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ヒュール  作者: グラム
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第11話: 西の大遺跡 (第三部)

夜の冷たい風が割れた窓硝子から吹き込み、鎖をかすかに揺らしていた。

闇を辛うじて押し返しているのは、金属皿に置かれた一本の油染みた縄芯だけ。その頼りない炎は、木製の格子が作る影を牢の壁へ長く映し出していた。

牢番を務めているらしい老人の豪快ないびきは、誰であろうと眠れなくなるほど騒々しい。

まして、今まさに意識を取り戻したばかりのリアムにとってはなおさらだった。

両腕は頭上へ吊り上げられ、金属の輪に革紐と鎖で固く拘束されている。

(頭が……。)

(馬じゃなくて、ロバに思い切り蹴られた方がまだましだったかもしれない……。)

辺りを見回し、拘束を解こうともがく。

しかし当然ながら、びくともしない。

いくらリアムが力自慢でも、厚い革紐を引き千切ることも、鎖を素手で壊すこともできるはずがなかった。

彼の剣は、眠りこける老人の傍らに、再び鞘へ納められたまま置かれていた。

「――さて、どうやってここから出るつもり?」

不意に、女性の声がした。

「さっぱり分からない。せめて剣か、この忌々しい革を切れるものでもあればな。」

「じゃあ、ガラスの破片ならどう?」

「使えなくはない。でも下手をすれば指を一本失うかも――」

そこまで言って、リアムはようやく右を向いた。

どこか聞き覚えのある、不思議な声の主を探して。

そこには、長い旅の道中を共にした小さなエルフがいた。

アエルフレド。

赤い外套を身にまとい、腰の帯には小さな袋が結ばれている。

「……アエルフレド。」

「こんにちは、リアム。今回は助けられるのは、あなたの方みたいね。」

「……見た目ほど悪い状況じゃないさ。」

「ふぅん? なら私は帰るね。」

そう言うと、彼女は夜空へ向かって飛び立とうとする。

「待って、待てって!」

その騒ぎで老人が身じろぎし、喉に痰でも絡んだような唸り声を漏らした。

――いや、もしかすると寝言で何かを喋っているのかもしれない。

リアムとアエルフレドは互いの顔を見合わせる。

乾いた笑みを浮かべながら。

吐く息が白くなるほど寒いというのに、二人とも額には汗が滲んでいた。

「……あのガラス、割れそう?」

リアムは声を潜め、窓枠に残った鋭い破片を見つめながら尋ねた。

アエルフレドは厚みを見て、小さく首を振る。

「無理ね。全力で体当たりしても、多分割れない。」

彼女の身体ほどもある厚さだった。

アエルフレドは辺りを見回す。

牢番が短剣でも持っていれば――と思ったが、彼女には重すぎて運べない。

「……ん?」

足元を見つめる。

「何か見つけた?」

「たぶん。でも埃まみれ。」

「まさか、埃が嫌だから触りたくないとか言わないよな? 温泉を見つけた時なんて、お前、何時間も湯に浸かってただろ。」

その一言で、アエルフレドの頬が真っ赤になった。

「思い出させないで!」

「だって、お前を覗こうとしたわけじゃ――」

「覗いたじゃない!」

「寝ちゃってるんじゃないかって心配しただけだ。それに、そんなに恥ずかしがること――服を着てる姿を見るのだって初めてだったし。」

「置いていこうか?」

「……やめてください。」

「じゃあ認めて。若い娘がお風呂に入ってるところを、いやらしい目で覗いたって。」

「…………。」

「ほら。」

「……はい。覗きました。」

「うん、よろしい。」

満足そうに微笑むと、アエルフレドは拘束されたリアムの手首まで飛ぶ。

床で見つけた小さな硝子片を使い、革紐を少しずつ切り始めた。

________________________________________

不思議なことに、牢の扉には鍵が掛かっていなかった。

まさか逃げられるとは思っていなかったのだろう。

見張りも常に一人付いていた。

再びリアムの手へ戻った剣は、薄暗い中ですら驚くほど美しく光を反射していた。

まるで夜闇の中でも鏡になるかのように。

「新しい剣?」

アエルフレドが尋ねる。

「ああ。これがなかったら、俺はもう死んでた。」

「その蛮族から奪ったの?」

「いや。」

「空から降ってきた。」

「……え?」

「――アルベ・リン・セト!」

突然、牢番が怒鳴り声を上げた。

二人は飛び上がるほど驚く。

反射的にリアムは青緑色の鉄拳を老人の顎へ叩き込み、そのまま再び眠らせてしまった。

「……急いだ方がよさそうね。」

アエルフレドが呟いた。

________________________________________

二人は明かりを持たずに歩き始めた。

窓から差し込む月明かりと、消えかけた松明の残り火だけを頼りに。

《西の大遺跡》は、ヴァイオレットが本で語っていた姿とはまるで違っていた。

彼女の本では、崩れた煉瓦と塔だけが残り、草木に呑まれた廃墟。

瓦礫の下に古代の秘密が眠る場所。

そう書かれていた。

しかし現実は違う。

そこにあったのは城だった。

部屋数こそ多くないものの、一つ一つが異様なほど巨大だった。

埃と蜘蛛の巣に覆われた廊下。

高い天井。

広い階段。

用途ごとに分かれた大広間。

重く黒い扉。

蝋燭を失った豪奢なシャンデリアが夜風で揺れ、無数の水晶飾りがぶつかり合う。

リアムの足音と、隙間風の唸り声が混ざり、一つの静かな旋律を奏でていた。

「もう嫌。こんなに歩き回っても出口なんて見つからないじゃない。」

アエルフレドは部屋のソファへ腰掛ける。

その瞬間、埃が舞い上がった。

「げほっ、ごほっ!」

「疲れたって、お前ずっと俺の頭の上に座ってただろ。」

リアムは開いた窓から中庭を見下ろしていた。

昼間の戦い。

そして、あの蛮族たちはどこから現れたのか。

西方への開拓は、一度として成功したことがない。

最後の開拓隊には、マリアとエリザベートの両親も参加していた。

誰一人帰らなかった。

その知らせを聞いた祖母は、ほどなくして息を引き取った。

ちょうどその頃から、リアムとベアトリスは二人と暮らし始めたのだ。

「疲れるものは疲れるの。」

アエルフレドが頬を膨らませる。

「人間だって、あの速く走る動物に乗ったら疲れるでしょ?」

「馬か?」

「たぶん。それ。」

「見たことないのか?」

「うん。一度も。」

「意外だな。エルフって、安全な土地を探して旅ばかりしてるんじゃないのか。」

その瞬間。

アエルフレドの表情が曇った。

リアムはすぐに自分の失言へ気付く。

(……しばらく、この話はやめておこう。)

(考えれば分かることだった。)

「……その赤い外套、似合ってるよ。」

リアムは壁へ背を預けながら微笑む。

「疲れてるなら、少し休もう。」

「……家族に会えたの。」

「無理に話さなくていい。」

「この場所の一番高い塔で、みんな何かに食べられた。」

彼女は外套を握る。

「これは、おじいちゃんが着ていたもの。」

「おじいちゃんだけが生き残って、私に知らせてくれた。」

「最後は、自分を犠牲にして炎であの怪物を倒した。」

「……悪かった。」

「聞くべきじゃなかった。」

アエルフレドは静かに首を振る。

「ううん。」

「誰かに話したかっただけ。」

「少しだけでも。」

リアムはしばらく黙り、やがて口を開いた。

「俺は探してるものを見つけたら村へ帰る。」

「妹を助けるために。」

「……一緒に来るか?」

「……」

アエルフレドは涙で潤んだ瞳を向けた。

希望を宿した、小さな笑顔だった。

その時――

「レクシュター・トゥル・ジト、ダーゲルン・ベファ!」

廊下の奥から声が響いた。

松明の明かりが近づいてくる。

リアムとアエルフレドは慌てて家具とカーテンの陰へ身を隠した。

やがて三人の蛮族が通り過ぎる。

彼らは部屋の階段を上がり、一番奥にある鍵付きの扉を開けた。

一人が腰から下げた鍵束には、百本近い鍵がぶら下がっている。

この城のほぼ全てを開けられるのだろう。

「……ついて行く?」

アエルフレドが囁く。

「他に道はない。」

リアムは静かに答えた。

「あの扉しか先へ進めそうな場所がない。」

「むしろ休憩していて助かった。」

「さっき進んでいたら、鍵の掛かった扉の前で立ち往生していた。」

「……本当に前向きね。」

アエルフレドは苦笑した。

「どんな状況でも、良いところを見つけるんだから。」

リアムも苦笑しながら頷く。

「そういうことは、昔からよく言われる。」

「……よし。」

「十分距離も空いた。」

「今なら、少しは安全に追えるはずだ。」


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