第三十四話 青く澄んだ時間
両足に疲労がたまり、全身に汗がにじみ出した頃──ようやく目的の場所へと辿り着く。
目の前に広がるのは、どこまでも巨大な水たまり。
湖面が太陽の光を反射してキラキラと輝き、穏やかな風が静かな波を立てていた。
「すごいな……これが全部水なのか」
初めて目にするその光景に、思わず心を奪われる。
対岸すら見えないほど、視界の果てまで広がる蒼い世界──。
「そっか、カインは湖なんて初めてだもんね」
イヴが俺の手を引き、楽しそうに水際へと駆け出していく。
バシャバシャと音を立てて水面が揺れ、きらびやかな水滴が跳ね上がった。
澄み渡る水底を、小さな生物たちがすばしっこく泳ぎ回っている。
「綺麗だな……。それに冷たくて気持ちいい……」
しゃがみ込み、指先で水面に触れていた──その時だった。
ドンっ!
「………えいっ! あはははっ!」
背中を思いっきり押され、俺は情けない声を上げて水の中へ豪快に転倒する。
盛大な水しぶきが上がり、全身が一瞬でびしょ濡れだ。
イヴは悪戯っ子のように、くすくすと可愛らしく笑っている。
「……やったな? 覚悟はできてるんだろうな……?」
不敵な笑みを浮かべ、じりじりと距離を詰める俺。
「え、えへへ……」
逃げ遅れたイヴを抱きかかえると、彼女は上目遣いで甘えるような視線を送ってきた。
「カ、カインさーん……許してほしいな……?」
「……だーめ。そらっ!」
俺はニヤリと笑うやいなや、イヴを勢いよく湖へ投げ飛ばす。
バシャーン!と大きな水音とともに、イヴの悲鳴が響き渡った。
「きゃあっ!」
イヴは全身から水滴を滴らせ、ゆっくりと立ち上がる。
淡いオレンジ色の髪が濡れて頬にしがみつき、どこか大人びた艶やかさを漂わせている。
「……ぷっ。あはははっ! 二人ともびちゃびちゃだね!」
顔を見合わせ、声を合わせて笑い合う。
先ほどまでの全身の疲労感など、いつの間にか吹き飛んでいた。
火照った身体を冷たい水が癒やし、胸の奥を心地よい爽快感が満たしていく。
それからはもう、幼い子供に戻ったかのように夢中で水をかけ合って遊んだ。
初めて体験する湖の冷たさ。
きっと「旅行」とはこんな感覚なのだろう──胸の奥を穏やかな充足感が満たしていく。
今、自分はたしかに「生きている」。その強烈な実感がそこにあった。
気が済むまで遊んだ俺たちは、砂浜に簡易キャンプを設営した。
濡れた髪を指でかきあげながら、服をぎゅっと絞るイヴ。
水分を含んだ布地が肌にしがみつき、彼女のしなやかな身のこなしを際立たせていた。
それに気づいたイヴは、顔を真っ赤にして照れくさそうに笑う。
「え、えへへ……。き、着替えるね!ほら、カインも!」
照れ隠しのように端末を操作する彼女が、一瞬の光とともに服装が切り替わる。
続いて俺も乾いた服へと着替えを済ませ、ここに来た目的を頭の中で整理した。
「水はひとまずこれで安心だな」
目の前にどこまでも広がる湖。
何億もの人間が一生かけても使い切れないほどの巨大な水源──。
これで第一の課題はクリアだ。
「でも、このまま飲んじゃダメだよ? ……あとは食料だね」
イヴはしばらく顎に手を当てて考え込んでいたが、ふと思いついたように表情を輝かせた。
「湖……ってことは、魚がいる! でも、また服が濡れちゃうなぁ……」
服の裾をパタパタとはためかせ、不満そうに頬を膨らませる仕草。
「まぁ……仕方ないか。カイン、今から今日の食料を捕まえるよ!」
「捕まえる? 一体何をするんだ?」
イヴが目の前の湖を指差す。
「ほら、さっき遊んでいたとき、水の中を生き物が泳いでいたの見えたでしょ? あれを捕まえるんだよ」
たしかに、足元を小さな影から大きな影までチラチラと泳ぎ回っていた。
あれを素手で捕獲するとなると……なかなかの難関だ。
「せっかくだから勝負しよっか。いっぱい捕まえた方が勝ちだよ」
「へぇ、面白そうだ。負けないからな」
不敵な笑みを残し、俺は再び湖の中へと踏み込んだ。
──30分後。
おかしい……まったく捕まえられない。
少し身体を揺らしただけで、すばしっこく逃げられてしまう。
息を殺してじっと耐え、ようやく手が届きそうになった瞬間、まるで背中に目でもあるかのように身をかわされるのだ。
イヴに目を向ければ、あちらも同じ状況らしく、時折悔しそうな声を上げて地団駄を踏んでいる。
「くそっ……! あと少しなんだけどな……ん?」
その時、何やら動きを止め考え込むイヴが視界に入る。
数秒後、ニッと怪しい笑みを浮かべると、彼女は端末を操作し始めた。
『モードB ネロ&ピュール』
手元に具現化した二丁拳銃の霊装。彼女はその銃口を迷いなく水面へ向けた。
「最初からこうすれば良かった……やっ!」
目にも留まらぬ手捌きで、次々と弾丸を叩き込んでいくイヴ。
激しい水柱が上がり、上空へと弾き飛ばされる大量の魚たち。
それを空中で正確に撃ち抜き、見事に砂浜へと打ち上げていく。
「は、ははは……これで弱くなってるって……?」
目の前で繰り広げられる神業に、引きつった苦笑いしか出てこない。
「ふぅ……。ふふっ、私の勝ちだね?」
胸を張り、ドヤ顔で勝ち誇るイヴ。
砂浜には、打ち上げられた大量の魚たちがピチピチと威勢よく跳ねていた。
「ははっ……参りました」
参ったと両手を挙げると、イヴは満足そうに満面の笑みを咲かせた。
絶対に怒らせないようにしよう──心の中でそんな軽口を叩きながら、俺も彼女の背中を追って陸へと上がった。
「ところで……これはどうやって食べるんだ? このままかぶりつくのか?」
跳ね回る魚を拾い上げると、ぬるりとした特有の感触と生臭い香りが鼻腔を突く。
小さな身体に似合わず、手の中で暴れる力は力強い。
「ダメだよ! ちゃんと火を通さないと危険だからね」
手際よく端末を操作し、キャンプの中心に薪を組んで火を熾すイヴ。
「私も記憶でしか知らないけど……こんな感じだったはず……」
思い出しながら、どこか拙い手つきで魚に棒を突き刺し、火の周囲に並べていく。
パチパチと薪が爆ぜ、魚が香ばしい音を立て始めた。
辺り一面に広がるのは、食欲を激しくそそる豊かな香り。自然と口内に唾液が溜まっていく。
それと同時に、腹の底から派手な虫の知らせ。自分が相当な空腹だったと思い知らされた。
「人間って……こうやって生きてきたんだね」
揺らめく炎を見つめながら、イヴが静かに呟く。
「本当に手間がかかるな。でも……幸せだ」
二人で肩を寄せ合い、温かな火を見つめる時間。
生きるという営みが、これほど多くの工程を必要とするなんて思いもしなかった。
だが、その煩わしさすらも愛おしく、愛おしい手間の一つ一つが胸を温かく満たしていく。
「そろそろかな? あちちっ……はい、カイン」
こんがりと絶妙な焼き色のついた魚が手渡される。
湯気が立ち昇る木の棒を握り締め、イヴと視線を交わした。
頷き合い、そのまま思い切りかぶりつく。
一口食べた瞬間、口の中に広がったのは、とろけるような身の柔らかさと香ばしい炭の風味──。
「……おいしいっ! すごい、すごいねカイン!」
イヴは目を輝かせ、はふはふと息を吐きながら夢中で口に運んでいる。
「リンゴとはまた違うな……。なんて表現すればいいか分からないが……これが『命』の味なんだな」
噛み締めるたびに溢れ出す、複雑で豊かな旨み。
熱々の身が舌の上で解け、五臓六腑にしみ渡っていく。
命をいただくという行為の、圧倒的な甘美さと尊さ。
「はふっ……はふっ……! んーっ!」
口いっぱいに頬張り、幸せそうに頬を緩めるイヴ。
その姿があまりにも愛らしく、こちらの表情まで緩んでしまう。
結局、二人で捕獲した魚の過半数をその場で平らげてしまった。
猛烈な空腹と、言葉を失うほどの美味に手が止まらなかった。
残った魚は端末の保存機能を使いストレージに収納した。
これがあれば、いつでも温かい食事にありつける。
「ふぅ……美味しかったね」
すっかり膨らんだお腹を抱え、俺たちは砂浜の上に並んで寝転がった。
いつの間にか陽は落ち、見上げれば吸い込まれそうなほど満天の星空が広がっている。
「ははっ、完全に食べすぎたな」
湖から吹き抜ける夜風が、火照った皮膚を優しく撫でていく。
「ねぇ……カイン」
隣で、イヴがぽつりと呟いた。
「きっと……これからもこうして二人で生きていけるよね?」
「ああ……きっと」
迷いなく応えると、イヴは安心したように目を細め、静かに微笑んだ。
「クラス5とのことが全部終わったら……またあのお花畑に行こうね」
「ああ……そうだな。大事な約束の場所だから」
顔を見合わせて笑い合い、穏やかな夜の静寂に身を委ねる。
もう二度と離れないよう、しっかりと繋いだ手を握り直して──。
世界が自分たちを許してくれるのかは分からない。
けれど、ほんのひととき、こうしてささやかな幸せを噛み締め合うことくらいは許されるだろうか。
与えられた偽物の人生ではなく、自分たちの足で歩み始めた本当の人生。
ようやく刻み始めた、二人だけの愛おしい時間。
この旅路の果てが、どうか優しい光で満たされていますように──と、静かに祈りを捧げながら。




