第四十話 世界よりも大切な人
暗闇の中で見つけた、一冊のとても古い本。
表紙には「楽園計画」とだけ記されている。
きらきらときれいな光に包まれたそれは、このクラス5の精神世界において、何よりも大切なものだと物語っていた。
指先で静かに触れると、じんわりと温かな感触が伝わってくる。
今の私の記憶には無いはずなのに、どうしてか深く懐かしい。
この本の中に、きっと私の全てが眠っている──。
ページがひとりでに、パラパラとゆっくり捲れていく。
それと同時に、暗闇を押し返すほどのまばゆい光が空間を満たしていった。
眩しさに、思わず目を閉じる。
その光はただ明るいだけではなく、熱い感情のようなものを密かに孕んでいた。
視界が白く染まり、意識がどこか遠くへ引き込まれていく。
自分の体が解けていくような感覚。
──それでも、恐怖はなかった。
なぜか愛おしくて、胸の奥が締め付けられる。
溢れんばかりの悲しみと、祈りにも似た優しさが込み上げてくる。
遠い昔に置いてきた大切な何かを、ようやく見つけ出せたかのように。
これは……最初の私の記憶なのだろうか。
知らないはずの光景なのに、涙が止まらない。
溶け合った意識へ、映像が鮮明に流れ込んでいく。
──1996年。
ウイルスが世界を侵食し始め、人類の誰もが絶望の底に沈んでいた頃。
研究室の薄暗い明かりの下、まだ人間だった頃の私が、端末のデータを必死に見つめている。
モニターに映し出されているのは、一人の少年の生体情報。
赤く点滅する数値が、けたたましく警告を繰り返していた。
被験者は、オリジナルのカイン。
ウイルスに侵され、肉体が崩壊の一途をたどる少年。
すでに内臓の一部は崩れており、当時の技術ではとても命を繋ぎ止められないほど深刻な状態だった。
残された唯一の望みは、並行して研究が進められていた「機械の肉体への魂の移植」。
けれど世界は、彼を受け入れなかった。
発症してしまった人間は、移植の対象にすら選ばれなかったのだ。
カインの笑顔も、声も、温もりも──全部、このまま失いたくなかった。
『私にできることは……。レプリカを使えば、もしかしたら……』
それから私は、ただひたすら研究に没頭した。
レプリカ技術を応用し、崩壊していくカインの細胞を繋ぎ止められないかと、途方もない数の実験を重ねる。
失敗のたびにデータは消え去り、サンプルは壊れていく。
それでも決して諦めなかった。
睡眠を削り、食事も忘れて、ただ彼を救うことだけを考え続けた。
──その過程で、私は一つの凄惨な異変に気づいてしまう。
カインの体内で、ウイルスが僅かに変異を起こしていたのだ。
通常の侵食パターンとは異なる反応。
カインの細胞と融合させたレプリカの細胞に対し、ウイルスが怪しくほんの僅かに順応し始めていた。
最初は単なる小さな誤差だと思った。
測定ミスであってほしいと、何度も検証をやり直した。
だが、調べを深めるにつれ、それは残酷な確信へと変わっていく。
これは──ウイルスが人間以外の存在へも順応し始める、進化の兆候。
「人間」という種に繋がるすべてを根絶やしにしようとする、世界のあまりにも残酷な答えだった。
このままでは、機械の肉体を得た人間も、レプリカも、いずれ同じ運命を辿ってしまう。
世界は終わる。
……いや、きっと世界はもう、とっくに終わっていたのだ。
レプリカを使おうと、機械の体を与えようと、私の大切な人は消えてしまう。
だからこそ──私は、とても残酷でわがままな歪んだ決断を下してしまった。
遠い未来で、もう一度……私と君を「人間」として生かす。
それがたとえ、残りすべてを滅ぼしてしまうことになったとしても。
それが、最初の楽園計画──『TYPE EDEN』の始まりだった。
二人の名前が刻まれたあの絵本から生まれた、私と君のためだけの計画。
私はあえて計画を未完成のまま封印し、その核に自分とカインの生体情報を遺した。
そして解析したレプリカたちには、「人間になりたい」という強い欲望が自然と芽生えるよう、プログラムを仕込んだのだ。
欲望は、いつか絶望を打ち破る希望になる。
希望へと続くその道が、夥しい絶望に染まってしまうとしても。
遠い未来の誰かが、その希望を拾い上げてくれることを信じて──。
楽園計画──それは、あまりにも果てしない試みだった。
レプリカの「一年」という寿命を捨て、本物の人間になる手法の確立。
そのためには、人間の生体情報を膨大にレプリカへ取り込ませ、新たな人間としての遺伝子情報を再構築する必要がある。
そして、その情報を元に新たな人間を生み出す「母体」が存在しなければならない。
後世、監視者たちが行った「アダム計画」と「イヴ計画」は、この遺産を紐解いて利用したものに過ぎなかった。
彼らは計画の本当の意味を知らず、自分たちの都合の良いように利用したのだ。
けれど、それで構わない。
それこそが私が望んでいたことだったのだから。
彼らの欲望が、二人を残酷な運命によってここまで導いてくれた。
全ては、オリジナルの私──最初のイヴが、6000年後の二人のために仕組んだこと。
ウイルスが変異を遂げ、人間への毒性を失った未来で、イヴとカインというレプリカを「本当の人間」として作り直し、二人だけの楽園を創るため。
とても残酷な許されないわがまま。
……全ての記憶が、一つへと繋がっていく。
失われていた記憶が、私の中で静かに統合されていく。
オリジナルのイヴが託した想いが、私の中で確かに形を成していく。
悲しみも、優しさも、凄絶な執念も──その全てが、今の私の心と重なる。
『私のことは、許さなくていい』
『だから……生きて』
『今度こそ、人間として──』
その声が、胸の深くでいつまでも響いていた。
温かくて、胸が痛くて……けれど、愛おしくて堪らない声。
あれだけ自身の……偽物の運命を憎んでいたはずなのに。
意識が、ゆっくりと引き戻されていく。
光が失われ、再び暗闇が広がっていく。
──でも、もう恐怖はなかった。
一人じゃないと、分かっていたから。
◇◇◇
耳をつんざくような叫びが、世界を激しく揺らす。
外ではすでに、凄惨な地獄が繰り広げられていた。
クラス5の巨体が、空を裂かんばかりの咆哮を轟かせる。
その重低音に導かれるように、地平線の彼方から無数の不気味な赤光が集結しつつあった。
──イデアの群れだ。
ウイルスに蝕まれ、全身を崩壊させながらも、ただ本能のままに蠢くかつての人類たち。
弱っているはずだというのに、その数はあまりにも圧倒的だった。
地を誇り、空を蠢き、狂気じみた殺意を昂らせて迫ってくる。
「くそっ……! イヴ……!!」
俺は刀を強く握り直し、迫り来るイデアを次々と切り伏せていく。
だが、一体を倒したそばから、二体、三体と際限なく湧き上がってくる。
刃は粘着質な油に塗れ、振り抜く動作が加速度的に重くなっていく。
擦り傷や打撲が、確実に体に刻み込まれていく。
(イヴを取り戻さないと……!)
クラス5の巨躯のどこかに、イヴが取り込まれている。
それは確信できているのに、あまりに巨大すぎる異形のどこを狙えばいいのかすら分からない。
焦燥に駆られて息は乱れ、剣筋から鋭さが削がれていく。
その時だった。
猛威を振るうイデアの群れが、俺だけでなく、クラス5へも容赦なく群がり始めたのだ。
「……なっ、どういうことだ……!?」
精神を失ったイデアたちに、もはや敵味方の区別など存在しない。
ただ自分たちと異なる異物を、無差別かつ徹底的に破壊しようと暴れ狂う。
クラス5の肉体が次々と食い荒らされ、耳を覆いたくなるような惨叫が響き渡る。
黒濁した液体が泥土に滴り落ち、無数に生えた腕や脚が削ぎ落とされていく。
そのあまりに異様な光景に、思わず息を呑んでしまう。
目の前でクラス5は、必死に防御の構えを取っていたのだ。
まるで──自らの体内にある『大切な何か』を、懸命に庇い立てするかのように。
巨大な腕が振り回され、群がるイデアを強引になぎ払う。
その蠢きは、誰がどう見ても「守る」ための動作だった。
「イヴ……! 聞こえるか……っ!?」
声を限りに叫んでも、応答はない。
吹き荒れる風と凄絶な咆哮、そしてイデアの打ち鳴らす不気味な金属音だけが夜に響き渡る。
降りしきる雨が油と血を混交させ、足元をどす黒く染め上げていく。
イデアの津波は、ますます密度を増していく。
刀身が血と油で滑り、限界を迎えた体から荒い息が漏れる。
(このままじゃ……間に合わない……!)
クラス5の咆哮が、再び空を震わせた。
巨大な腕が振るわれ、イデアの群れをなぎ倒す。
けれどその挙動は明らかに鈍り、巨体の至る所から黒い汁が激しく噴き出していた。
もう……限界は目に見えている。
歯を喰いしばり、再びイデアの渦中へ踏み込んだ。
斬り伏せ、弾き返し、地を蹴る。
今の俺には、レプリカだった頃のような力は残っていない。
それでも軋む全身に鞭を打ち、ただイヴの元へと疾走する。
全身を苛む痛みを殺し、ただ前へ。
イヴを取り戻す──それだけが、今の自分に残された唯一の存在理由だった。
◇◇◇
暗闇の底で、私の意識が静かに戻ってくる。
最初のイヴが残した果てしない記憶が、私の中で確かな形を取っていく。
悲しみも、揺るぎない決意も、愛も、覚悟も──その全てが、今の私の血肉となる。
全ては、二人を「人間」として未来へ繋ぐための物語だった。
繰り返された偽物のコードに刻まれていたのは、何よりも重く、歪んだ愛だった。
私はその愛を──今、確かに受け継いでいる。




