ひとつめの事件
真っ暗な部屋の中、そこを包む闇よりもさらに暗い何かが動いた。
スムーズなその動きは、部屋を縦横無尽に動き回り、動きを止めた。そして、そこでごそごそと何かをしたあと、窓を開ける。
今日は月もなく、かすかな星の明かりが浮かび上がらせたのは、華奢な体つきの人影だった。
彼か、はたまた彼女か、その人物は窓から外へ降り立つと、窓を外から閉めて何処かへ走り去ってしまった。
その日、とある貴族――支配階級のひとつ――の屋敷は、朝からひどい騒ぎだった。
先祖から代々受け継がれてきたという小さな絵が、何者かに盗まれたのだ。
「誰か、怪しい奴を見た者はいないのか!」
この家の主人、東宮 貴樹の怒号が響く。
「い、いえ、誰も! 門衛も誰も通っていないと主張しておりまして。居眠りをしていなかったか問いただしてみます!」
使用人の一人が声をあげたが、貴樹はそれを制した。
「いや、いい」
「……?」
不思議そうに首をかしげる使用人を目の端に見つつ、貴樹は呟く。
「これが例の奴のしわざか……」
彼には、絵を盗んだ者の心当たりがあった。と言っても、噂話を聞いたことがある程度だったが、本当に“彼”がやったのであれば誰をどんなに問いただしても目撃者がいるはずがないのだ。
噂話のなかで“彼”は、空人と名付けられていた。まるで空気のように誰にも見えない人だからという安易な名付けではあるが、“彼”の特徴をよく表していた。
空人は事実、今まで誰にもその姿を見せていない。少なくとも、他人の家に侵入して噂になるような行為――殺人、盗みと言った――をしている間は誰にも見つからず、目撃者を作らないのだ。それと同時に、無情をいう意味での“空”も含む。空人は、男はもちろん、女子供や生まれたばかりの赤ん坊さえ殺してしまう。心がないのではないか、という得体の知れない畏怖さえもその名前に含まれている。
貴樹は、表面上は使用人が正気を疑うほど何もなかったかのように、しかし内側では煮え立つような怒りを抱えて、その日の仕事にとりかかった。
昼になって、住民たちの納税の書類を確かめ終わると、昼食をとってくると言って、貴樹は数人の護衛と屋敷を出た。
「あ、東宮さま。こんにちは、どこかにお出かけですか?」
小さな男の子がすれ違いざまに声をかけてくる。
「ああ、友人と昼食を、と思ってな」
「そうですか! いってらっしゃい」
にこにこと笑って手を振る男の子に手を振り返すと、足早に歩き出した。
しばらく歩いて、林を越えるとそこは隣の国になる。
「貴樹。また何かあったのかい?」
国境の門で足をとめた貴樹に声が降ってくる。貴樹が見上げると古くからの友人、長谷川 蒼士が門の上から見下ろしていた。
「何を言ってる、蒼士。今日は西之辺の長で集まって昼飯を食べようと言ってたじゃないか」
自然と砕けた口調になる貴樹に、蒼士は笑って言う。
「あれ、今日だっけ。忘れていたよ。良かった、今日ここにいて」
「馬鹿が。さっさと通してくれよ、いつまで外に立たせておくつもりだ」
始終笑いながら「ごめんごめん」と門をあげる蒼士に、「ったく」と呟く貴樹。
「さ、行こう」
そう言って物見櫓から降りてきてしまう蒼士に驚き、貴樹は驚き言う。
「いいのか、番を離れて。この頃、空人だなんだと物騒だぞ」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと人いるからね」
笑いながら立ち去る二人を、からになった物見櫓のさらにその上、屋根から見下ろす影があった。
その影は、するりと物見櫓の中に入り、そのまま物見櫓は静まり返った。
しばらく経って、商人のようななりをした一人の男が来て、物見櫓に声をかけた。すると、人影が櫓から覗き、小さくつぶやいた。
「……朝木さま」
それは、男の声にしては高すぎ、女の声にしては少し低かった。
それから、人影はギシギシと音を立てながら門を開け、その男を通した。
男は門をくぐると、振り返り上を見上げて声をかけた。
「今、一人か?」
物見やぐらの人影も答える。
「ええ。もうすぐ交代が来ると思いますが」
「わかった。代わったら出来るだけ早く屋敷へ来い。成果を」
「はい」
男が踵を返して歩き始めようとすると、人影は門を降ろし始めた。
ふと、男が足を止めて人影に言った。
「あまり有名になりすぎないように、××」
男が口にした名前は、門が降りる音にかき消され、誰にも届くことなく地面に吸い込まれていった。
男が国境沿いに北へ歩きさってしばらくすると、交代の見張りがやってきて、人影は男と同じ方向へ向かった。
まだ初心者で、これが一話にしては長いのか短いのかわかりませんが、
とりあえず話の流れの都合でここで一旦切ります。




