第三十五話 狂気の底
──アストランより北に約15キロ地点。
そこは、かつて人類が余暇を過ごすために建設された巨大な商業施設。
数千年という膨大な時間の経過により、建物は植物に侵食され、大部分が崩れ落ちていた。
先の大地震の影響はここでも大きく、地面は裂け、あらゆる生物を拒絶するかのような惨状を晒している。
わずかに残った建造物すら崩落の危険性を孕み、誰も立ち入ることのない廃墟──その暗がりに、蠢く影が幾つかあった。
「ママ……怖いよ……。けほっ、けほっ……」
幼い子どもが、母親と見られる人物にしがみついている。
その周りでも、数十人の人々が身を寄せ合うようにして恐怖に怯え、隠れていた。
彼らは、アストランから逃れ出たノースシティのレプリカたちだ。
運よくイデアの目から逃れ、ウイルスも未だ発症していなかった。
街から命からがら逃げ出してきた彼らには行くあてなどあるわけもなく、偶然見つけたこの廃墟で、ただ震えながら身を潜めていたのだった。
「大丈夫……。大丈夫だからね……。きっと兵隊さんたちが何とかしてくれるから」
母親らしきレプリカが、優しく頭を撫でながら微笑む。
だが、彼女はすでに理解していた。
あのアストランが抵抗すらできずに滅び去った以上、防衛部隊はイデアの群れによってとうに全滅しているであろうことを。
それでも、恐怖に怯える目の前の子どもを必死に守ろうと、溢れ出す絶望を力任せに押し殺していた。
「どうして俺たちがこんなことに……嫌だ……死にたくない……」
一人のレプリカが頭を抱えてうずくまる。
伝染するように、恐怖が周囲へ広がっていく。
イデアによって貪られ、無残な肉塊と化した住人たち。そして、謎の気体に触れ、全身を崩壊させながら死んでいった無数の人々。
その凄惨な光景が、全員の脳裏に何度も、何度もフラッシュバックする。
彼らは知らなかった。
いや、知る由もなかったのだ。
自らが『レプリカ』という名のただの人形で、自分たちを襲うイデアこそが本来の人類であるという事実を。
割れた大地から噴き出した謎の蒸気が、レプリカとイデアを等しく滅ぼすための死のウイルスであることを。
そして──自分たちが今まさに滅ぼされようとしている理由が、ただ一人の少女の怒りと憎悪によるものだということを。
彼らが今抱いている『恐怖』という感情すら、本物なのかどうか知る者はいない。
記憶も、人格も、家族や友人との絆すらも偽物だということを知らないレプリカたち。
いま必死に手を握りしめる幼子すらも、与えられたただの人形に過ぎないことなど、知る術もなかった。
彼らに課されていた役目は、ただ街の住人として暮らすこと。
イヴやカインといった計画の主軸となるレプリカに対し、変わらぬ住民として接し、彼らの世界を構築するためだけの舞台装置。
アストランとは、監視者たちの計画のために用意された小さな箱庭に過ぎなかった。
しかし、それを管理していたセントラルすら滅び去った今、レプリカに残された道は緩やかな滅びのみだった。
「くそっ……! 嫌だ嫌だ! こんな危険な場所にいられるか! 俺は──」
怯えきっていたレプリカの一人が立ち上がり、言葉を吐き捨てたその時。
言い終わる間もなく何かが眼前を通り過ぎ、どちゃりと音を立てて上半身が崩れ落ちた。
「いやぁぁぁァァァッ! 嫌! 私は死にたく──」
レプリカたちは一瞬でパニックに陥った。
発狂したように髪を振り乱して駆け出した者が、また惨痛な音を立てて崩れ去る。
辺りにどくどくと赤い池が広がっていく。
そして──暗がりから、ゆっくりと『ソレ』が姿を現した。
「駄目ダヨ。どうせみんな終ワル。ふふ、アハハは」
物陰からズルリと引きずり出される身体。
自らの手で破壊したレプリカの肉塊を貪るように取り込み、異形の笑みを浮かべるクラス5。
レプリカたちはあまりの光景に悲鳴すら上げられず、ただガタガタと震えることしかできなかった。
「みんな一つにナロう。怖くナイから」
数多のレプリカやイデアを取り込み続けた結果、クラス5の姿は醜悪な変貌を遂げていた。
ガラクタを貼り付けたようだった機械の肉体は、生々しい柔らかさを帯びた肉の塊となり、頭部からは濁った金色の髪のようなものが地面を引きずるほど長く垂れ下がっている。
レプリカとイデアが混ざり合い、かつてのオリジナル・イヴの面影が歪に滲み出る、あまりにも悲惨で醜い姿。
「ふふ、ハハは。もうスグ……。もうすぐ終わるカラね、『カイン』。アァ……カイン? 誰ダロう。イタイイタイ。くるシイ。アハハは、キャハふふハハ!」
もはや人間としての理知など存在しない。
それでもたった一つの目的のためだけに、ウイルスで崩壊していく肉体を恐ろしい執念で繋ぎ止め、生へとしがみついていた。
「……た、助けてください……お願いしま……す……!」
母親のレプリカは、我が子を抱きしめながら声を震わせ、必死に乞う。
意味などないと分かっていながらも、目の前の絶望から逃れようと頭をすり寄せる。
クラス5は、裂けそうなほどの笑みを深めた。
口に当たる部位から、赤黒い液体がぼとぼとと垂れ落ちる。
「アハハは。どうせ死ヌのに? じゃァ、そっちだけ逃ゲテイイよ」
クラス5は全身を軋ませながら、母親の腕の中で震える子どもを指差した。
「ホら、気が変わらナイ内にネ」
その言葉を聞いた母親は、ぼろぼろと涙を流しながら我が子を押し出し、悲痛な叫びを上げる。
「っ……! 逃げてっ! はやく……振り向かないで……ッ!」
子どもは訳も分からず、ただ声を上げて泣き叫ぶ。
それでも母親の張り裂けんばかりの声に従い、背を向けてヨロヨロと走り出した。
「うっ……うぅ……生きて……お願い……」
母親は俯いて涙を流し、自らの命が奪われる瞬間を静かに待つ。
こんな過酷な世界で幼子が生き延びることなど不可能だと分かっていながら、それがほんのわずかな時間稼ぎに過ぎないと気づきながら。
──どちゃ。
何かが潰れ落ちる重い音が響いた。
今まさに子どもが駆け出したその先から聞こえてきた、何かが弾けて撒き散らされる音。
ゆっくりと、母親が顔を上げる。
視界の先にあったのは──生きようと必死に逃げ出した我が子が何かに貫かれ、引き裂かれて崩れ落ちた姿。
わずかに原型を留めたまま、赤い水たまりの中に散らばる幼い命。
「いやぁぁぁぁァァァァッッッ!」
「アァ……イイね。それが必要ダった。アア、ハハは」
クラス5は、貼り付けたような満面の笑みを浮かべ、カタカタと狂おしく身体を震わせる。
「君の、オマエの……怒りが。憎しミが」
目の前で起こった惨劇に、母親の精神は完全に崩壊していた。壊れたおもちゃのように小さく笑みを浮かべている。
クラス5はゆっくりと目の前まで這い寄ると、裂けんばかりに口部を開き、彼女を貪るように取り込んだ。
クラス5は絶望に引きつる残りのレプリカたちも、同じように惨殺しつくして身体に取り込んでいく。
崩れ落ちるたび、新しく人間の肉のようなものが芽吹き、全身を覆っていった。
「馴染む……。アァ、素晴らシイ。アハは、君にはきっと伝わっテいるんダロう?」
「第四研究所跡……セントラルで待っテいるよ。キャハ、アハハは! それで終わりにシヨう」
ウイルスに侵食され、崩れゆく身体を引きずりながら、彼女はゆっくりと歩み出す。
向かう先は、セントラル。
すべての始まりの場所──旧第四研究所跡。
最初のイヴと、最後のイヴ。
その二人が再び交わるとき、ようやく『楽園』が終わる。
壊れた身体を引きずり、暗闇の奥へと消えていく異形。
ふと足を止め、誰もいない空を見上げたその顔に、ほんのわずかだけ狂気のない、愛おしそうな影が差す。
そして──幼子のような澄んだ声で、ぽつりと漏らした。
「……もうすぐだよ、カイン」




