第三十六話 不完全な命
36
肌を撫でる冷たく爽やかな風に目が覚める。
湖面には朝日がキラキラと反射し、幻想的な光景が広がっていた。
俺達は結局、あのまま眠ってしまっていたらしい。
ゆっくりと体を起こし、伸びをしながらあくびを漏らす。
こんなにも心地のいい朝は、生まれて初めてかもしれない。
「ふわぁ。イヴは……まだ眠ってるのか」
隣に目をやると、イヴが小さな体を丸め、繋いだ手にしがみつくように寝息を立てていた。
オレンジ色の髪に朝日が透け、風を受けてサラサラと美しく揺れている。
俺が起こそうと手を伸ばしたその時──小さな異変に気がついた。
イヴの額にはじんわりと汗が滲み、身体がかすかに震えている。
俺の手にすがるようにしがみついていたのは、悪夢の恐怖に耐えていたからなのだと理解した。
俺はもう片方の手で、イヴの頭を優しく撫で下ろす。
すると震えが少しずつ収まり、それと同時にハッと跳ね起きるように目を覚ますイヴ。
「──ッ! はぁ……はぁ……。あれ? おはよう……カイン」
「おはよう、イヴ。悪い夢でも見ちゃったのか?」
イヴは深く頷くと、少し声を震わせながら話し始めた。
「夢……なのかな。ううん……あれはきっと夢じゃないと思う」
「私がレプリカをいっぱい殺す夢を見たの。笑い声を上げながら、次々と殺しては取り込んでいた……」
怯えを隠しきれず、身体を小さく震わせるイヴ。
「でも、赤い水溜まりに映った姿は私じゃなくて……あれは多分、クラス5だった」
俺はその言葉に、思わず聞き返してしまう。
「クラス5……? 一体どういうことなんだ?」
「ほら……あのセントラルで、私はクラス5の一部を取り込んだって言ったの覚えてる? きっとそれで、本体のコアと繋がりが生まれてしまったんだと思う」
「だから夢なんかじゃなくて……クラス5の目を通して見た現実だと思うの」
たしかにイヴはあの時、クラス5の一部を取り込んだせいで憎悪を抑えきれず、狂気に身を染めていた。
繋がりが生じたのは取り込んだことだけが理由ではなく、同じ「イヴ」という存在だからこそ響き合ってしまったのだろうか。
「クラス5が言ってたの。……セントラルで待つって」
セントラルか……。
既に崩壊し、もはや何も残されていない廃墟と化しているはずだ。
それとも、俺達はまだ何か重大なことを見落としているのだろうか。
俺とイヴに関する決定的な何かを。
「終わらせよう……イヴ。今度こそ……二人のために」
俺の言葉に、イヴも力強く頷く。
「うん……そうだね。……けほっ、けほっ」
その時、イヴの口から乾いた咳が漏れた。
なんてことはない、単なるむせ込みのはず。
それなのに何故か、俺の胸には一抹の不安が密かに渦巻き始めていた。
「大丈夫か……?」
「だ、大丈夫だよ! こんな外でそのまま寝ちゃったから、砂でも入ったのかな?」
心配する俺に、イヴはどこか大げさな仕草で笑みを浮かべて見せた。
頭の中で、考えたくもない嫌な予感がぐるぐると駆け巡る。
そんなはずあるわけがない。
だって俺達はもう、人間になっているのだから。
「もう……そんな怖い顔しなくても大丈夫だよ! ほら、お腹空いたしご飯食べよ?」
イヴは満面の笑みを咲かせると、キャンプの中心で薪を焚べ始めた。
「そうだな……気のせいだよな。手伝うよ、イヴ」
俺は不穏な思考を振り払うように立ち上がり、イヴの元へと向かう。
朝食は昨日獲った魚を再び焼いたもの。
昨日のことを思い出しながら、不器用に木の棒を突き刺し、焚き火の周りに立てていく。
香ばしい匂いが辺りに充満し、自然と食欲が刺激されていった。
焚き火の上には器が設置され、中に入った透明な水がポコポコと泡を立て、白い蒸気を上げている。
「これは……湖の水か」
俺の言葉にイヴが頷く。
「うん、これで水も飲めるようになるはず……。本当に、人間って不便だよね」
そんな弱音を口にしながらも、イヴは穏やかな瞳で揺れる炎を見つめていた。
そして、静かに口を開く。
「クラス5……何が彼女をあそこまで動かしているのかな。私が夢で見た姿は、崩壊しながら無理やり生きているような……そんな姿だった」
「私達に執着する理由……」
イヴは思案するように視線を落とし、チラリと俺の方を見つめた。
「クラス5は……オリジナルイヴ……。もしかしたら、彼女の本当の目的は君なのかも……」
「俺……? 俺が恨まれてるのか?」
不思議そうに問い返す俺に、イヴはキョトンとして首を横に振った。
「違うよ、きっと……その逆。楽園計画……覚えてる?」
楽園計画。
俺とイヴの運命を狂わせた恐ろしい計画。
その計画のせいでイヴは絶望に染まり、アストランを滅ぼしてまで阻止しようとした悪魔の企み。
監視者たちの歪んだ欲望によって生み出された、すべての元凶。
忘れられるはずがない。
「私……ずっと考えてたの。今……どうして私達が人間なのかって」
「もしかして……それも楽園計画の内だ、なんて言わないよな?」
俺の問いかけに、イヴは頷くことも首を横に振ることもしなかった。
ただ自身の深い記憶を手繰り寄せるようにじっと考え込み、ゆっくりと語り始める。
「最初の私が作った楽園計画は、私と君のレプリカに記憶と精神を引き継がせて生きていく計画。蔓延する死のウイルスから逃れて、二人の楽園を作り出そうとした……」
初耳だった。
楽園計画を生み出したのが最初のイヴだったことも。
自分のオリジナルが6000年前の人間だったことも。
そして6000年前、すでに俺とイヴのオリジナルが出逢っていたことも。
イヴはさらに言葉を重ねる。
「カインがウイルスを発症して、それを救うために最初の私が計画を生み出したの。でも……重大な欠点がどうしても解決できなかった」
「重大な欠点……?」
「レプリカの寿命だよ。一年しか保たない肉体は、最初の私をもってしても覆せなかった」
イヴが明かした重大な欠点。
レプリカ技術を生み出したオリジナルのイヴですら、抗うことのできなかった命の限界。
その瞬間、俺の脳裏にある恐ろしい疑念が浮かび上がる。
オリジナルイヴは、二人のための楽園計画を作り上げた。
だが、そこには「一年」というレプリカの寿命の問題が存在した。
──もしもその問題を解決する答えが『人間になること』だとしたら……?
「イヴ……まさか……」
俺の思い至った恐怖を察したように、イヴも静かに頷いた。
「うん……あくまで推測だけど。もしかしたら……楽園計画は最初から、こうなることが決まっていたのかもしれない……」
俺はその言葉をすぐには受け入れられなかった。
もし……仮にそれが事実なのだとしたら。
俺とイヴが何度も巡り逢いを繰り返し、世界を滅ぼすほどの凄惨な運命をイヴに背負わせたことすら、すべて最初から仕組まれていたとでも言うのか……?
それもすべて、遠い未来で二人を「人間」として生まれ変わらせるための、途方もない計画だったとでも……?
「そんな……そんなことあるわけ……」
「うん……そんな訳あるはずないよね……。ごめんね、私の記憶も何度も作り直されたせいで曖昧だし、最初の記憶は途中で途切れてるから……これ以上は分からないんだ」
イヴは目を伏せ、申し訳なさそうに声を落とした。
「イヴが謝ることじゃないよ。ほら……魚が焼けたみたいだ」
俺は焼き上がった魚をイヴに手渡す。
静けさが漂う中、二人で静かに魚を口へと運んだ。
「あいつに……クラス5にもう一度会えば、きっと全てが分かるはずだ。だから今は、少しでも力をつけないと」
俺の言葉にイヴは小さく頷き、魚を少しずつ噛み締めていく。
頭を渦巻く思考を振り払うように、俺たちは黙々と食事を続けた。
いくら考えを巡らせたところで、今ここで答えが出るはずもない。
クラス5がどんな目的で生き永らえ、何のために動いているのかも分からない。
けれど──俺たちはもう、絶望に飲み込まれたりはしない。
二人で生きていきたい。
人間として、イヴとこれからの未来を共に歩むんだ。
……だが、俺はその時まだ、気付いていなかった。
いや……本当は心の中で微かに察していたのに、恐怖のあまり固く蓋をして目を背けていただけだったんだ。
イヴの霊装適合率が「7%」を示していた、その本当の意味。
そして、先日の鼻血と、今漏らした小さな咳。
変異したウイルスは、レプリカとイデアという「不完全な存在」にのみ発症する。
現に──完全な人間となった俺には、何の症状も現れていない。
そして霊装とは、計画を遂行するレプリカのために調整された兵器。
それが未だ7%とはいえ、イヴに「適合している」という残酷な事実。
イヴはまだ──「不完全なまま」だった。




