〔2〕
「……っ?!」
放心状態だった俺は、着信音の不意討ちにスマホを投げ出しそうになった。
頭の中が真っ白ってのは、こんな状態のことを言うんだな、きっと。
画面に表示された「藍希」の文字に、怒っていいんだか、ホッとしていいんだか、とにかく出る。あやふやな記憶だが、この奇禍の元凶は藍希に違いない。
スマホを耳に当てる前に、藍希の甲高い声が響いてきた。
「ボクの子猫ちゃんは無事ーっ?!」
「……」
反射的に、俺は一言も返さず黙って通信を切った。
ボクの、だと?
無事ー?!、だと?
イラッとしたって言うか、何かが藍希の言葉にプチッと切れた気がする。
だったら俺のとこへ置いていくなっ。
音量はオフにしてベッドに放り投げ、速攻でかけ直してきたのも無視。
別に藍希を頼ることなんかない。ここで頼ったら藍希のことだ、更なるトラブルが追加される可能性も否定できない。
事情ならアイツだってよく知ってるハズなんだから、アイツに聞けばいいんだよ、アイツに…。
って、しゃべるのかよ、ヲタ子と…。
…憂鬱な気分と一緒に、二日酔いの重苦しい気分が戻ってきた。
画面が点滅を続けてるスマホを見る。
手をのばして、迷って、引っ込めて…。
散々迷った挙げ句、それすら面倒になった。
とりあえず、ノド渇いたし、な…。
ため息つきながら足取り重くドアを開けた瞬間、子どもの頃に毎朝見ていた台所の風景が頭の中に展開した。
食事の支度をする母さんの背中、白い湯気を上げながらコトコト揺れる鍋、テーブルには新聞を広げてる親父…。
なんだって、そんな昔のことが突然…?
ドアを開けたままの体勢で突っ立ってる俺に気付いたのか、振り向いて笑顔を見せたメイドが 「席はこちら側ですか?」とテーブルの一方を指して首を傾げた。
「……」
黙って頷いて、そのまま洗面所へ逃げ込んだ。
俺、ヲタ子に母さんの背中を重ねたのか? それで昔を思い出したのか?
…なんか、すごく、微妙…。
確かにサイズ感は、あんな感じだった気がする。間違ってもメイド服なんか着ない人だけどな。
そういやしばらく会ってないや。メールも電話も頻繁にあるけど、俺が対応しないしな…なんて現実逃避しながら、ついでに顔を洗って、ヒゲも剃る。
なぜか鏡の中から楽しそうな顔した俺が見返してくる。
何が楽しい? これからアイツと顔付き合わすんだぞ? しかも話をしなくちゃいけないんだぞ? 楽しいことなんて、何もないだろ?
ピシャリと両頬を叩いて気を引き締める。
そっと様子をうかがうようにドアを開けると、鼻腔をくすぐる香りにまた昔の記憶が頭をもたげてくる。
メイドが引いた椅子に黙って座り、目の前に置かれた深皿を凝視する。
…母さんの雑炊だ…。
溶き卵、ネギ、それに豆腐がお約束で、小皿に梅干。
「お箸も出しましょうか?」
「いい」
スプーンですくい、口に入れる。
…ヤバイ、これ、マジで母さんの雑炊だ…。
鰹ダシに醤油と塩だけなのに、なぜか俺には再現出来ない味が、口いっぱいに広がる。
一皿片付けると、新しい皿でお代わりが出てきてギョッとする。
「どうかしました?」
首を傾げるメイドには「別に」と首を振ったけど、あからさまに動揺してるよな、俺。
でも「母さんがそうするんだよ」なんて話はしたくない。
だから「同じ皿でいいんじゃん?」って言ってみる。
「あ、ごめんなさい。ちょっと冷めてる方が食べやすいかと思って…。熱い方が良いですか? よそい直します」
「いい、いいよ」
動揺を隠そうとして墓穴掘った…。
同じことを母さんに言ったら「こっちで少し冷ましておくのよ、あなた猫舌なんだから」って笑ったんだよ。
そういうのは一般的な常識なのか? 違うんだったら流石に気味が悪いぞ。コイツ、何なんだ…。
食べ終わると、俺が何も言わないのにカップが置かれる。
…ほうじ茶って、出来すぎだろ。
これは、なんだな…。やっぱり、あれかな。
黙ってカップを見ていると、食器を片付けたメイドが「おつけものでも出しましょうか? キュウリとカブがありますよ」と冷蔵庫を開ける。
そこまで一緒って、あり得ないだろう、普通。
「もうやめてくれ」
「え?」
「もういいよ。親父の回し者か? それとも母さんから頼まれたのか?」
俺の言葉にキョトンとして「何のお話ですか?」と聞き返してくる。
「…違うのか?」
「だから、何のお話ですか?」
不思議そうに俺を見る顔に、またやっちまったか…と頭をかかえる。
そうだよな、そんなわけないよな。よく考えなくたってありえないよな、親父たちと繋がってるなんて。
自分の中で勝手に推論を組み立てて結論を出す…そう、早トチリってやつを久しぶりにやらかした。よりにもよってヲタ子相手にだなんて、立ち直れねぇ…。
自己嫌悪にドツボな俺は「ご主人様?」と呼びかける声に顔をあげる。
「それ」
「それ?」
「とりあえず、それ止めようか」
「それって、何でしょうか、ご主人様?」
「それ、その呼び方」
「ご主人様?」
「そう、それ止めよう」
俺の言葉を考えるように細いアゴに指先を当てて首を傾げる。
「それじゃぁ、なんて呼べばいいですか?」
「えー…」
それは考えてなかった。
だいたい呼び方とかそんなこと以前に、俺はヲタ子に関わりたくないんだって。
「あぁ、そうだっ」
当初の目的を思い出した。
勢いよくテーブルに両手をついて立ち上がった俺に、ヲタ子が怯えた表情で身をすくませた。
「…あ、いや、ごめん。悪かった」
胸の前で握りしめた手が震えてるのを見て、思わず謝る。
「いえ、すみません。大袈裟に驚いたりして、ごめんなさい」
笑顔を作ろうとして、自分でも上手くいかないのがわかったのか俯いてしまった。
そんなに恐かったのか?
そりゃね、たいてい恐がられるよ。だけど子どもにだって、そんなに怯えられた記憶はないぞ。つうか、いつも平気だろ、お前は。
軽く咳払いをして座り直す。
「あー、…座れよ」
「……」
「立ったままだと話しにくいんだよ」
不安そうな瞳が探るように俺を見る。
「どうしてお前がここで俺にメシを作ってるんだ?」
メイドが驚いたように瞬きする。
「本当に覚えてないんですか?」
「ない。しっかりして見えるらしいけどな、藍希と飲みに行くといっつも記憶喪失だよ」
納得したのか、小さく頷いて俺の向かい側に座った。




