第三十九話 はじまりの物語
雨が降りしきるセントラル跡地に、クラス5の劈くような狂気の咆哮が響き渡る。
それは絶望を孕みながらも、どこか悲痛な響きを帯びていた。
ウイルスに侵食される苦痛への叫びなのか、それとも待ち望んでいた瞬間への歓喜の声なのか。
「ッ……! なんて声だよ……!」
空間を揺らすほどの絶叫に、思わず耳を塞いで顔を歪める。
全身に凄まじい振動が伝わり、足元の水たまりから雨粒が激しく弾けた。
やがて、ゆっくりと咆哮が収まり始める。
クラス5は俯いたまま、濁った金色の髪を地面に引きずりながら、おぼつかない足取りで歩みを進めた。
「イヴ、来るぞ……!」
お互いに視線を交わし、目の前の異形へと武器を構える。
あの教会で相対した時に比べれば、威圧感も絶望感も確かに小さく感じられた。
だが、それ以上に言いようのない、あの時以上の狂気が肌を突き刺してくる。
「楽……園。うふフアハはは。二人の……」
クラス5は、うわ言のように言葉を零す。
そして、俯いていた頭部をゆっくりと持ち上げた。
「……え……?」
思わず声が漏れてしまった俺の目に、信じられない光景が飛び込んでくる。
それは、裂けそうなほど大きな口に笑みを浮かべながら、大粒の透明な涙を流す姿だった。
とても人間とは思えない異形に、張り付けられたような狂気の笑み。
そして、それに到底似合うはずのない、あまりにも綺麗な涙。
背中から生えた無数の腕の1本が、俺へと伸びるように、体を引きずりながらゆっくりと近づいてくる。
その異様な様子に、俺は何故か身動き一つできなかった。
おぞましいはずの目の前の異形から、懐かしくて大切な匂いを、俺の心の奥底が感じ取ってしまったからだ。
その刹那、俺の中で懐かしくも心を締め付ける映像が激しく駆けめぐる。
──これは……記憶……?
(……カインがいい)
(ふふっ、じゃあ私はイヴだね)
ガラス越しに響く、愛しい人の声。
名前すら忘れていた俺に、名前をくれた彼女の姿。
(イヴ……君は……生きて)
(いや……いやぁ……カイン……!)
やせ細った手で初めて触れた、君の髪。
普段の凛とした面持ちは、涙と鼻水で濡れながらも、誰よりも美しく輝いていた。
(さようなら……イヴ)
(俺の一番……大切な人)
これは……俺のオリジナルの記憶?
じゃあ、あの子は最初のイヴ……。
「はぁ……はぁ……!」
頭が割れるような激しい頭痛に襲われ、思わずその場に膝をつく。
「っ……! カイン! 大丈夫!?」
イヴが俺を庇うように素早く前に立ち、声をかけてくる。
二丁の霊装を手に持ち、迫り来るクラス5に鋭い警戒を向けながらも、必死に俺を案じる瞳。
「キャハふふふ。カ……イン。アアはははハ!」
クラス5は頭を不気味にカタカタと揺らし、笑みを浮かべたまま、なおも這うように近づいてくる。
ほんの少し進むたびに、肉体の一部がボトリと崩れ落ち、歩いた後には赤黒い生々しい軌跡が伸びていた。
「はぁ、はぁ……! だ、大丈夫だ……。収まってきたから……」
頭痛はじんわりと霧散するように引き、それに伴って先ほど脳裏を掠めた映像が、自分の確かな記憶として馴染んでいく。
「はぁはぁ……ふぅ……。心配かけてごめん」
頭痛が去っていくのを確かめながら、俺は刀を杖代わりにしっかりと地面を捉えて立ち上がる。
隣を見ると、イヴが心配そうな瞳を向けつつも、ふっと息を吐いて安堵の表情を浮かべていた。
今はただ目の前のことに、イヴを守ることだけに意識を集中させ、再び目の前の怪物へと武器を構え直す。
雨に濡れたセントラル跡地。
クラス5は、依然として不気味な狂気の笑みを顔面に貼り付けたまま、ポロポロと透明な涙を流し続けている。
その肉体は、ただ歩くだけでボトリ、ボトリと崩れ落ち、もはや原型をとどめていないほどウイルスに侵食されていた。生きていること自体が奇跡のような、あまりにも痛々しい姿だった。
クラス5が、ピタリと足を止める。
そして、ギロリと濁った赤黒い目で、並び立つ俺たちを見据えた。
その瞬間。ほんの、一瞬だけ。
目の前の異形が浮かべた狂気の笑みの奥に、記憶の中で見た「最初のイヴ」の面影が、幻のように重なった気がした。懐かしくて、温かい、あの日の笑顔。
だが、それは現実を拒絶するかのように、一瞬でかき消えていく。
「──来るよっ!」
次の瞬間、クラス5の背中から、おぞましい音を立てて無数の腕が勢いよく生え出た。
びっしりと蠢く腕の群れが、鞭のようにしなりながら猛烈な勢いで俺たちへと迫り来る。
「させないっ!」
イヴが叫び、二丁拳銃型の霊装から放たれた青白い閃光が腕を撃ち抜く。
俺も意識を戦闘へと切り替え、振り下ろされた腕めがけて刀を閃かせた。
スパッ、と空気を切り裂く音と共に、数本の腕が宙を舞う。
切り落とした腕は、まるで命を失った虫のように地面の上でジタバタともがいていたが、やがてドロドロとした赤黒い液状に変貌し、雨粒の中に溶けるように崩壊していった。
雨を弾き飛ばしながら、襲い来る無数の腕をギリギリのところで躱し、防ぎ続ける。
視界を遮る雨粒と激しい水飛沫の中でも、俺とイヴの息は不思議なほど同調していた。
背中を預け合いながら、的確に攻撃をいなしていく。
だが、クラス5はなおも狂気の笑みを浮かべたまま、今度は頭を抱え込むような苦悶の動きを見せ、さらに増殖したおぞましい腕を膨大に伸ばしてきた。
「くっ……!」
激しい攻防の中で、躱しきれなかった鋭利な腕が俺たちの頬や腕、足を掠め、次々と生傷が増えていく。
生温い血の匂いが、冷たい雨の匂いに混ざり合っていった。
その時だった。
「っ! ……がはっ……!」
隣で戦っていたイヴが、突然苦しそうにその場に膝をつく。
それはウイルスの侵食を必死に抑え込んでいたイヴに、一瞬だけ訪れた僅かな隙。
「イヴ……っ!」
俺が声を張り上げた、まさにその一瞬。
クラス5の背から伸びた大量の腕が、まるで獲物を捕食するかのように、うずくまるイヴを完全に覆い尽くした。
そして、彼女を包み込んだまま、引き戻されるようにクラス5の元へと猛烈な勢いで引かれていく。
「くそっ! イヴ……!!」
イヴを飲み込んだ大量の腕が、クラス5の体内へと引きずり込まれるように消えていく。
ボコボコとクラス5の全身が歪に膨らみ、彼女を完全に飲み込んでいった。
◇◇◇
(あれ……私はたしか……)
目を開くと、一寸先も見えない暗闇が広がっていた。
足元には何やら水たまりのようなものが静かに波打っている。
(クラス5と戦って……それで……)
途切れた意識を紡ぐように、懸命に記憶を探る。
幸いなことに、体は自由に動かせていた。
(ここは……クラス5の中……?)
意識が途切れる寸前、たしかに私はクラス5の無数の腕に取り込まれ、体内に引きずり込まれた感覚があった。
一体どれほど広い暗闇なのだろうか。
ここが現実ではなく、おそらく精神の世界なのだろうと直感する。
私とクラス5。最初のイヴと最後のイヴだからこそ、深く繋がってしまった世界。
私は、先も見えない闇の中をゆっくりと歩き始めた。
方向すら分からず、ただあてもなく闇の中をひたすらに進む。
足元の水たまりが音を立て、ぱちゃぱちゃと虚空に響いては溶けて消えていく。
外の様子は……カインのことが気掛かりで仕方がない。
一体何が起きているのかは分からないけれど、心の奥底で何かが「進み続けろ」と強く叫んでいる気がする。
──どれほど歩き続けたのだろうか。
時間の感覚も曖昧で、自分が真っ直ぐに進んでいるのかさえ分からない。
それでも、不思議と肉体的な疲労は感じられなかった。
歩く。ただひたすらに、どこまでも歩き続ける。
途方もない時間を歩き続けた、その時。
視界の果てに、淡く、僅かに光る小さな何かが見えた。
きっとあれが終着点。
足元で水がまとわりつくように重く跳ねる。
さらに気が遠くなるほど進み続けると、光はだんだんと大きくなってきた。
それと同時に、私の目からは大粒の涙がとめどなく溢れ出す。
(どうしてだろう……。すごく、すごく悲しい)
溢れる涙を拭うこともせず、私はひたすら歩き続けた。
そして、ようやくたどり着く。
暗闇の中で光っていたもの。
それは、一冊の本だった。
始まりの物語が綴られた、とても古い本。
そして、イヴとカイン、二人だけの、私たちの大切な名前が刻まれた本。
私はそれをそっと手に取る。
本のタイトルは、『楽園の物語』。
世界の始まりの物語。
そして……私たちの始まりの物語。
手に取ると、本のタイトルがゆっくりと、誰かに書き直されるように変化していく。
そして、現れたのは、これまで何度も何度も目にしてきた言葉だった。
『楽園計画』
やっと分かった。
クラス5……最初のイヴが、本当は何を望んでいたのか。
私は……ううん、あなたは、ただ二人で生きたかったんだね。
それがたとえ世界を滅ぼすことになったとしても。
自分が自分でなくなってしまったとしても。
おとぎ話のように幸せな、二人のためだけに。




