第四十二話 おやすみ
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最後のイデアが、死のウイルスにより崩壊し崩れ落ちた。
辺りには大量の残骸が散乱し、降りしきる雨によって黒い油が少しずつ流されていく。
そして、その中心に鎮座するのは、四肢すら失い頭を垂れる異形。
僅かに漏れ出る息は途切れ途切れで、既に生命の限界を迎えているのは明白だった。
やがて、その異形がゆっくりと頭を上げ、二人を見つめる。
「……アァ……良かッタ……」
消え入りそうな声を漏らすクラス5。
そこにはもう、かつて感じさせた恐怖や絶望感など一切なかった。
その瞳から一筋の透明な涙が伝い落ちる。
浮かべているのは、慈愛すら感じるほど穏やかな表情。
ただ、カインとイヴが生きているという事実に安息を得たかのように。
「……クラス5。お前は──」
カインの言葉を手で遮り、無言で静かに首を横に振るイヴ。
クラス5は、途切れ途切れに言葉を紡いでいく。
「カ……イン。私を……許サないデ」
その声は、取り込んだイデアのものでも、狂気に満ちたものでもない。
間違いなく、「最初のイヴ」自身の言葉だった。
「イヴは……モウ……大丈夫。これが最後ノ……仕上げ……」
クラス5が、どこか面影を残した穏やかな笑みを浮かべる。
その表情に、カインの胸が強く締め付けられた。
「私が……終わらせてあげるから」
イヴは霊装を携えたまま、ゆっくりと、一歩ずつクラス5へと歩み寄っていく。
『ザ……ザザ……適合率……低下。……4%』
イヴの端末から、ノイズ混じりの機械音声が警告のように低く響く。
雨は段々と弱まり、冷たい雫の音が静寂へ溶けていく。
「全部……私ノわがまま……。もう……君たちハ……偽物じゃない……」
クラス5の異形が、ボトボトと崩れ落ちていく。
恐ろしい怪物だった姿が、今際の際で、本来の姿を取り戻していくかのように。
『ザ……ザザー……適合……率……下……3%……』
イヴの歩みに刻調を合わせるように、機械音が流れる。
「あなたは……カインのことが大好きだったんだね」
「カインを傷つけた世界が、許せなかったんだね」
イヴは穏やかな声で語りかけながら、一歩一歩近づいていく。
そこに憎悪も狂気も、もう存在しなかった。
「カインが……いない世界に、耐えられなかったんだね……」
霊装を握るイヴの手が、僅かに震える。
その瞳から、涙がぽろぽろと零れ落ちていく。
「さすが私だね……。私も、一緒だから……」
『……適合……率……低……2%……』
イヴの震える声と、掠れた機械音声が静かに重なり合う。
あれほど降りしきっていた雨は上がり始め、空を覆っていた雨雲が緩やかに散っていった。
「二人ノ……楽園……カ……イン……」
既に意識の薄れゆくクラス5は、言葉の意味すら分からぬまま、うわ言のように紡ぐ。
かつてのイヴを思わせる金髪を地面に垂らし、ただ、二人を見つめ続けている。
「もう……恨んでなんかないよ……」
また一歩、静かに距離を詰めていく。
足元の水たまりが小さな音を立て、水滴が跳ねる。
雲の切れ間から、柔らかな光が差し込み始めていた。
「もう……ゆっくり眠っていいんだよ」
イヴは、クラス5の目の前で足を止めた。
そして、震える手でゆっくりと、霊装の銃口をそのコアへと向ける。
かつては絶望と死の恐怖でしかなかった存在。
だが今、胸に満ちているのは、温かな感謝だった。
憎しみ続け、歪められた運命。
偽物だと知りながら、大切な人の死を前提にして生き抜いてきた地獄。
その絶望が今、静かに希望へと塗り替えられていく。
作られた人形は、本当の人間へ。
コードとして刻まれた偽物の愛は、6000年の時を超え、本物の愛へ。
『ザ……ザザー……適……率……1……%……』
最後の警告音とともに、引き金へ指をかけるイヴ。
増えていく涙で濡れた頬のまま、優しく微笑んだ。
「おやすみ。イヴ」
銃口から放たれた閃光が、静かにクラス5のコアを貫く。
それと同時に、包み込むような温かい声が二人を満たした。
『生きて』
全てが終わりゆくその瞬間に聴こえた声は、何よりも優しく、穏やかな彼女の声だった。
一人の少女のわがままから始まった、歪んだ物語。
ただ、愛する人が生きる世界を作りたかった。
たとえそれが、本当の自分たちではなかったとしても。
物語の結末のように、ただ二人で幸せになれる世界を。
一つの小さな願いから生まれた物語が、ようやく幕を閉じる。
偽物は本物へ。
絶望は希望へ。
許されぬ罪だと知りながら、ただ二人のために重ねられた過ち。
さようなら、イヴ。
おやすみ、イヴ。
この日、人類は滅んだ。
機械と化した人類も、その模造品として造られたレプリカも、その全てが。
ただ二人、人間だけを残して。
雨はいつの間にか上がり、澄み渡る日差しが二人と──そして、一人の少女を優しく照らしていた。
◇◇◇
(ここは、どこ……?)
全てが深い暗闇に包まれている。
感覚すら失われた世界で、己が何者かも分からぬまま、ただ泣き続ける一人の少女。
(私は……そっか……)
闇の底で、己の犯した罪を思い出す。
許されるはずなどない。
己の我欲のために重ねてきた、数々の絶望。
愛する人と同じ場所へ行けるはずもなかった。
──これで、いい。
このまま、深い闇へと溶けてしまおう。
(……ヴ……)
ふと、誰かの声が聴こえた。
とても懐かしく、二度と聴くことは叶わないと思っていた、大切な人の声。
消えゆく間際に見る、ただの幻聴なのだろうか。
(……イ……ヴ……)
目の前で失ってしまった、あの声。
もう二度と触れられない、何よりも愛おしい存在。
(──イヴ!)
暗闇の底へと沈みゆく私を、誰かが強くすくい上げる。
全身が、ぬくもりのある暖かな光に包まれていく。
(……カイン)
そこにいたのは、私の一番大切な人。
失ったはずの、誰よりも愛する人──。
(カイン……! ごめんね……ごめんね……!)
(もう……いいんだよ、イヴ)
涙が止めどなく溢れ出していく。
私は本当は……ただもう一度、君に会いたかっただけだったんだ。
(行こう、イヴ)
(うん……カイン)
二人を繋ぐ、大切な名前を呼び合う。
私と君だけのための、特別な名前。
溶け合うように、光の中へ静かに消えていく。
後にはただ、一冊の本だけが残されていた。
止まった時を静かに紡ぎ終えた、その装丁の名は──『楽園の物語』。




