穏やかな時
遅くなりました
「朝木さま、ただいま戻りました」
ある屋敷の廊下で、例の人影の声がした。すると、襖の奥から男の声がする。
「入れ」
「失礼いたします」
人影は頭に着けていた布を取りながら襖に手をかける。布の下から出てきたのは、真っ黒な長い髪と、美しく気高く整った女の顔だった。しかも、まだそのなかにあどけない面影がある。
静かに開けられた襖の向こうには、端正な顔立ちのまだ若い男が座っていた。どこか年齢不詳な雰囲気があるのは、落ち着いた表情と動きのせいだろうか。
「朝木さま、本日の“もの”でございます」
「ああ。ありがとう。空」
空、と呼ばれた彼女は、小さな長方形の板のようなものを朝木に手渡す。
「ありがとう」
そう言ってそれを受け取り、床下の隠しにしまう朝木を見て、空は言った。
「よろしかったのですか。それは、蒼士殿のご友人宅にありましたが」
心配気に問いかける空に、朝木は小さく苦笑いを浮かべて答えた。
「国と国の友好関係は、個人の友情でも家臣の安穏でもない。それに、蒼士殿ご自身が構わないとおっしゃっていたんだ。俺たちは、それをあるべき場所に戻すだけだ」
「はい」
空が返事をすると、朝木は、これでいいだろう、と言うように姿勢を崩した。空も膝を立てるのをやめ、床に座る。
「にしても、ずいぶん簡単に名前が割れたじゃないか、空人」
僅かにからかうような色も見える朝木の言葉に、少し憮然とした様子で空――いや、空人は答える。
「朝木さまの名付けが適当だからです。名前が割れたのではなく、名付けた名前が偶然一致してしまったんです」
そう、少し華奢すぎる印象もある彼女こそが西之辺の国々を騒がせている空人なのである。女の名前ながら止め字が“人”なのはただの慣習である。
彼女は、いわゆる忍という人々に近い存在で、違うのは、特定の主人のもとで動いているということだ。
朝木は空人の抗議にクスクスと笑って答える。
「全く、空人は冗談が通じないな」
「構いません。それより、呼ぶときは空で結構です」
空人、いや、本人たっての希望なので空と呼ぼう。空がそう抗議すると、朝木は笑って頷いた。
「わかったわかった、空。そうだ、食事は……」
「まだです」
朝木の気遣いに端的に答える空。朝木は腰を上げて言う。
「ちょうどいい、俺もまだなんだ。何か作ろう」
空は小さく目礼する。空は料理があまり得意ではない。空は、台所に立つ朝木の背後で、折りたたまれた低い机を広げ、座布団を二つ並べた。
そして、朝木を手伝い始める。仲良くならんだ二人の姿は、主従関係というよりむしろ、家族のような絆が感じられた。
とても穏やかなひと時だった。




