第三十八話 ただ一つの小さなわがまま
乾いた冷たい風が、カラカラと音を立てて吹き抜けていく。
管理者の手から完全に切り離されたアストランの跡地は、わずか数日の経過ですら痛々しいほどの風化を見せ始めていた。
崩れ落ちた建物の隙間や、あちこちに転がる数多のレプリカの残骸には、どこからともなく小さな虫たちが群がり、異様な気配を漂わせている。
どこまでも広がる圧倒的な静寂。
その冷たい空間の中では、私たちが踏みしめる足音だけが虚しく響き、やがてかき消されるように消えていった。
「……雨が降ってきそうだね」
ぽつりと呟いた私の声に合わせるかのように、先ほどまで穏やかに晴れ渡っていた空が、まるでこれから起こるであろう救いなき狂気を体現するかのように、みるみるうちに暗く重たい雨雲へと覆われていく。
肌を突き刺すような冷たい風が、崩壊したアストランの残骸をすり抜け、私の震える肩を通り過ぎていった。
ここは、私がこの手で滅ぼした偽物の楽園。
繰り返される終わりのない絶望の輪廻から、かけがえのない大切な人を救うためだけに、選んだ末の結末。
後悔はしていない。いや、後悔なんて出来るはずが無い。
この街も、そして君を取り巻く世界のすべてすらも、かつての、そしてこれからの君を苦しませるだけの呪いに満ちていたから。
だからこれは、私が背負うべき罪。
この偽物の、不完全な肉体を蝕み続ける痛みは、きっと私に対する世界からの正当な罰なのだろう。
私も、あの忌まわしい監視者たちと何ら変わらないのかもしれない。
「人間」という本物の光を手に入れるためにレプリカたちを利用し、私とカインの運命を歪ませた彼らと同じように。
たった一人の命、たった一人の大切な人を救うためだけに、この偽物の世界を滅ぼすことを選んだ私。
すべてが滅び去り、奇跡的に二人で目覚めた時に感じたものは、決して贖罪の念でもなければ、耐え難い後悔でもなかった。
そこにあったのは、ただ「カインが生きている」という事実に対する、胸が張り裂けそうなほどの安堵と、溢れんばかりの感謝だけ。
私はどこまでも残酷で、身勝手な人形。
こんなにも罪深い私が、許されることなどないのは分かっている。
それでも……今まで仕組まれた運命を何度も繰り返させられ、愛情すらもプログラムされた偽物の世界をたった一人で耐え抜いてきた私にとって、これは最初で最後のわがままだった。
「普通に生きてみたい」なんて、そんな当たり前の願いを抱くことすら、許されないのだろうか。
ただ君と並んで歩き、同じ景色を見て、隣で笑い合っていたい。
それだけの、ほんの小さなわがまま。
もしもこの世界に神様なんてものがいるのなら、私のことはきっと、心の底から大嫌いなのだと思う。
何年も、何十年も先まで長く生きたいなんて、そんな贅沢は言わない。
本当はちょっぴり……ううん、本当はずっと一緒に、ずっと先まで生きていたいけれど。
今はただ、もう少しだけ――ほんのもう少しだけ、カインと一緒にこの時間を歩ませてほしい。
遠くへ旅行に出かけたり、見たこともないいろんな食べ物を二人で分け合って食べて、くだらないことで笑い合い、そして穏やかな夜には並んで眠りたい。
そんな夢みたいな未来を、心から願ってしまう。
だからこそ、この忌まわしい、仕組まれた運命の輪廻を私の手で終わらせる。
クラス5……最初の「イヴ」にもう一度向き合えば、きっとすべての答えが出るはずだから。
私は自身の肉体の奥底で、今まさに静かに牙を剥く痛みを、必死に、ただひたすらに押し殺した。
「もうすぐだね……カイン」
私の言葉に、カインは力強く頷いてみせる。
その静かな瞳には、揺るぎない決意と、まだ消えていないかすかな希望の光が宿っていた。
「ああ。……それにしても、体の調子はどうだ?」
刻一刻とウイルスに侵されていく私を気遣い、心配そうに声をかけてくれるカイン。
「うん、大丈夫だよ。痛みもないし、体もちゃんと動くから」
私は気付かれないように、少しだけ大げさに、明るく振る舞ってみせる。
君はあまりにも優しすぎるから、これ以上心配をかけたくなくて、つい強がってしまうんだ。
「そうか……。なら、雨が本格的に降り出す前に行こう」
カインはそれ以上深く追及することなく、優しく頷いてくれた。
それでも、私の歩幅にしっかりと合わせ、足元がおぼつかない私をカバーするようにそっと歩みを進めてくれる。
足元には鋭い瓦礫が散乱し、時折見え隠れする割れた大地が、まるでこの世界の行く末を嘲笑うかのようにすべてを飲み込もうと口を開けていた。
この先――アストランの残骸を抜けたその場所に、クラス5は待ち構えている。
どうして、彼女はこの忌まわしい場所を選んだのか。
あのセントラルが崩壊した日、私の体に取り込んでいたクラス5の一部から流れ込んできた記憶と感情。
それは、あまりにも強烈な羨望と、底知れぬ憎悪だった。
人間の形を持ったレプリカたちへの歪んだ羨望と、過酷な運命を課してきた世界への憎悪。
彼女は、どうしてそこまでの絶望と憎悪を募らせてしまったのだろう。
オリジナルのカインは崩壊して死んでしまったというのに、レプリカという人形がその姿を持っていたことへの怒り?
拭い去れない狂気と、底なしの憎悪にその身を浸しながらも、クラス5の行動にはどこか明確な「目的」があるように感じられてならなかった。
本当に彼女は、完全に精神を崩壊させてしまっているのだろうか……?
そんな複雑な思索が、私の頭の中をぐるぐると駆け巡り、現実の音を遠ざけていく。
「……イヴ……っ!」
「……っ、イヴ! 大丈夫か? 雨脚が強くなってきた、急ごう」
いつの間にか私は、カインの呼び声すら耳に入らないほど深く考え込んでしまっていたらしい。
「え……? あ、ごめんねカイン。うん……そうだね、急ごう」
そう答えた私の頬に、冷たい雨の一雫がぽつりと落ちてきた。
空はすでに完全に重たい雨雲に支配され、あたり一面にぽつぽつと小さな雨粒が降り注ぎ始めている。
冷たい雨足が次第に強くなり始めた頃、私たちは再びあの忌まわしい場所へと帰ってきていた。
目の前にそびえ立つセントラル跡地は、かつての面影など見る影もなく、大部分が崩落し、辛うじて残った無残な建造物が歪なシルエットで空を突き刺している。
あの崩壊の中心に、クラス5が私たちを待っている。
私はぎゅっと両手を握りしめ、隣に立つカインへと視線を向けた。
お互いに言葉はなくとも、静かに頷き合い、ゆっくりと崩れた瓦礫の中へと足を踏み入れていく。
セントラル跡地の内側は、数日前と何も変わらない冷酷な光景が広がっていた。
足元を埋め尽くす大量の瓦礫と、無残に散らばったレプリカやイデアたちの残骸。
崩落の衝撃に耐えきれず、辛うじて残った建造物の壁面からは、絶えずパラパラと細かな土煙が上がり、冷たい雨に打たれてほんの少しずつ崩れていく。
湿った土と瓦礫の匂いが雨によって引き立てられ、あたりには何とも言えない独特の匂いが鼻腔を突いた。
崩れかけた瓦礫の隙間を縫うように、私たちは付かず離れずの距離感を保ったまま進んでいく。
何が起きたとしても互いを瞬時にカバーできるように、すでに私たちの手にはそれぞれの武器が握りしめられていた。
あれほどまでに全身を激しく侵食し、神経を蝕んでいた霊装は、適合率が7%まで落ちた今、声が響いてくることもなく奇妙な沈黙を保っている。
私が未だに「不完全な人形」であることの証拠でしかないその霊装が、皮肉にも、いまの私を繋ぎ止める数少ない防壁となっていた。
「……静かだな」
前を歩くカインが、ぽつりと声を漏らす。
その声は、降り注ぐ雨の音とともに、冷たい虚無の中へとかき消されていった。
一歩、また一歩と進むたびに、足元でじゃりじゃりと小さな瓦礫の粒を踏みしめる乾いた音と、雨水を含んで重くなった大地を歩く足音が静寂を打つ。
「……ねえ、見て。きっとあの真下に……」
瓦礫の隙間からそっと顔を上げると、セントラルの中心部にそびえ立っていた巨大な装置の一部が視界に飛び込んできた。
かつて、楽園計画を管理していた、あまりにも巨大な中枢装置。
私たちはもう一度しっかりと頷き合い、互いの決意を確かめるように、始まりであり最後の場所へと歩みを進めた。
──セントラル跡地、楽園計画管理装置前。
冷たい雨が激しく叩きつける中、遠くの空で鋭い雷鳴が轟き、眩い雷光が一帯を禍々しく照らし出す。
その一瞬の閃光によって、闇の中に浮かび上がるようにして一つの異形が姿を現した。
それは、まぎれもなくクラス5──オリジナルのイヴの姿だった。
以前までの機械をベースにした無機質な姿とは異なり、数多の人間たちの肉体が混ざり合ったかのような、見る者に拒絶反応を起こさせるほど歪な容姿へと変貌を遂げている。
頭部からは、人間のものだとは思えない濁った金色の髪が、地面までだらりと汚らしく伸びて垂れ下がっていた。
「アアはは。待ってイタよ。痛くてイタくて……いっぱい、みんなと一つにナッタんだよ」
静まり返った空間に、ぞっとするほどおぞましい声が響き渡る。
それでも、かつて感じたような耐え難い死の恐怖はもうそこになかった。
目の前の圧倒的な絶望すらも、私と同じように、容赦ない死のウイルスによって蝕まれ、壊れていっているのだという真実が静かに理解できる。
「お前の……本当の目的はなんだ」
カインが前へと一歩踏み出し、クラス5に向かって鋭く問いかける。
こんな狂気に満ちた相手から、まともな答えなど返ってくるはずがないことくらい、きっと彼自身も分かっているはずだった。
それでも、聞かずにはいられなかったのだろう。
「コワイよ……苦しイ。ふふ……キャハハはアアハははッッ!」
目の前のクラス5は、限界を超えて裂けそうに大きく口部を開き、耳を劈くような不気味な笑い声とも絶叫ともつかない咆哮を周囲に撒き散らす。
「っ……! カイン!」
私の切迫した呼び声に、カインは無言で頷き返し、静かに武器を構えた。
「ごめんね、『イヴ』。私は……まだ、生きていたいんだ」
「あなたも、もう眠っていいんだよ。私たちが……ううん、私がこの長い物語をすべて終わらせてあげるから」
レプリカの世界という幻影を生み出した、最初の私。
幾度も繰り返された過酷な運命の中で、そのレプリカの世界を滅ぼすことを選んだ、最後の私。
あなたの罪も、痛みも、私がすべて背負ってあげるから。
あなたが心の底から愛したオリジナルのカインは、もうこの世界にはいないんだよ。
だから私は、私のために――そして、私たちの未来のために、この物語を終わらせる。
完全な人間へと生まれ変わったカイン。
いまだに不完全なレプリカのまま取り残された私。
救いなき憎しみにその身を焦がした、イデアの成れの果てであるクラス5。
複雑に絡み合い、あまりにも残酷で数奇な運命の糸が、今まさに音を立ててほどけようとしていた。




