第三十七話 英雄の呪縛
食事を済ませ、手早く身支度を整える。
セントラルまでの水と食料は十分に確保した。
これだけあれば数日間は何の問題もなく過ごせるであろう量。
目的地までの距離は普通に歩けば、一日と少しといったところだろうか。
道中の状況や未確定な要素を鑑みれば、遅くとも二日ほどでセントラルへたどり着くはずだ。
「イヴ、体の調子はどうだ?」
咳と鼻血、そしてクラス5との繋がり──。
それらが何の影響ももたらさないはずがない。
俺の問いかけに、イヴはただ静かに頷きを返す。
「大丈夫だよ。今は何も感じないから」
「さぁ、行こう、カイン。二人で終わらせよう」
差し出された細い手を取る。
目指す場所はセントラル跡地。すべてが始まった場所。
俺たちは確かな足取りで、始まりであり最後の場所へと歩み始めた。
体は以前のようには動かない。
それはおそらく、イヴも同じなのだろう。
だが、それはクラス5もきっと変わらないはずだ。
ウイルスによって相当な侵食を受け、生きていることすら死の瀬戸際に違いない。
ふと、脳裏に朧げな映像が浮かぶ。
ある日見た夢。
誰かが暗闇の中で、絶え間なくひたすら謝り続けていた。
イヴによく似た姿ではあったが、俺の知る彼女ではないと感じる。あれはきっとクラス5──オリジナルのイヴだ。
彼女は何を謝り続けていたのか。
俺やイヴが人間になった理由も、そこに行けばきっと。
先日来た道を戻るように歩いていく。
「ねぇ……カイン」
不意にイヴが足を止めた。
「あぁ……、これはレプリカの……」
しばらく進んだ先で目にした光景。
そこには、無数のレプリカが巨大な赤い水溜まりの中で肉塊と化していた。付近にはイデアの残骸も散乱している。
湖へ向かう途中も、時折見かけることはあったが、明らかに数が増えている。
イデアもレプリカも、肉体が完全に崩壊し果てていた。
「ウイルス……だよな」
俺の言葉に、イヴが無言で頷く。
「……そうだね」
彼女はそう呟くと、足元の悲惨な光景から慌てて視線を逸らした。
その横顔を盗み見た俺は、思わず眉をひそめる。
表情は先ほどよりも明らかに青ざめ、唇の血の気が引いていた。
大量の肉塊と化したレプリカたちの残骸。
──それは、彼女の中に眠るクラス5の記憶や、ウイルスという脅威を嫌でも思い出させる光景だ。
あの惨劇を目の当たりにすれば、気分が悪くなるのも無理はない。
「イヴ……無理はしないでくれよ」
心配になり、足を止めて彼女の顔を覗き込む。
彼女がこれほどまでに青い顔をしているのは、単なる道中の疲労か、あるいはあの悲惨な光景に当てられたからだと──その時の俺は、まだ本気でそう思い込んでいた。
完全な人間となった自分と同じように、イヴもまた無事であると信じ込んでいたからこその、ごく自然な心配だった。
「ううん……なんでもないよ。ただ、少し空気が澱んでるみたいだから……。行こっ、急がないと」
イヴは無理に頬を緩ませ、痛々しいほどの笑顔を作ってみせる。
心配をかけまいとするその健気な姿に、俺はそれ以上深く追及することができなかった。
それからしばらく、言葉のない沈黙の中を進んでいく。
乾いた地面に、足音だけがカサカサと虚しく響く。
セントラル跡地へと戻る道は、先日通った時よりも確実にイデアやレプリカの残骸が増えていた。
(……足が、遅くなっている……?)
ふと気づけば、少し前を歩いていたはずのイヴの歩幅が、次第に小さくなっていた。
背中を支えようと振り返った、その瞬間。
「っ……!」
耐えきれなくなったように、イヴがその場に崩れ折れる。
喉元まで込み上げてきた熱い液体を抑えきれず、開いた口から鮮やかな赤が零れ落ちた。
「イヴっ……!?」
俺は慌てて駆け寄り、その小さな体を両手で支える。
目の前の地面に広がる赤い染みを見た瞬間、俺の頭から血の気がサーッと引いていく。
血……? まさか……そんな……。
「ごっ……ごめん、……カイン……っ」
イヴはか細い声を漏らしながら、痛む胸を押さえて小さく身を縮こまらせた。
口元には痛々しい鮮血が残り、その息遣いは酷く浅く、荒い。
先ほどまで「何でもない」と無理に作り笑いを見せていた顔は、いまや紙のように真っ白で、生気を感じられなかった。
「喋るな……! どこかで一度休もう……!」
震える手でイヴの肩を抱き寄せ、その体温に息を呑む。
高熱に冒されているかのように火照っているかと思えば、次の瞬間には凍てつくような冷たさが伝わってきて、その矛盾に恐怖を覚えた。
頭の片隅で、ずっと蓋をしていたはずの嫌な予感が、激しい警報音が頭の中で鳴り響く。
違う。そんなはずはない。
だって俺たちはあの湖の畔で共に朝を迎え、笑い合い、人間になったんだ。
もう呪われたレプリカとしての寿命でも、終わらない悪夢の縛りでもない、確かな「未来」を手に入れたはずなのだから。
だが、現実に冷酷な思考が打ち砕かれる。
頭の中に、雷に打たれたように鮮烈に蘇る記憶があった。
──変異したウイルスは、レプリカとイデアという「不完全な存在」にのみ発症する。
そして、完全な人間となった俺には、ウイルスの兆候など一切現れていなかったという事実。
ならば、今こうして彼女の体内で暴れ、命を蝕んでいるものは何なのだ。
答えなど、考えなくても分かりきっていた。
俺の脳裏に、あの時見た数字がフラッシュバックする。
『霊装適合率──7%』
それは適合などというものでは無く、レプリカ兵器としてイヴに刻まれた呪縛だったのだ。
俺が「完全な人間」へと変貌を遂げた陰で、彼女はまだその枷を外せていなかった。
いや、外すことができず、ずっと「不完全なまま」取り残されていた。
「……気づいていたのか……な……」
俺の顔色が変わったのを察したのか、イヴは申し訳なさそうに濡れた瞳を伏せた。
「どうして……隠していたんだよ……っ! 自分がどうなるか分かっていて……!」
怒鳴りつけたいわけじゃない。
ただ、どうしようもない恐怖と、何も知らずに隣を歩かせていた自分への絶望で、声が震えて仕方がなかった。
イヴはゆっくりと首を横に振り、消え入りそうな声で呟く。
「言ったら……カインが、悲しむから……。せっかく、二人で人間になれたって、笑っていたのに……」
イヴは震える小さな手を伸ばし、俺の頬にそっと触れる。
その指先すら、冷たく冷え切っていた。
「でも……進むしかないから……。命を捨てるつもりなんてないよ。私もカインと生きたいから進むって決めたの」
俺はイヴを優しく抱き上げ、近くの木陰にそっと下ろす。
壊れてしまいそうなほど華奢な背中が、小刻みに震えていた。
「ごめんね、カイン……。私の体は、まだ完全な人間にはなっていないみたい」
「ウイルスが発症しているんだな……?」
俺の問いかけに、静かに頷くイヴ。
「うん……。でも、幸いなことに進行はかなり遅いみたい。だから……まだ大丈夫」
イヴはゆっくりと深呼吸をし、静かに体の震えを鎮めていく。
だが、顔色は万全とはとても言えるような状態ではなかった。
「ふぅ……。少し落ち着いたみたい。そんな顔させて、ごめんね……?」
イヴは今にも泣きそうな俺の顔を見つめ、弱々しく静かに微笑む。
「私が完全な人間になれなかったのは……もしかしたら罰なのかな」
「罪もない、何も知らないレプリカたちも犠牲にして計画を止めようとした、罰なのかな……」
その言葉に、俺は強く首を横に振る。
「そんな……そんなことあるか! きっと何かの間違いだ……俺だけが人間になるなんて──」
その瞬間、脳裏にある考えが浮かび上がる。
俺はどうして人間になったのだろう。
それは監視者たちの計画にはなかったはずだ。
あの時、死んだはずの俺たちは人間として生き返った。
いや……人間として作り直されたのか?
誰が、何のために。
もしかすると……イヴだけが僅かに「不完全なまま」なのは、偶然なんかではなく必然だったとしたら。
そして、セントラルで待つと言ったクラス5。
これは全部、繋がっている……?
「どうしたの……? そんな難しい顔をして」
息を整えたイヴが、考え込む俺の顔を覗き込む。
「いや……なんでもない……。それより、もう平気なのか……?」
イヴは俺の答えに少し不思議そうな顔をしながらも頷く。
「うん……落ち着いたよ。それに……セントラルに行けば、解決策も見つかるかもしれない……でしょ?」
イヴは俺の考えを言い当てるような様子を見せる。
やっぱり……イヴには勝てそうにない。
「……ああ。可能性はゼロじゃないと思う」
「ゼロじゃないなら……十分だよ。よしっ! 何が待っているかは分からないけれど、二人なら大丈夫だよね?」
イヴはゆっくりと腰を上げると、お尻の土を払うような仕草をして優しく笑う。
「もう隠すのはなしだぞ……」
俺の言葉に、イヴは小さく頷いた。
イヴの体の調子を気にしながら、再び歩き始める。
幸いなことにウイルスの進行速度は遅いらしく、あれ以降血を吐くことはなかった。
ただ時折漏れる乾いた咳と、わずかに遅くなる歩み。そのたびに足を止め、休みながら確実にセントラル跡地へと近づいていく。
もし、俺の考えが間違っていないのなら。
俺とイヴは……いや、レプリカたちもすべて、きっと最初から──。
「カイン。ほら……あそこ」
イヴが指差した、その先。
荒廃した大地を抜けた視界の先に、かつての楽園での中枢であり、すべての始まりの地「セントラル」の巨大なシルエットがそびえ立っていた。
高く伸びた建造物は一部を残してすべて崩落し、まるで巨大な墓標のように俺たちを待ち構えているかのように鎮座している。
そこまでの距離は、もう遠くなかった。
イヴの顔色も、あの時に比べれば幾分かマシになっている。
「……歩けるか?」
「うん……一緒に行こう」
二人でしっかりと手を繋ぎ、視界の果てを見つめる。
ウイルスは確実に、彼女の肉体を蝕み始めている。
残された時間はきっと長くはない。
手から伝わるイヴの体温と確かな感触から、生きたいという願いと、すべてを終わらせたいという覚悟が伝わってくる。
カサ、カサと乾いた足音が、荒廃した大地に響く。
周囲には、以前と変わらず大量のレプリカやイデアの残骸が転がっていた。
赤い水溜まりは既に風化し、錆のような色となって地面を染め上げている。
かつてレプリカたちが築き上げた偽物の楽園の成れの果て。
その中心地であるセントラルへ向けて、俺たちはただ前だけを見て歩みを進める。
枯れた大地に乾いた風が、まるで死の咆哮のように音を立てて吹き荒れていた。




