、あの化け物を俺にけしかけた張本人だ」
「じゃあ、おかしなものを見たのは私だけじゃなかったんだね」
リアムはしばらく彼女を見つめた。
――君自身が十分『おかしな存在』なんだけどな。
妖精以外なら、誰だってそう思うだろう。
「ずいぶん険悪な空気だね」
アエルフレドの言葉は正しかった。
両陣営は少しずつ熱を帯び、今にも爆発しそうなほど殺気立っていく。
誰一人として武器を手放していないことも、その緊張をさらに煽っていた。
扉や窓を守る衛兵たちは、止めに入る気配すらない。
「このままだと、今夜は血の海になりそうだな」
二人の頭に、まったく同じ考えが浮かぶ。
『……なんで俺(私)が少し責任ある気がするんだろう』
「もしかして、あの巨大な化け物を倒したせい?」
「いや、多分……俺が塔の一つを燃やしたせいだ」
「じゃあ、お互い様ってことで。誰のせいでもない、いい?」
「……いい」
二人は無表情のまま固く握手を交わした。
目も、眉も、口元も、妙に満足げでありながら感情の読めない表情を浮かべている。
互いの顔を見ることすらせず、ただ揉め事の始まりを眺め続けるその姿は、図太いにも程があった。
怒号と罵声が響く中、蛮族たちは斧や剣、槍を掲げる。
本来なら話し合いをするはずの代表者たちですら、あと一歩で武器を抜きそうな緊張に包まれていた。
しかしその瞬間。
――ゴォンッ。
重々しい音とともに巨大な扉が開き、場の空気が一変する。
姿を現したのは四人の女。
彼女たちは肩に担いだ二本の長い棒で、一つの『台』を運んでいた。
全員が純白の長衣をまとい、その裾は床を引きずって黒く汚れている。
髪は一本たりとも見えず、顔もまた、衣と同じ素材の薄い白布で覆われていた。
運ばれている木箱の縁からは、粘り気のある赤黒い液体が溢れ落ち、その跡が二つの集団を隔てる見えない境界線をさらに濃く染め上げていく。
腐りかけた板で組まれた粗末な箱の周囲には、無数の蝿が飛び回っていた。
誰も口を開かなかった。
そこにいる全員が、その女たちの意味を知っていたからだ。
彼女たちは静かに壇上へ歩み寄ると、石の台の上へ荷を降ろした。
一言も発さぬまま、四人はゆっくりと頭を垂れる。
そして、決して木箱へ背を向けることなく、寸分違わぬ動きで来た道を戻っていった。
まるで地を歩いているのではなく、空気の上を滑っているかのようだった。
やがて謎の指導者が祭壇へと歩み出る。
穏やかな口調。
だが、その声音には相手を見下すような嘲りが滲んでいた。
裸足であることに、リアムはようやく気づく。
演説が進むにつれ、蛮族の男の背後にいた集団は次第に追い詰められていった。
そして――決定打。
悪臭を放つ箱の蓋が取り払われる。
そこに収められていたのは、一つの生首だった。
斬られた以外の傷は見当たらない。
筋肉は異様なまでに膨れ上がり、両目は中央へ押し寄せている。
軟骨という軟骨は潰れ、鼻先だけが辛うじて突き出していた。
頭蓋骨と呼んでよいのかさえ怪しいその頭部は、無数の瘤と歪みに覆われ、まるで山脈そのもののようだった。
「わぁ……すごく大きな頭……。こんなのなら体はもっと大きかったんじゃない? こんな人、見たことある?」
「……前に話しただろ。巨大な化け物と戦ったって」
「あっ……なるほど」
アエルフレドは数秒固まる。
「……え?」
「じゃあ、それを倒したの!?
しかも首まで斬り落としたの!?」
小さな妖精は今にも叫び出しそうだった。
「でも、それなのにどうして捕まったの!?」
「静かに。聞こえるって」
リアムは慌てて声を潜める。
「首を落としたのは俺じゃない。最後の一撃は……たしか腹だったと思う」
「思う?」
「息が続かなくてな。酸欠のまま戦ってたから……終わった途端、そのまま気を失――」
――ドォォン!!
凄まじい衝撃音が二人の会話を断ち切った。
ついに始まったのだ。
リアムの知るあの蛮族が、討論相手の喉を槍で貫いたらしい。
鮮血は犯人だけでなく、その周囲までも真っ赤に染め上げる。
両陣営は一斉にぶつかり合った。
命令も、号令もない。
百人を超える男たちが、それぞれ勝手に敵へ飛びかかり、あちこちで小さな決闘が同時に始まる。
中には昔からの因縁でも晴らすような者までいた。
その激しさは凄惨の一言だった。
それでも衛兵たちは動かない。
止めることもなく、ただ石像のように立ち尽くしている。
さきほど封鎖された扉の向こうからは、今度は激しい衝撃音が響き始めた。
どうやら即席の破城槌で扉を破ろうとしているらしい。
あの場所を押さえた側が絶対的な優位を得る。
弓兵が十人もいれば、戦局など簡単に覆せる。
そんな考えが、リアムの脳裏を次々とよぎっていく。
鍛冶屋に弟子入りした理由は、老人が名高い戦士だという噂を聞いたからだった。
なのに師匠は剣術より先に戦術ばかり教えた。
ほとんど聞き流していたはずなのに、不思議と体は覚えている。
「リアム!!
廊下!!」
アエルフレドが金色の髪を引っ張りながら叫ぶ。
叫ぶだけの理由があった。
彼らが来た廊下の奥から、小さな灯りが近づいてくる。
まだ遠い。
だが確実にこちらへ向かっていた。
「なんて場所だ……!
少しくらい休ませてくれないのか!」
反射的に青白い大剣を鞘から抜く。
狭すぎる通路では振り回せない。
だが槍のように突き出すことならできる。
「そうだ!
あの板、壊せる?」
アエルフレドは窓を指差した。
「この先の窓の外には足場がある!
そこへ隠れよう!」
リアムは考える暇もなく、全力で板を叩き始めた。
木片やささくれが飛び散る。
しかし壊し切れない。
衛兵たちはもうすぐそこまで迫っていた。
石床を打つ軍靴の音が、はっきり聞こえる。
「離れて!」
アエルフレドへ叫ぶと、リアムは大きく踏み込み、剣を振り下ろす。
――ズガァン!!
縦一閃。
板だけではない。
窓枠もガラスも、一撃で粉々に砕け散った。
「早く!」
二人は身を縮めながら外の足場へ滑り込む。
誰も下を見ようとはしなかった。
そんな余裕などない。
氷の針のような風が全身へ叩きつけられる。
まるで大波が岩礁へ激突するような勢いだった。
このまま留まれば、指先はすぐ黒く変色してしまうだろう。
建物の中の喧騒は、もう何も聞こえない。
耳に届くのは、二人の間を蛇のように吹き抜ける暴風の唸りだけ。
そして、その耳障りな風音がさらに強くなった瞬間。
リアムの足元から、支えていた足場が消えた。
息が止まる。
足の下には、もう何もない。
星空を背に、必死に手を伸ばすアエルフレドの姿だけが遠ざかっていく。
その光景は、美しいと言えば、美しかった。
だが同時に、あまりにも恐ろしく、そして悲しかった。
落下するリアムの脳裏には、これまで歩んできた人生が次々と浮かび上がる。
死の間際には人生が走馬灯のように巡るという。
……あるいは、死へ向かって落ちている最中にも。




