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楽園のイミテリス  作者: 十 名鈴
第三部
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第四十四話 約束の花畑

カインの足取りは、すでに限界を超えていた。



一歩を踏み出すたびに、右腹の裂傷が熱く軋む。

乾いた血が衣服に張り付き、動くたびに傷口を内側から引き剥がすような痛みが走る。


視界の端が明滅し、めまいが何度も彼を揺さぶった。


それでも、足は止まらなかった。


背中に感じるイヴの体温が、わずかに冷たくなり始めている。

規則性を失いかけた吐息が、消えそうな灯火のようにカインの神経を焦がしていた。


「……イヴ。もう少しだからな。あと、もう少しだ」


返事はすぐには返ってこなかった。

数秒の沈黙のあと、風に消えそうな声が耳元に届く。


「……うん。……だい、じょうぶ……」


強がりだと、すぐに分かった。


首に回された細い腕から、力が確実に抜けていく。

滑り落ちそうになる体を、カインは歯を食いしばって何度も支え直した。


そのたびに右腹から激痛が走り、視界が白く染まる。


(ここで倒れるわけにはいかない。あの場所まで、帰るんだ)



荒廃した荒野を抜けた先に、かつての地下鉄の入り口が見え始めていた。


崩落した天井、重なり合うコンクリート、剥き出しの鉄骨。

大地震の痕跡が、陽の光を浴びて、まるで巨大な樹のように大地にそびえていた。


瓦礫の隙間から、白い光の筋が何本も地表へ差し込んでいる。

塵を煌めかせながら落ちるその光は、聖域へ続く導きのように見えた。


風が通るたび、光の筋が微かに揺らめき、まるで樹が息をしているようだった。



「……見えてきたぞ、イヴ」


カインが呟くと、背中のイヴがゆっくりと身を起こした。


「……ほんと、だ……。……樹、みたい……」


「ああ。瓦礫が……本当に、大きな樹に見えるな」


二人は言葉を失い、ただその光景を見つめた。

約束の花畑への入り口は、もう目の前だった。


突如、カインの膝が大きく揺れた。

関節から力が抜け、崩れそうになる体を、全身を硬直させて耐える。


「くっ……!」


こぼれ落ちそうになるイヴを、もう一度しっかりと引き抱え直す。


「あと少しだ……! もう少しで、本当に着く……っ!」


「……うん……」


イヴの声は、ほとんど聞こえない囁きになっていた。

背中越しに伝わる鼓動が、次第に間隔を空けていく。


カインは自分を鼓舞するように、同じ言葉を繰り返した。


「あと少しだ……ここで倒れるな。絶対に倒れるな……!」


足を引きずりながらも、一歩一歩を踏みしめる。


近づくにつれ、瓦礫の樹はその存在感を増していった。

頭上を覆うコンクリートの枝葉、隙間から降り注ぐ光線。

光の筋が増えるたび、二人の影が長く地表に刻まれていく。


重苦しい静寂の中、カインの口からぼそりとした声が漏れた。



「……ここまで、よく来たよな。俺たち」


背中のイヴからの反応はない。


それでもカインは構わずに言葉を紡いだ。

声を出していなければ、意識が暗闇に呑まれてしまいそうだった。


「何度も死にかけて……何度も大事なものを失って……。それでも、またこうして巡り会えた」


一歩。


「アストランの訓練施設から始まって……外の戦場を駆け回って……セントラルまでたどり着いて……」


また一歩。


「……全部、君と一緒だったな」


カインは乾いた唇を緩め、自嘲気味に苦笑した。


「最初は、ただの使えない訓練兵でさ。何も知らなくて……。君に助けられて、守られて……それなのに、肝心なときには君を守れなくて……。何度も同じ後悔を繰り返してきた」


風が吹き抜け、瓦礫の隙間からかすかな音が響く。


光の筋が、まるで二人を迎えるように揺れていた。


「でも……今は違う。俺はもう、誰かの作った計画の駒じゃない。誰かの身代わりの、偽物の人形でもない……。いま、俺は君を背負って、俺自身の足で、この道を歩いてる」



花畑へと続く境界にたどり着いたとき、カインはようやく足を止めた。


「……着いたぞ、イヴ」


背中のイヴが、胸の奥から絞り出すように、静かに息を吐いた。


「……うん……ここだね……」



二人はようやく、長かった旅の終着点にたどり着いたのだと実感した。


見上げるほどの瓦礫の樹が、二人を包み込むように佇んでいる。


光が、樹の隙間から幾筋も落ちていた。

花畑の中は、以前よりも静かで美しく澄んでいる。

崩れた天井から差し込む日差しが、残された花々を優しく照らしていた。


それは、まるで物語に登場する楽園のようだった。


風が通るたび、淡い香りが二人の頬を撫でる。


「ふふっ……すごく……きれい……」


イヴの瞳からは静かな涙が溢れ、カインの背中を暖かく濡らす。


「ああ……そうだな。やっと……帰ってこれた」



カインの頬にも、暖かい涙が零れていく。

夢見るように二人で約束した花畑に、こうして生きて帰ってこれたことへの涙だった。


カインは冷たい空気を深く吸い込み、背中に残る愛しい人の温もりを確かめるように腕に力を込めた。



「……一緒に、最後まで行こう」



そして彼は、光の筋が降り注ぐ花畑の中へと、ゆっくりと確かな一歩を踏み出した。




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