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楽園のイミテリス  作者: 十 名鈴
第三部
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第四十二話 おやすみ

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最後のイデアが、死のウイルスにより崩壊し崩れ落ちた。


辺りには大量の残骸が散乱し、降りしきる雨によって黒い油が少しずつ流されていく。

そして、その中心に鎮座するのは、四肢すら失い頭を垂れる異形。

僅かに漏れ出る息は途切れ途切れで、既に生命の限界を迎えているのは明白だった。


やがて、その異形がゆっくりと頭を上げ、二人を見つめる。



「……アァ……良かッタ……」


消え入りそうな声を漏らすクラス5。

そこにはもう、かつて感じさせた恐怖や絶望感など一切なかった。

その瞳から一筋の透明な涙が伝い落ちる。

浮かべているのは、慈愛すら感じるほど穏やかな表情。


ただ、カインとイヴが生きているという事実に安息を得たかのように。


「……クラス5。お前は──」


カインの言葉を手で遮り、無言で静かに首を横に振るイヴ。

クラス5は、途切れ途切れに言葉を紡いでいく。


「カ……イン。私を……許サないデ」


その声は、取り込んだイデアのものでも、狂気に満ちたものでもない。

間違いなく、「最初のイヴ」自身の言葉だった。


「イヴは……モウ……大丈夫。これが最後ノ……仕上げ……」


クラス5が、どこか面影を残した穏やかな笑みを浮かべる。

その表情に、カインの胸が強く締め付けられた。



「私が……終わらせてあげるから」


イヴは霊装を携えたまま、ゆっくりと、一歩ずつクラス5へと歩み寄っていく。


『ザ……ザザ……適合率……低下。……4%』


イヴの端末から、ノイズ混じりの機械音声が警告のように低く響く。


雨は段々と弱まり、冷たい雫の音が静寂へ溶けていく。


「全部……私ノわがまま……。もう……君たちハ……偽物じゃない……」


クラス5の異形が、ボトボトと崩れ落ちていく。

恐ろしい怪物だった姿が、今際の際で、本来の姿を取り戻していくかのように。


『ザ……ザザー……適合……率……下……3%……』


イヴの歩みに刻調を合わせるように、機械音が流れる。



「あなたは……カインのことが大好きだったんだね」


「カインを傷つけた世界が、許せなかったんだね」


イヴは穏やかな声で語りかけながら、一歩一歩近づいていく。

そこに憎悪も狂気も、もう存在しなかった。



「カインが……いない世界に、耐えられなかったんだね……」


霊装を握るイヴの手が、僅かに震える。

その瞳から、涙がぽろぽろと零れ落ちていく。



「さすが私だね……。私も、一緒だから……」


『……適合……率……低……2%……』


イヴの震える声と、掠れた機械音声が静かに重なり合う。

あれほど降りしきっていた雨は上がり始め、空を覆っていた雨雲が緩やかに散っていった。


「二人ノ……楽園……カ……イン……」


既に意識の薄れゆくクラス5は、言葉の意味すら分からぬまま、うわ言のように紡ぐ。

かつてのイヴを思わせる金髪を地面に垂らし、ただ、二人を見つめ続けている。


「もう……恨んでなんかないよ……」


また一歩、静かに距離を詰めていく。

足元の水たまりが小さな音を立て、水滴が跳ねる。

雲の切れ間から、柔らかな光が差し込み始めていた。


「もう……ゆっくり眠っていいんだよ」


イヴは、クラス5の目の前で足を止めた。

そして、震える手でゆっくりと、霊装の銃口をそのコアへと向ける。


かつては絶望と死の恐怖でしかなかった存在。

だが今、胸に満ちているのは、温かな感謝だった。


憎しみ続け、歪められた運命。

偽物だと知りながら、大切な人の死を前提にして生き抜いてきた地獄。

その絶望が今、静かに希望へと塗り替えられていく。


作られた人形は、本当の人間へ。

コードとして刻まれた偽物の愛は、6000年の時を超え、本物の愛へ。



『ザ……ザザー……適……率……1……%……』


最後の警告音とともに、引き金へ指をかけるイヴ。

増えていく涙で濡れた頬のまま、優しく微笑んだ。



「おやすみ。イヴ」



銃口から放たれた閃光が、静かにクラス5のコアを貫く。

それと同時に、包み込むような温かい声が二人を満たした。


『生きて』


全てが終わりゆくその瞬間に聴こえた声は、何よりも優しく、穏やかな彼女の声だった。


一人の少女のわがままから始まった、歪んだ物語。

ただ、愛する人が生きる世界を作りたかった。

たとえそれが、本当の自分たちではなかったとしても。


物語の結末のように、ただ二人で幸せになれる世界を。


一つの小さな願いから生まれた物語が、ようやく幕を閉じる。


偽物は本物へ。


絶望は希望へ。


許されぬ罪だと知りながら、ただ二人のために重ねられた過ち。


さようなら、イヴ。


おやすみ、イヴ。




この日、人類は滅んだ。


機械と化した人類も、その模造品として造られたレプリカも、その全てが。


ただ二人、人間だけを残して。


雨はいつの間にか上がり、澄み渡る日差しが二人と──そして、一人の少女を優しく照らしていた。






◇◇◇





(ここは、どこ……?)


全てが深い暗闇に包まれている。

感覚すら失われた世界で、己が何者かも分からぬまま、ただ泣き続ける一人の少女。


(私は……そっか……)


闇の底で、己の犯した罪を思い出す。


許されるはずなどない。

己の我欲のために重ねてきた、数々の絶望。

愛する人と同じ場所へ行けるはずもなかった。


──これで、いい。


このまま、深い闇へと溶けてしまおう。



(……ヴ……)


ふと、誰かの声が聴こえた。


とても懐かしく、二度と聴くことは叶わないと思っていた、大切な人の声。


消えゆく間際に見る、ただの幻聴なのだろうか。


(……イ……ヴ……)


目の前で失ってしまった、あの声。

もう二度と触れられない、何よりも愛おしい存在。



(──イヴ!)


暗闇の底へと沈みゆく私を、誰かが強くすくい上げる。

全身が、ぬくもりのある暖かな光に包まれていく。


(……カイン)


そこにいたのは、私の一番大切な人。

失ったはずの、誰よりも愛する人──。



(カイン……! ごめんね……ごめんね……!)


(もう……いいんだよ、イヴ)



涙が止めどなく溢れ出していく。


私は本当は……ただもう一度、君に会いたかっただけだったんだ。


(行こう、イヴ)


(うん……カイン)



二人を繋ぐ、大切な名前を呼び合う。

私と君だけのための、特別な名前。


溶け合うように、光の中へ静かに消えていく。


後にはただ、一冊の本だけが残されていた。



止まった時を静かに紡ぎ終えた、その装丁の名は──『楽園の物語』。

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