第四十一話 消えない罪
世界が、黒い濁流に飲み込まれていた。
視界を埋め尽くすのは、無数のイデアの群れ。
這い回る爪と牙が肉を削り、骨を砕く異様な音を響かせている。
ターゲットはカインではない。
その先──セントラル中心に鎮座する、クラス5の巨大な異形であった。
『アアァアアァァァ゛ぁ゛ァ゛ッ!!』
鼓膜を破らんばかりの悲痛な咆哮が、空間を埋め尽くす。
クラス5の巨体に黒い群体が群がり、肉を食いちぎり、生体組織と化した肉体を貪り食らう。
かつて絶望を振りまいた死と狂気の権化は、今やイデアたちの巨大な「餌」へと成り下がっていた。
それと同時に、その歪んだ肉体の内側で、何かが激しく暴れ出す。
ズズ……、と異形の肩口が異常に膨れ上がった。
群がるイデアたちがそれを押し潰そうと殺到するが、内側からの圧力は収まらない。
膨張し、限界を迎えた皮膚がミシミシと嫌な悲鳴を上げた次の瞬間──。
爆発的な破裂音とともに、クラス5の左腕全体が根元から大きく引きちぎられた。
飛び散る体液と、黒い肉片の嵐。
巨大な腕の塊がドサリと崩れ落ち、地煙を巻き上げる。
引きちぎられた断面から滴り落ちる、ボトボトと赤黒い体液。
そして──その破れた肉の塊の隙間から、小さな人影が零れ落ちた。
「──っ、ゲホッ……! カ、ハッ……っ! う……っ!」
激しく咳き込みながら、冷たい瓦礫の上に落ちる影。
オレンジの髪は泥と黒い体液で汚れ、破れた衣服からは白い肌が覗いている。
「イヴ……っ!!」
カインの口から、無意識の叫びが飛び出していた。
考えるよりも早く、脚が動く。
膝の関節が悲鳴を上げ、体に刻まれた数々の傷口から血が吹き出すのも構わず、瓦礫を蹴って駆け出した。
足もとをすくおうとするイデアの影を切り払い、なりふり構わず少女のもとへ飛び込む。
「イヴ……! イヴっ!」
滑り込むようにして、その華奢な肩を抱き上げた。
手に触れた瞬間伝わってきたのは、焼けるような熱さと、壊れてしまいそうなほどの激しい震え。
「カ……イン……? 私……わたし……っ」
虚ろだったイヴの瞳に、ゆっくりと光が戻っていく。
彼女の細い手が、すがるようにカインの胸元を固く握りしめた。
その感触があまりにも弱々しく、胸が押し潰されるような衝動に駆られ、カインは彼女を強く、強く抱きしめる。
「よかった……っ。生きてる……生きていてくれた……っ!」
「私……クラス5の中で……記憶が……」
イヴが途切れ途切れに、混乱した声を漏らす。
取り込まれていた間、内に流れ込んできた「何か」の記憶を辿るように、言葉を紡ごうとしていた。
「いい、喋るな。何も言うな」
カインは優しく、しかし強くその言葉を遮る。
「『何があったのか』は後にしよう。中で何を見たのかも……全部、生きてここを出てから聞く。今はただ、ここを生き残ることだけを考えよう」
「カイン……」
「ただ……無事でいてくれた。俺の前に戻ってきてくれた。それだけでいい」
カインは胸の奥から湧き上がる安怠の熱に浸りたかった。
このまま彼女を抱きかかえ、安全な場所へと連れ去りたい。
──だが、世界はそれを許さなかった。
ギチギチギチ……と、周囲の空気を擦り合わせるような不快な音が響く。
二人の再会をあざ笑うかのように、周囲を埋め尽くすイデアの群れが一斉にその赤黒い眼光を向けた。
一度はクラス5という巨大な獲物に群がっていたイデアたちが、二人へと照準を合わせたのだ。
数百の影が、崩落したセントラル跡地を蠢きながら二人の囲みを縮めていく。
「……くそっ! イヴ、立てるか?」
カインはイヴを背中に庇うようにして立ち上がり、刀の柄を握り直した。
刃から放たれる微かな光が、カインの鋭い目元を照らす。
全身の疲労はピークに達し、視界の端が明滅していたが、引き下がることなどできるはずもなかった。
「はぁはぁ……。大丈夫……私も……戦えるよ」
息を整えたイヴが静かに立ち上がり、霊装を両手に構える。
体内を食い荒らしていたウイルスの侵食が、なぜか段々と収まりつつある感覚。
イデアの群れが一斉に跳躍した。
黒い爪の雨が、天井から、前後左右から、二人目掛けて降り注ぐ。
カインが剣を振り上げ、迎撃体制をとろうとした──その瞬間のことだった。
空気を破裂させるような大音量の咆哮が、イデアの襲撃を遮る。
地響きとともに飛び込んできたのは、巨大な「壁」。
巨体を大きく傾け、引きちぎれた左腕から泥のような体液を撒き散らしながら、クラス5が二人の頭上を覆うように割り込んできたのだ。
降り注ぐイデアの爪が、クラス5の背中に音を立てて突き刺さる。
肉が引き裂かれ、黒い欠片が飛び散るが、クラス5は一切の身怯みも見せない。
「な……!?」
カインは目を見開いた。
かつて、自分たちを殺すためにその凶器を振るっていた異形。
死の象徴であり、人知を超えた悪夢そのものだったはずのクラス5。
その異形が今、ただ二人を生かそうとしている。
残された右腕と、背中から生え出た無数の細い腕を振り回し、群がるイデアを一網打尽に押し潰しては破壊していく。
そこにはもう「人間への憎悪」や「破壊衝動」など存在しない。
あるのは──ただ一筋の、狂おしいまでの「二人を守る」という本能のような動きだけだった。
「ありがとう……」
カインの背後で、イヴが息を飲む。
その目には、涙が浮かんでいた。
「クラス5は……ううん、彼女はもう敵じゃないよ……。彼女の望みは……私を……私たちを……!」
「……そうか」
カインは噛み締めるように呟いた。
目の前にいるのは、ただの怪物ではない。
かつて「イヴ」と呼ばれ、狂気と愛の果てに異形へと成り果てた、もう一人の少女の残骸。
言葉は通じない。姿もすでに人間ではない。
けれど、その魂の底に刻まれた「カインとイヴを生かす」というたった一つの祈りが、今、この異形を突き動かしている。
目の前の光景に、カインは血と泥に塗れた顔で剣を強く握り直した。
「いこう……イヴ。 必ず……生き残るんだ」
「……うんっ!」
そして、最後の死闘が始まった。
三人──否、二人の人間と一頭の異形による、滑稽で、美しく、そしてあまりにも凄絶な共闘。
クラス5がその巨大な体躯を生かしてイデアの奔流を正面から受け止め、巨腕の一閃で何十体もの群体を磨り潰す。
腕を一本失い、バランスを崩しながらも、その巨体は決して二人とイデアの間に隙間を作ろうとはしない。
イデアの鋭い爪が肉を削ぎ落とすたびに、クラス5の口から苦悶の咆哮が漏れる。
だが、足は一歩も引かなかった。
「はあああぁッ!」
その巨躯の影から、カインが飛び出す。
クラス5が引きつけた隙を突き、側面に回り込んだイデアの核を鋭い一閃で撃ち抜いた。
一人では防ぎきれない数の暴力も、クラス5が巨大な盾となることで、カインは攻撃に専念することができる。
「私だって……っ!」
イヴもまた、強い光を瞳に宿し霊装を掲げた。
一撃を放つたびに、霊装に宿る力が弱まっていく手応え。
『適合率低下、6%』
イヴの端末から機械音声が響き、それが勘違いではないと告げていた。
それでも、彼女は光の弾丸を放ち続ける。
カインの背後を狙う影を撃ち抜き、クラス5の足もとに群がるイデアを弾き飛ばす。
「ゲホッ……っ、カハッ……!」
「イヴ、無理するな!」
「大丈夫……! これで……きっと最後だから……っ!」
適合率の低下とともに、イヴの瞳には強い光が宿っていく。
それと同時に、体内を蝕むウイルスが静かに溶けていく感覚があった。
背中を預け合い、互いの呼吸を感じながら戦う。
かつて「計画の駒」として与えられた力ではなく、自らの意思で、目の前の愛おしい存在を守るために振るう力。
だが、戦況は決して楽観できるものではない。
一つを壊せば、二つの影が落ちてくる。
何より、彼らの肉体もすでに限界を迎えようとしていた。
「がっ……!」
死角から飛び出したイデアの鉤爪が、カインの右腹を抉る。
鮮血が瓦礫を赤く染め、カインの膝がガクリと折れた。
「カイン!」
「クソ……っ、大丈夫だ……!」
もはや時間の問題だった。
しかし、それと同時にイデアたちもウイルスによってかなりの数が崩壊を始めている。
それは世界からの最後の抵抗。
すべてを歪ませた罪に対する、世界からの罰のようだった。
苦痛に満ちた絶叫。
クラス5の巨体は少しずつボロボロと崩れ落ちていく。
イデアもクラス5も、すべてが終わるその時が確実に足元まで迫っていた。
その命の灯火が、風前の灯火であることは誰の目にも明らかだった。
「もうやめて……! お願い……もう……!」
イヴが叫び、霊装から狂ったように光弾を連射してイデアたちを払い落とすが、クラス5の崩壊は止まることなく進んでいく。
「ハァ……ハァ……っ」
カインは血を吐き出しながら、剣を杖代わりにして立ち上がった。
全身の感覚が痺れ、視界は赤く染まっている。
それでも、彼らは前を見た。
互いにボロボロになり、肉体を削り合い、血を流しながらも。
二人と一頭の異形は、終わりなき黒い波の中に、なおも踏み止まり続けていた。
そして、ゆっくりと終わりのときがやってくる。
一体、また一体と限界を迎えたイデアたちが断末魔とともに崩れ落ちていく。
最後のイデアがどしゃりと音を立てて、水溜りと化した大地に倒れ伏した。
残されたのは二人と一頭の異形。
その異形も、もはや立つことすらままならず、頭を垂れるように水溜りの中に鎮座している。
静かな雨が降っていた。
すべての罪を洗い流すかのような、静かな雨が。




